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お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

松田聖子とチューリップ

2023年06月19日 | テレビ
1983年入社して最初に付いた特番が「ライオンビッグステージ」。松田聖子と武田鉄矢が歌う歌番組である。

収録現場は今は無き大阪・厚生年金会館だったと思う。

仕事は「観客の拍手取り」。舞台の左右に同期のS君と僕が立って、観客に拍手を促すのだ。

松田聖子はこの時、既にスター街道を爆進中。武田鉄矢も売れていた。

「ザ・芸能界」に関われる「テレビの仕事」をしているとつくづく実感したものだ。

最近のアイドル「AKB48」などは「学校のクラスに一人はいる可愛い子」の集合体。

ファンの男性が「もしかしたら、この子と付き合えるかも。恋ができるかも」と思ってしまう「身近な存在」だ。それが「秋元康」の戦略。

一方、松田聖子は「カラダ全体から溢れ出るオーラ」を出していて、近寄り難い「アイドル(偶像)」。僕たちにとっては「テレビの中の人」。

それは僕が「制作部」に配属されて出会った早見優や河合奈保子、岡田有希子などにも言える事だったが、松田聖子はその「オーラ」が群を抜いていた。

僕はその後いろんな種類の番組でディレクターをやった。

「ワイドショー」「お笑い番組」「クイズ番組」「バラエティー」「中継番組」などなど。

ただ、「音楽番組」だけはやらなかった。「1小節」が数えられない「絶対音感」の全く無い僕にとってはその方が幸せだったのかも知れない。

同じ入社した年、僕は箱根の「音楽フェス会場」にいた。

「心の旅」などのヒット曲を歌った「チューリップ」の「フェス」だった。

この「フェス」をレコード会社が中継車を持ち込んでMVを作る為に録画する。10台以上のカメラを使って。テレビ局の音楽番組の中継と規模が違う。

そのラインアウトをもらった上で独自のカメラを数台出して、ウチの中継車で「フェス」の模様を収録。

これを企画したのは4年歳上のMディレクター。九州出身で「チューリップ」の大ファンである。

僕は「フェス会場」の何千人という観客の前、ステージ前にいて、「フェス」が始まる直前に「中継車にVTRを回してもらう合図を送る役目」。

だから、「フェス」が始まってしまうと、「チューリップ」の名曲を聴く事以外にする事が無い。

この時収録したVTRは2時間番組に編集されて、深夜に放送された。

Mディレクターが死ぬほど好きだった「チューリップ」というバンド。費用があまりかからないとはいえ、放送されるなんて、今思うと「なんてのどかな時代」だったんだなぁーと思う。

朝の連続ドラマ第1作「花いちばん」(1986年)の主題歌はMディレクターの口利きで、「チューリップ」の「愛の風」が使われている。財津和夫さんの作詞・作曲だ。ちなみにこの歌はCDに入っているのを見た事が無い。サブスクでは聴けるかも知れないが。

僕の「音楽番組」での数少ない経験を綴ってみた。

最近、「音楽番組」を観ていて思う事がある。「乃木坂46」や「EXILE」などのグループを撮る時、「カット割り」はどの様にしているかという事。

ディレクターもカメラマンもあの大勢の集団が激しく動き回る中、決まったメンバーをどの様にして撮っているのかが、僕の素朴な疑問!

