【キャッチ】
松田優作出演作最期の作品、初のソフト化!
オリンピック金メダリストのフローレンス・ジョイナーを共演に迎え、ドラマ「探偵物語」以来の、久々にして最後のタッグとなった、村川透演出作品!!
【セルDVD】【ドラマ】【2009年11月】
タイトル説明文2: 【ストーリー】
物語の発端は成田発バンコク行き航空機の爆破事件。松田優作扮する警視庁公安部外事課の凄腕警部補・兼城直也は、この事件に釈然としないものを感じながら、独自の捜査を展開。一方、フローレンス・ジョイナー演じるティファニー・ロバーツは、爆破された航空機に、養子・クリスが搭乗していたことから、特別な思いを抱いて事件の調査にあたるスポーツ・ジャーナリストとして登場する。二人の出会いは、あたかも運命の女神のいたずらのよう。それぞれ異なる立場にありながら、協力しあって捜査を進め、時にぶつかり合いながら、互いに魅かれていく・・・。
【キャスト】
松田優作/フローレンス・ジョイナー/香川照之/チャック・ウィルソン/小林稔侍/和久井映見/マイク真木
【スタッフ】
企画:岡田晋吉/小坂敬/黒澤満
脚本:古内一成
撮影:坂本典隆
監督:村川透
【放送日】1989年放送
【コピーライト】(C)日本テレビ/セントラル・アーツ
【スペック】
●ニュープリント・コンポーネントマスター
DSTD07004/3,800円(税込3,990円)/COLOR/本編116分/片面2層/1.主音声:モノラル/4:3
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
松田優作の遺作となったドラマ。バンコク行き航空機の爆破事件が発生。凄腕警部補の兼城と、この事件で養子を失ったスポーツジャーナリストのティファニーが協力しながら捜査を進める。オリンピック金メダリストのフローレンス・ジョイナーが共演。
ショイナーと優作の共演作が、松田優作の遺作とは・・・
松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年9月21日 - 1989年11月6日)は、山口県下関市生まれの日本の俳優、歌手。本名は同じで、旧名は金優作(キム・ウジャッ)。日本人の父と在日韓国人の母の間に産まれた。本当の誕生年月日は1949年9月21日だが母が「同級生たちよりも身体が大きいし、知恵も上で、有利になる」との考えで意図的に出生届の提出を遅らせたため、戸籍上は1950年9月21日生まれになっている。
概説
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から東映セントラルフィルム作品、角川映画作品でアクションスターとして人気を博し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。 主演したドラマ『探偵物語』など、後進への影響も大きく、男気にあふれ情に厚く、その勇猛な人間性と卓越した演技力から、1980年代を通じてもっとも重要な日本の映画俳優の1人と評価されている。
経歴
1949年9月21日 - 山口県下関市に生まれた。在日韓国人の母親の下、私生児として育つ。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチ近い大柄な男性だった。
1966年 - 下関市立文洋中学校卒業。下関市立第一高等学校(現:山口県立下関中等教育学校)に進学。
1967年 - 11月、「アメリカへ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により不本意ながら下関市立第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻が住む米国に米国籍を得る為に渡り、カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学、1年足らず滞在。
1968年 - 叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、9月、母に無断でシーサイド高校を中退し帰国。これより前、中学時代より空手他流派2段(徹子の部屋に出演時に自ら語っていた)を習っており、帰国後は、極真会館池袋本部道場で稽古をしていた(その経験は、後のアクションシーンの随所に活かされる)。長兄一家の池袋のアパートに居候して東京都豊島区にある私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。
1969年 - 3月、豊南高等学校卒業。
1970年 - 4月、関東学院大学文学部入学。
1971年 - 3月、文学座の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。
1972年 - 関東学院大学文学部中退。同年4月、文学座付属演技研究所十二期生となった。文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、後輩に中村雅俊、二期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に中退届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン / 岩城淳一郎役のオーディションを受けたという。また1969年頃の無名時代に新宿ゴールデン街でバーテンダー(トリスバー「ロック」にて)をしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子(『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役)や原田大二郎・村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。
村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞いて松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』に出演につながる。
1973年7月20日 - 人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事として出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。同年9月、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、のちに日本国籍となり、通名だった松田優作が本名となる。