遠くへ行きたい

2023年06月14日 | テレビ
「そこも行きたい!あそこも行きたい!楽しいわ、ディズニーランド!」

その国民的大歌手はそう言いながら、東京ディズニーランドを速足で駆け回っていた。

島倉千代子さんである。番組は「遠くへ行きたい」。

「東京ディズニーランドに行けるなら、番組に出ます」

そんな話を聞き、出演が決まり、ロケが実現したのだ。

カメラは島倉さんが目立たない様に、プロが使っているカメラでは無く、普通の人も使っている小さなビデオカメラ。

カメラが島倉さんを追いかけるが、彼女は「東京ディズニーランド」に来た事に興奮して、取材である事を完全に忘れている様だ。彼女の早足にカメラが追いつけない。

僕はこの時、番組のプロデューサーだった。島倉千代子さんのケアと「番組宣伝」の文章を書く為にロケに同行したのだ。

子どもの様にはしゃぐ島倉さん。本当に純粋で良い人だと思った。

ロケが終わって、「シンデレラ城」をバックに島倉さんを囲んでスタッフ全員で記念撮影。この写真は僕の一生の宝物だ。

「遠くへ行きたい」は1970年10月(大阪万博があった年)、放送開始。今年、放送53年目になる長寿番組。

当時TBSから出た有志が日本で初めて作った独立系制作会社「テレビマンユニオン」。

その「テレビマンユニオン」が初めて作った番組が「遠くへ行きたい」だ。

始まった時は、放送作家の永六輔さんが小型ロケカメラを引き連れて、毎週ロケに行っていた。

しかし、それではスケジュールがハマらなくなり、いろんな「旅人」がロケに行く様になった。

現在はこの「テレビマンユニオン」と、月1回「田園工房」が制作に当たっている。

「テレビマンユニオン」の制作形態は他の「旅番組」とは違う。

「旅人(タレント)」と「スタッフ」が3泊4日で「旅」をする事。だから、「マネージャー」は同行せず、「旅人」が食事も「スタッフ」と一緒に食べ、酒を酌み交わす。

そうする事で「旅人」はあたかも「実際に旅をしている気分」になっていく。

この事が「遠くへ行きたい」という「旅番組」を長寿番組にしている一つの要因だと思う。

ナレーションは「ディレクター」自らが書き、「旅人」がナレーションを読む。この「ナレーション録り」の時も「ディレクター」と「旅人」はディスカッションする。

最近のテレビ番組は「ナレーション過多」だと思うし、「タレントが喋ったコメントをほぼ全てスーパーで出す事」も如何なものかなぁーと僕は思っている。

テレビが「離乳食」になっている。視聴者が「咀嚼しなくていい」様になっているのだ。

これでは、テレビを観ても「想像力」はつかない。

先日亡くなった上岡龍太郎さんが言っていた。

「テレビ」を観ている暇があったら、「本」を読みなさいと。

僕も言いたい!

「スマホ」を見ている暇があったら、「本」を読みなさいと。

「スマホ」をめぐって、14歳の少女がカッとなって、実の母親を刺殺してしまった事件。

高級宝石店を杜撰な手口で襲う10代の少年たち。

最近、今までには考えられなかった事件が頻発している。

そんな事をしたら、どうなるか?

「想像力」が著しく欠如している様に思えてしょうがない。

誰でもが憧れる「旅」。そんなシンプルな事に視聴者の「想像力」を掻き立てて来た番組が「遠くへ行きたい」だと思う。

何か「衝動的」に行動する前に、立ち止まって、自分の中に蓄えられた「想像力」を使ってみよう。

きっと、「新たな人生」が開けるから。

鳥人間コンテスト

2023年06月13日 | テレビ
毎年夏に開催される「鳥人間コンテスト」(1977〜読売テレビ制作・日本テレビ系)。全国のバードマンが憧れる大会だ。

この番組、1985〜1995年、日本テレビ系読売テレビ制作で放送された「びっくり日本新記録」の中の1つの企画から誕生した。

僕たち新人AD3人も「鳥人間コンテスト」に駆り出された。

会場は琵琶湖畔・彦根市松原水泳場。

僕らが参加した1983・1984年は収録が1日だった。(現在は土日の2日間)