1973年 - 二枚目アイドルだった志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にてスクリーン・デビュー。
1976年1月31日 - 1975年7月19日の日本テレビ『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの夜、19歳の予備校生に対して共演者Eと共に暴力を振るい、全治3ヶ月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。このため、1年間の謹慎生活を送る。身柄を東京拘置所に移された後、傷害容疑で起訴され、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。
1976年5月 - 東映『暴力教室』(岡本明久監督)がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。
1976年7月25日 - アルバム『まつりうた』で歌手デビュー。
1977年 - 角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
1978年 - 村川透監督の東映セントラルフィルム映画『遊戯シリーズ』第一作『最も危険な遊戯』主演(同年『殺人遊戯』、翌年『処刑遊戯』)。
1979年 - 村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演(翌年『野獣死すべし』)。TVドラマ『探偵物語』に主演、若者を中心に高い人気を得る。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。傷害事件の執行猶予満了。
1983年 - 森田芳光監督の映画『家族ゲーム』で、それまでのイメージを一新する役柄を演じ、数多くの賞を受賞。
1985年 - 『それから』で再び森田芳光作品に出演し、主人公を好演する。
1986年 - 映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることなり、これが初監督作品となる[10]。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である(この作品は石橋凌、寺島進の映画デビュー作品でもある。ここで役者に開眼した石橋は松田を師と仰ぐ事となり、音楽活動と平行して俳優業にも力を入れていくことになる)。
1988年 - アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。尚、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。
1989年11月6日 - 午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。享年40。
尚、『ブラック・レイン』の高い評価により、ハリウッドからロバート・デ・ニーロとの共演作などの出演依頼も来ていた。
松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん!起きてください!!早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。
亡くなった翌日放送の『夜のヒットスタジオSUPER』に於いて、追悼で松田が出演していたVTRが流れた後に司会の加賀まりこが涙を流して追悼のコメントを語った。
遺作となったTVドラマ『華麗なる追跡』は、「世界一速い女」フローレンス・ジョイナーと、「世界で一番速く走っている様に見せられる男」松田の共演、というコンセプトであったが、病魔の為思うように走れなくなっていた松田は、脚本や演出に手を入れてかなりの改変を加えた。スタッフの中には内心腹を立てた者もいたが、松田の死後にその理由を覚り、後悔したという。
人物
身長は公称185センチ(元妻の証言により、実際は183センチ)の長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、アクション・スタント シーンにスタントマンを使わない事でも有名。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。
デビュー時はアクションスターとして注目されたが、芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じたキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人、又野誠治など)を産んだ。漫画『北斗の拳』の主人公ケンシロウもパーソナリティ面で松田をモデルとしてスタートした。
性格は短気な傾向があり、興奮すると手が出ることも多かったそうである。しかし、決して好き好んで暴力を奮っていたわけではなく、相手が理不尽な事を言ってきたり、間違った事を言った場合のみに限られた。ただ、その一方で自分の仲間を非常に大事にしていたらしく、水谷豊、丸山昇一、佐藤蛾次郎など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。佐藤は後年「優作ほど先輩を立てる役者はいなかった」と振り返っている。店で打ち上げをやっていた時に、同じ店に来ていた他の客がバカにしたような口調で佐藤に「蛾次郎~!」と、囃し立てると松田は激怒し本気でその客に殴りかかりそうになったというエピソードもある。
元妻の松田美智子の話によると、優作は遊郭の一角で生まれ育ったことや韓国籍であることを死活問題のように悩んでいたという。また、美智子は「ファンが語る優作は、どこか漫画的です。血が通ってないというんでしょうか」と語っている]。
『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろ」と答えたという。実際、彼の演じるジーパン刑事が疾走するシーンは多くのファンを魅了し、「走る」事は同番組の基本コンセプトのひとつとして後々まで受け継がれた。
六月劇場の研修生だったころ、黒澤明監督の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫った。しかし、3日経っても黒澤に会う事は出来ず追い返されてしまう。後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語る。その言葉通りに、松田は逝去するまで黒澤映画に出演する事はなかった。