7月末、本番前日、僕らは宿泊先の「双葉荘」に荷物を置き、宿からすぐの収録現場を下見。夕闇に巨大なプラットホームが浮かぶ。

夕食後は総合ディレクターのNさんを中心に午前2時過ぎまで打ち合わせに明け暮れた。

琵琶湖は午後になると風が強くなって来るから、本番当日は早朝5時スタンバイ。6時からフライト・収録開始のスケジュール。

ところがところがである。Nディレクター始め、大広間で雑魚寝していたスタッフ全員が寝坊した。午前5時を大幅に過ぎている。

スタッフがいくつもかけていた目覚まし時計が鳴っても、2〜3時間の睡眠と疲れ。誰1人起きる者はいなかった。

もう飛行機のエントリーは始まっている。続々とこの日の為に作られた機体が高さ10メートルの巨大なプラットホームに上がって行く。

スタッフは急いでそれぞれの持ち場に散って行った。早朝から湿度は高い。

当時、エントリーは「滑空機部門」と「コミカル部門」。「人力プロペラ機部門」はまだ無かった。

僕と同期のS君の担当は「それぞれのチームの応援団」がいる「ヨットハーバー」で、フライトする飛行機の応援団を探して、小型カメラを彼らの前に誘導する事。

放送では、「フライトする飛行機」と「熱い応援を送る応援団」をカットバックする事で、視聴者の感動を盛り上げて行く。大切な取材なのだ。

重い「収録テープ」10本位入れたビニール袋を持ちながら、数百人いる群衆の中から「次にフライトする飛行機の応援団を探す仕事」は過酷を極めた。

琵琶湖に照り付ける夏の強烈な日差し。「ヨットハーバー」は白いコンクリートで出来ていて、照り返しも強く、下からも太陽の光線が飛んで来る。休み無く走り続けるS君と僕。

暑さでアタマがクラクラする。

暇を盗んで、中継車の裏に置いてある「巨大なポリバケツに氷を浮かべて冷やされた飲み物」で水分を補給しながら、早朝から夕方、日が暮れるまで、この「応援団探し」は続いた。

昼の弁当を食べるのも3分!フライトが途切れず続くから。

現在は「応援団ごとの席が柵で仕切られ、チーム名が書かれて、そこに応援団が集まっているシステム」が導入されている様だが。

日没近く、本部前で「表彰式」が行われ、大会は終了。

ADの僕たちは現場の撤収を手伝い、「双葉荘」で行われる「軽い打ち上げ」に出て、彦根駅から新幹線で大量の荷物を抱えて「局」に戻る。

翌日からが大変だ。日焼け止めを塗っていても、身体中が火傷している。「制作部」の多くの部員が同じ様な状態になっていた。

皮が何枚も剥けるのに半月以上かかった。

ただ、今思い起こして思うのは、「鳥人間コンテスト」の収録は「夏の暑さ」を感じさせてくれたという事。

この事がとても大事なんじゃないかと思う。

「朝の連続ドラマ」をやっていて、「冬の寒さ」を感じた時の様に。

「寒暖」という「人間の五感」を刺激する要素は「人の心」にとって、とても必要な事だ。

冷房や暖房の中で「オンラインゲーム」をするのもイイが、時には外に出て、「季節の風」をカラダに感じてみよう。

1983年「制作部」新人AD3人

2023年06月08日 | テレビ
入社した1983年、会社は大阪の東天満にあった。日本テレビに遅れる事5年、1958年に突貫工事でなんとか開局。

用地はお寺のお墓を移転して、そこに建てたものだった。「お墓の跡地」は縁起が良いらしい。

僕が「制作部」に配属された当時、5階にある「制作部」の北東の角の席は「鬼門」と呼ばれていた。

そこに座った部員が次々と亡くなったからである。もちろん、例外的に生き延びた人もいたが。

スタジオは2つにサブ(副調整室・ディレクター等が座り、スタジオに指示を出す部屋)が1つ。

つまり、一度に2つの番組は作れなかったのである。

建物は増築に増築を重ねて、複雑に入り組んでいた。

何故か、スタジオの中を通らないと行けない場所があったり。

一階には正面玄関とパーラーがあった。今みたいにテレビ局の警備も厳重では無く、玄関に警備員はおらず、誰でも自由に入れた。

その後、「包丁を持った男」が乱入して来て、警備も厳しくなった。

社屋の周りに目を向けてみよう。

目の前にあったのが、中華料理店「十番」。ここで、「11PM」のADをしていた同期入社のS君とは、本番の日、ラーメンとチャーハンを5分で食べた。

レストラン「バッファロー」。「高校生クイズ近畿大会」の長時間の会議の時、Iチーフ・プロデューサーが料理とビールの出前を大量に取ってくれた。

このレストランの料理は何を食べても脂っこく胃もたれがした。Iチーフ・プロデューサーが「ツケ」をものすごく溜めており、彼からの注文を店側は非常に嫌がっていた。

「11PM」のMC藤本義一さんとTチーフ・プロデューサーがリハーサルまで水割りを飲みながら待っていたステーキハウス「ティジャ」。正面玄関を出て、左隣にあった。西川きよしさんの妻・西川ヘレンさんの経営。

ここの「ステーキ重」は絶品だった。

僕はコンコンと店のドアを軽く叩き、店内に顔をそっと入れて、藤本さんに「リハーサルが始まる事」を伝えていた。

同期のAD・S君も藤本さんを呼びに行っていたが、「呼び込みの仕方」が荒っぽかったのかも知れない。(実際の現場を見ていないので分からないが)

藤本義一さんは2人のADの比較を連載中のエッセイに面白おかしく書かれた。

プロデューサーのNさんが好きだった鮨屋。どのネタもジメッと湿っていた。「新鮮」という
言葉と真反対だった。

Nさんが何故ここの湿ってじっとりしたお寿司が好きだったのか、今でも不思議に思う。

「11PM」の生放送が終わって行った店、二軒。

一軒はおばあちゃんが1人でやっていたお好み焼き屋。瓶ビールを勝手に出して飲んでいた。ここの特製餃子は美味しかったなぁ。

もう一軒は空心町の交差点にある「にんにくラーメン」。

チャーシューやもやし炒めをアテにビールをグビグビ飲みながら、「11PM」や「テレビ」について激論を交わした。それはいつも午前3時過ぎまで続き、帰りのタクシーに乗り込んだ時には東の空が明るくなっていた。

「制作部」の宴会は「南川会館」二階、畳敷きの大広間がよく使われた。

「制作部」はある種の「野武士の集団」。

宴会で僕たち新人AD3人が「一癖も二癖もある野武士たち」の前で「宴会芸」を披露する事になり、緊張しながらも一生懸命練習。白い白鳥の扮装をして「ラインダンス」を踊った。

緊張はMAXに達したが、先輩プロデューサーやディレクターにウケたかどうかはもう憶えていない。

何故、今回「旧々社屋」(開局当時の社屋)の事を書いたかと言うと、「テレビの黎明期の雰囲気」が残り、「分業化されていなかった番組作り」「世の中に『裏と表』があった時代」の事を書き記したかったからである。

「インターネット」も「スマホ」も無い「日常」。

1983年4月、2時のワイドショー」(1979〜1992)班には同期のU君。「11PM」(1965〜1990)班にはS君。「おもしろサンデー」(1982〜1992・関西ローカル)班には僕が配属された。