下積み時代、「俺が売れないのは一重瞼だからだ」とコンプレックスをもらしており、後に瞼を二重に整形している[13]。金銭面で困窮していた時期であったが何とか手術費用を捻出した。当時の二重瞼の手術の主流は切開法であり、術後約1週間で抜糸を行うが「費用がまた何万円もかかるのではないか…」と懸念した松田は抜糸予定日に病院へは行かず、自宅で鏡を見ながら裁縫用の小さなハサミを用いて抜糸をしたと語っている。その際、無理に糸を引き抜き、消毒も十分にしなかったため後々まで跡が残った。実際は抜糸までが手術費用に含まれており、再診でかかる費用はせいぜい消毒代と化膿止めの薬代、数千円程度であったと後に知り後悔したと言う。
普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程(美由紀夫人)だったと言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁のいわゆるオヤジ眼鏡だった。
『太陽にほえろ!』出演当時は運転免許を有していなかった為、車の運転場面は全て代役である。勝野洋や下川辰平も同様であった。後の『探偵物語』(1979年)ではベスパ(イタリア製スクーター)に乗っているが、自動二輪免許は所有していた。さらに後には4輪免許も取得。ドラマでベスパを使用することを助言したのは、友人の岩城滉一。当時松田優作は中型自動二輪免許を取得したばかりでプライベートではホンダGL400に乗っていたが「それダサイよ」の一言でドラマでベスパを使う決心をしたと言われている。
2009年、松田優作本人が穿いていたジーンズをイメージして作られた特製ジーンズ(股下38インチ、左フロントポケットはライターの定位置だったために四角形に色落ち)が20回忌となる11月6日にフルカウントより発売決定。
家族
劇団仲間であり、後に『完全なる飼育』などの代表作を持つ作家・松田美智子と1975年9月21日に結婚し、長女が生まれるも、女優・熊谷美由紀(現・松田美由紀)との不倫が原因で1981年12月24日に離婚。美由紀夫人とは、『探偵物語』の共演で出会い、龍平出産後に結婚。
美由紀との間に、順に長男・龍平(1983年5月9日生)、次男・翔太(1985年9月10日生)、長女(優作逝去時一歳)がおり、長男・次男は現在俳優として活動している。
全出演作品
テレビドラマ
柔道一直線(1969年 - 1971年・TBS) - エキストラ(試合を観戦する柔道部員)出演
太陽にほえろ!(1973年 - 1974年・NTV・東宝) - 市役所福祉課職員 役(第35話)、柴田純(ジーパン) 役(第53話 - 第111話)
赤い迷路(1974年 - 1975年・TBS・大映テレビ) - 都築潤 役
俺たちの勲章(1975年・NTV・東宝) - 中野祐二 役
大都会 闘いの日々(1976年・NTV・石原プロ) - 第4話「協力者」ゲスト出演 松宮次郎 役
夫婦旅日記 さらば浪人(1976年・CX) - 第17話「群狼の街」ゲスト出演
大都会 PARTII(1977年 - 1978年・NTV・石原プロ) - 徳吉功 役
森村誠一シリーズ・腐蝕の構造(1977年10月 - 11月)
大追跡(1978年、NTV・東宝) - 最終回ラストシーンにゲスト出演
あめゆきさん(1979年・TBS) - 山田わかの恋人 役
探偵物語(1979年 - 1980年・NTV) - 工藤俊作 役
春が來た(1982年・ANB) - 風見 役
死の断崖(1982年・NTV) - 尾形徹男 役
新・事件 ドクターストップ(1982年・NHK) - 相沢清二 役
ホームスイートホーム(1982年・NTV) - 第8話 - 第11話ゲスト出演
あんちゃん(1982年 - 1983年・NTV) - 第15話・第16話ゲスト出演 山本倉三 役
熱帯夜(1983年・CX) - 須藤英二 役
断線(1983年・ANB) - 田島(滝村)光夫 役
新・夢千代日記(1984年・NHK) - 岡崎孝夫・前田純孝 役
女殺油地獄(1984年・NHK) - 与兵衛 役
追う男(1986年・NHK) - 瀬木涼介 役
土曜ワイド劇場
桜子は微笑う ラストエンペラーに仕掛けられた妖しい女の罠(1988年、テレビ朝日) - 梔子玲三 役
華麗なる追跡(1989年10月7日・NTV) - 兼城直也 役(フローレンス・ジョイナーと共演)
映画
狼の紋章(1973年、東宝、監督:松本正志) - 羽黒獰 役
初映画出演作にして主人公の敵・羽黒獰役を射止めている。主演は志垣太郎。
ともだち(1974年、日活児童映画、監督:澤田幸弘) - 小松 役
竜馬暗殺(1974年、映画同人社・ATG、監督:黒木和雄) - 右太 役
あばよダチ公(1974年、日活、監督:澤田幸弘) - 夏木猛夫 役
暴力教室(1976年、東映、監督:岡本明久) - 溝口勝利 役
ひとごろし(1976年、永田プロ・大映・映像京都) - 双子六兵衛 役
人間の証明(1977年、東映) - 棟居刑事 役
最も危険な遊戯(1978年、東映、監督:村川透) - 鳴海昌平 役
殺人遊戯(1978年、東映、監督:村川透) - 鳴海昌平 役
沖縄列伝・第一 島小(しまぐわ)(1978年、自主ドキュメンタリー、監督:吉田豊) - 松田はナレーションを担当。
乱れからくり(1979年、東宝、監督:児玉進) - 勝敏夫 役
俺達に墓はない(1979年、東映、監督:澤田幸弘) - 島勝男 役
蘇える金狼(1979年、東映、監督:村川透) - 朝倉哲也 役
処刑遊戯(1979年、東映、監督:村川透) - 鳴海昌平 役
レイプハンター 狙われた女(1980年、にっかつ、監督:澤田幸弘) - 勧誘員 役(ゲスト出演)
薔薇の標的(1980年、東映、監督:村川透) - ホテルの客 役(ゲスト出演)
野獣死すべし(1980年、東映、監督:村川透) - 伊達邦彦 役
ヨコハマBJブルース(1981年、東映、監督:工藤栄一) - BJ 役
陽炎座(1981年、シネマ・プラセット、監督:鈴木清順) - 松崎春狐 役
家族ゲーム(1983年、にっかつ・NCP・ATG、監督:森田芳光) - 吉本勝 役
探偵物語(1983年、東映、監督:根岸吉太郎) - 辻山秀一 役
※テレビドラマの探偵物語とは全くの別物。
それから(1985年、東映、監督:森田芳光) - 長井代助 役
ア・ホーマンス(1986年、東映・キティフィルム、監督:松田優作) - 風 役
嵐が丘(1988年、西友・西武メゾングループMEDIACTUEL、監督:吉田喜重) - 鬼丸 役
華の乱(1988年、東映、監督:深作欣二) - 有島武郎 役
ブラック・レイン(1989年、ジャッフェ、ランシング・プロ、監督:リドリー・スコット) - 佐藤浩史 役