「制作部」は3班に分かれていた。

僕は同年7月に「11PM」班に異動になる。

ほとんどが社員。今の「制作部」の半分も人はいなかった。

新人AD3人は「テレビ黎明期の空気」を吸い込みながら、テレビマンとして育っていった。

後輩ADと日航機墜落事故

2023年06月07日 | テレビ
僕がテレビ局に入った1983年、「先輩」の言った事はADの僕たちには「絶対」だった。

「飲みに行くぞ!」と言われれば、必ず付いて行き、「麻雀をするぞ!」と言われれば、すぐさま雀卓を囲んだ。

それは「番組単位」での行動だった。

その頃のテレビ局には、「30代の社員」がほとんどいなかった。

開局して数年間、社員を採用し続け、飽和状態になった為、10年間定期採用が無かったのである。だから、団塊の世代がほとんどいない。

僕より5歳上の先輩が「定期採用再開」の一期生。

つまり、当時は40歳以上と30歳以下にはっきり「制作部員」が分かれていたのである。

そんな環境の中で育った僕たち。入社して、2年余りの歳月が経ち、ディレクターデビューした。

ある特番で僕のADに付いたI君。

外部の編集会社に行くのに、声をかけた。

「テロップ持ったよな?ほな、行こか」

「僕は今日これからバンドの練習があるので、編集には行けません」とI君は平然と言う。

僕は呆れて、言葉が出なかった。そして、I君は言葉通り、編集には来ず、テロップも僕が準備した。

そんな世代なんだ!
「制作部」の「徒弟制度」の中で育って来た僕には大きなショックだった。

I君が「社員AD」だから許された発言なのかも知れない。

僕がADの時は先輩ディレクターが編集している横に「ピタッ」と付いて、朝を迎えた事が何度もあった。

先輩から教わるのでは無く、見て盗もうとした。疑いも無く、自然に行動していた。

仕事が早く終わった時、そんな先輩ディレクターと会社近くの天神橋筋商店街の居酒屋によく飲みに行った。

キンキンに冷えたビールを飲みながら、仕事の疑問点を先輩から教わった。その「まったり感」が堪らなく好きだった。

その日も先輩ディレクターと二人で飲んでいた。ムッとした湿気に夏の暑さが包まれた日だった。晴れていた。快晴だった。

会社を出た時から目を射る様な西陽が眩しかった。

居酒屋のテレビから「ニュース速報」の音がした。

「JAL123便、大阪伊丹空港行き飛行機の機影がレーダーから消えました」

1985年8月12日の事だった。
「日航機墜落事故」だった。

それから20数年、僕は東京に異動。車で御巣鷹山に向かっていた。

御巣鷹山の麓は整備され、駐車場があり、そこから山を登る事約30分で「墜落現場」にたどり着いた。

大小様々な形の墓標が点在し、静かに時は流れていた。僕はしゃがんで墓標を拝んだ。

僕は「生」と「死」の事を考えた。

20数年前にテレビの「ニュース速報」で見た「事故」の現場に今自分は立っている。

御巣鷹山を下山し、車で東京へ向かった。

自分の中に溜まった「心の澱」はいつの間にか消えていた。

「バンドの練習で編集に付いて来なかったI君」は今、部長になっている。部下に対してどう接しているのだろうか?

歳月は「人間」を置いて過ぎ去って行く。

秘密のケンミンSHOWとハウフルス

2023年06月06日 | テレビ
15年前、「秘密のケンミンSHOW」の番組スタートの時、「宣伝」の仕事をやっていた。

この番組の制作会社は、「ハウフルス」。

「どっちの料理ショー」(日本テレビ)、「チューボーですよ!」(TBS)など料理を取り扱った番組作りでは定評がある。

「秘密のケンミンSHOW」でも、「試食コーナー」で数々の料理が出て来た。

出演者全員に出す料理。基本的には「フード・コーディネーター」が作るのだが、料理をスタンバイするタイミングが素晴らしい。

そして、「ハウフルス」の社員スタッフが総出で出演者の前に並べるのにかかる時間もものすごく速い。

「熱い鍋」「おでん」などは湯気がちゃんと立っているし、冷たい料理は、「試食コーナー」ギリギリまで冷やして、出演者の前に並べていく。

だから、出演者のコメントも正直に「美味しい!」と言えるのである。

僕が見た中で、いちばん凄いなぁーと思った食べ物がある。

「コーン」を熱い油でカラッと揚げ、その揚げたての「熱々コーン」の上に「何重にも巻いた冷え冷えのクリーム」を載せた「ソフトクリーム」。

上が「冷え冷え」で、下が「熱々」。その境目から「冷え冷えのクリーム」が溶けて、「ソフトクリーム」自体が崩れるのではないかと、僕はヒヤヒヤする。

それが出演者全員分、十数個スタンバイテーブルに並べられているのである。

MCから「試食コーナー」へのフリが終わった瞬間、スタッフ総出で「ソフトクリーム」を並べ出す。

瞬時で出演者の前に「冷え冷え熱々」の「ソフトクリーム」は並び、直ぐに秒読み。本番が再開。「ソフトクリーム」は崩れる事無く、「試食コーナー」も無事終わった。

「ハウフルス」という会社は「テレビ番組」を作るプロ集団だと思う。

創業者の方針で、「子供に見せられないテレビ番組は作らない」「遊び心を常に持ってテレビ番組を作る」という話を聞いた事がある。

この間、最終回を迎えた「タモリ倶楽部」(テレビ朝日)も「ハウフルス」の制作。

だから、「秘密のケンミンSHOW」、番組のバックにかかっている「音楽」が「映像」と「ダジャレ」になっていたりもする。エンドロールでは「スタッフの出身都道府県」も表記されている。

そんな「秘密のケンミンSHOW」、15年間放送して来て、「局のプロデューサー」はどんどん代わっていった。しかし、「ハウフルス」の制作スタッフの中には15年間、番組に関わり続けている人も多い。

ある時、「代わったばかりの局のチーフ・プロデューサー」が「ハウフルス」の番組スタッフ全員が参加する会議でこう言った。

「これからは局が『番組制作』の方針を決めていくからそのつもりでいる様に」

この「チーフ・プロデューサー」はバカである。

「強い誇り」を持って、「秘密のケンミンSHOW」の制作に長年携わっている「スタッフの気持ち」を完全に踏み躙っている。「人の気持ちが分からない者」に番組など作れる訳が無い。

「局のチーフ・プロデューサーは偉い」という大きな勘違いをしているのだ。

「制作会社」と「局」。地上波のテレビがインターネットからの強い攻撃を受けているこの時代、両者が知恵を絞って、「新しいソフト作り」を模索していかなければならないと思う。

いろんな「局」と仕事をしている制作会社「ハウフルス」。その積み上げられて来た「番組作りのノウハウ」はとても貴重。

これからも「ハウフルス」と共に「秘密のケンミンSHOW」の放送が続き、長寿番組の1つとなって欲しい。

上岡龍太郎さんの死

2023年06月05日 | テレビ
上岡龍太郎さんが逝った。僕は上岡さんは「不老不死」だと勝手に思っていた。

58歳で芸能界を引退されてから81歳で亡くなるまで公言されていた通り、横山ノックさんの告別式など数少ない機会を除いて、公の場に出られる事は無かった。

「親族だけの密葬」で済ませ、「お別れの会」も開かないというのも上岡さんらしい。

僕は30年程前、「EXテレビosaka」で2年間、上岡龍太郎さんと仕事をした。

それまでの僕は「朝の連続ドラマ」をやっていて、ドラマが無くなるという事で「EXテレビosaka」に異動になったのだ。

「EXテレビosaka」の番組コンセプトは「今までのテレビをぶち壊す事」。そんな番組で、僕がディレクター出来るか、非常に不安に思っていた。はっきりいうと、別の番組に異動したかった。

火曜日の「EXテレビosaka」は生放送。

上岡さんが一台のテレビカメラに向かって、一人で喋るだけの一時間。上岡さんは少し緊張感を持って、喋り続けた。他にこんな事が出来る芸人さんはいないだろう。

関西人にとって、上岡龍太郎さんは無くてはならない存在だった。「探偵!ナイトスクープ」(ABCテレビ 1988〜)の初代局長。「ノックは無用!」(関西テレビ 1975〜1997)の「立て板に水」の「魅惑の変身」賞品紹介。

そして、伝説のトーク番組「鶴瓶・上岡のパペポTV」(読売テレビ 1987〜1998)。上岡龍太郎・笑福亭鶴瓶のトークは極上な漫才だった。

武道館でもライブをし、さらにアメリカ・ニューヨークのカーネギーホールでもライブが行われた。

視聴者からの再放送やDVD化の要望は未だに強いが、実現していない。

上岡龍太郎さんは「カミソリ」の様な人だった。「EXテレビosaka」で上岡さんがスタジオ入りすると、スタッフの間に緊張が走った。いつ、どんな理由で「キレる」か分からない人だったから。

「キレる」のは「上岡龍太郎さん自身のルール」に外れたかどうか。そこだけは非常に明快だった。

「和歌山県には『視聴率調査機』が置いてないから、和歌山の人はこの番組を観なくて結構です」(真実かどうかは定かでは無い)

生放送で上岡さんが発した一言。局には多数のクレームが寄せられたが、この発言に対する上岡さんの姿勢は「EXテレビosaka」という番組が終わるまで変わらなかった。

上岡さん自身は「シャレ」だと思っていたのだろう。

ある時、「EXテレビosaka」で「録って出し(放送と同じ長さで収録して、そのまま編集せずに放送する事)」する事になった。夜に収録して、その日の深夜に放送するのである。

収録は順調に進んでいた。メインのフロア・ディレクターはN君。

そろそろCMに行かなくてはならないので、N君が上岡さんに両手で◯を作り、このコーナーがOKであるサインを出した。

それでもCMに行かない。これ以上「押す(スケジュールが遅れる)」と後のコーナーに影響する。

N君は上岡さんに両手で大きく×を出した。何とかCMに入った。

すると、上岡さんがスッとMC席を立ち、N君の所にツカツカと歩み寄り言った。

「このスタジオをお前が出て行くか、俺が出て行くか?」
MCの上岡さんのプライドを傷つけた様だった。

N君は僕に後を任せて、スタジオから走り去った。

突然、僕はメインのフロア・ディレクターになった。しかもMCの上岡さんは怒っている。

ドキドキしながら、役目を務めた。
収録が時間内に入らないと「放送事故」になる。

最後のCMに入り、タイム・キーパーから、ラストのコーナーの時間が1分37秒であると連絡が来た。

僕は恐る恐る上岡さんの横に行き、その時間を小声で伝えた。

上岡さんは、「さっきキレた事」が恥ずかしかったのだろう。僕の方を見ず、前を向いたまま、「うむ」と軽くクビを縦に振ってくれた。

僕は上岡さんに「秒読み」。上岡さんはきっちり時間通りに番組を終わってくれた。

上岡龍太郎さんは「どこか子供の様な人」だと僕は思う。可愛らしさがあった。

もう「上岡龍太郎の様な芸人」は二度と出ない。

「偉大な『芸人』の死」。
それが僕に大きなショックを与えた真の理由かも知れない。

「11PM」のスタッフとは・・・

2023年06月01日 | テレビ
「11PM」のタイムキーパー(番組を時間内に収める人)をやっていて感じた事。

それぞれのディレクターの個性をしっかりと把握する必要があると。せかせかした人もいれば、のんびりした人もいる。個性によって、「時間読み」も違って来るのである。

「木曜イレブン」のプロデューサーであり、ディレクターでもあるNさん。「鳥人間コンテスト」のディレクターも長年務められた。

Nさんの印象は「静か」で「聡明」な人。

僕のAD修行時代、Nさんの取材によく同行した。

ある日、取材は手際良く終わり、大阪空港からタクシーで局に帰る最中、凄い豪雨だった。

Nさんが今回の取材に関して、僕にアドバイスをしてくれている様子。

しかし、普段からNさんの声は小さい。外の豪雨の音も相まって、全くアドバイスが聞こえない。

僕はNさんの方を向き、時折無理矢理相槌を打つが、その相槌のタイミングが違う様だ。怪訝な顔のNさん。

Nさんはサブでディレクターをやっていても静かだ。必要な画だけをスイッチャー(カメラを切り替える人)に伝え、後は悠然と構えている。

Nさんがディレクターだと、インカム(ディレクターやスイッチャーがスタジオに指示を出すシステム)回線が静かでとても「タイムキーパー」がやりやすかった。

普段、本番の無い日、Nさんは帰る時、ジーパンの後ろポケットに翻訳物の文庫を入れ、手にはカバンも何も持たずに静かに席を後にする。その姿がとってもカッコ良かった。

「木曜イレブン」のディレクター Iさんは「全共闘世代」。

売れる前の「タモリさん」を「イレブン」に出演させた人。「タモリさん」がイグアナのマネをしていた頃の事。

この人は色んな分野をやるが、「文化の匂い」がする「考現学(現代を考える学問)」が特に得意。理論派。

藤本義一さんとスペインにロケに行って、天本英世さん(主に悪役を演じた俳優)を出演させたのもこの人らしい。

ディレクターのMさん。普段は本当に温厚だが、ディレクター席に座ると人格が変わる。

髪を振り乱してとことん五月蝿く狂気の人になるのである。

これほど、豹変する人を見た事が無い。Nさんがディレクターをやる時、僕はタイムキーパーとして、静かに存在を消す様にしていた。

若手筆頭ディレクターのSさん。「11PM」でも毎回、斬新な企画をやっていた。出演者やスタッフのテンションを上げるのが天才的に上手かった。

「藤本義一、風俗嬢と1時間生電話」等。

Sさんは後に「鶴瓶・上岡のパペポTV」「大阪ほんわかテレビ」「ざまぁKANKAN!」「EXテレビosaka」「ダウンタウンDX」等の番組を立ち上げる。僕らADの麻雀仲間でもあった。お酒は一滴も飲めない。

「火曜イレブン」。プロデューサー兼ディレクターはOさん。元々は「照明」。現場叩き上げという印象が強い。

地声が大きく、カッとなりやすい傾向もある。見るからにディレクターっぽい人。

生放送中にディレクター席からスタジオにいるフロアディレクターのミスに
「憶えとけよ!◯◯」と怒鳴った時の怖さが忘れられない。

K.Kさん。職人ディレクター。「火曜イレブン」の担当が2週に一回回って来ても、テーマを見つけてさりげなく良質の番組を作っていく。この人の怒った姿を見た事が無い。

同じく、「火曜イレブン」。K.Yさん。音楽が好きで人脈が途轍もなく広い。K.Kさんと共に、2週に一回ディレクターをやっていた。

僕が2週に一回テーマを見つけてディレクターする立場だったら、気が狂いそうになっていたかも知れない。

当時はまだインターネットも無い時代。番組のテーマを見つけるにも全て自分で考えなくてはならなかったからだ。

K.Yさんはスタッフと飲みに行っても、二次会に行く途中でフェードアウトするのが巧かった。イイ意味で「自由人」。

人脈の広さゆえ、毎年、制作部に来る年賀状の数ではぶっちぎりの第一位。

僕の2つ上のディレクターYさん。とても優しい。人格者。

Yさんのディレクターデビュー作「歌手・上田正樹の世界」の大阪・鴫野ロケでは僕と同期のSが収録テープを持って駆けずり回った。

放送された番組はYさんの「優しさ」が滲み出た良い番組だった。

他にも入れ替わり立ち替わり、「11PM」のスタッフは変わったが、主にこの様な面子でやっていた。

最後にチーフ・プロデューサーのTさん。「鳥人間コンテスト」のプロデューサーでもある。

お酒が好きで、よく飲みに連れて行ってもらった。少し不器用なところがあったと思うが、僕はTさんのそんなところが好きだった。AB型で普段は常に冷静だった。

藤本義一さんがリハーサルまで、局の隣のステーキハウス「ティジャ」で水割りを飲んでいる。それに毎週火曜日と木曜日付き合っていたのがTさん。

藤本さんの信頼は絶大だった。

「11PM」の会議・慰安旅行で「ソープランドの街」として有名な雄琴温泉にプロデューサー・ディレクター全員で行った。

温泉に入り、午後3時から、旅館の大広間での会議。「何が『イレブン的』か?」で若手とベテランが大討論になった。

そもそも、「イレブン的」と言った時点で、「既成の番組を念頭に置いて作っていないか?」と若手。

それに反論するベテラン。良い意味で、「11PM」という番組への熱い情熱が両者共にあったと思う。

周りの「ソープランド」の灯りが一つまた一つと消えてゆき、やがて外は真っ暗になった。

時刻は午前0時を回っていた。

会議は結論が出る事無く解散。若手は勝手に麻雀を始めていた。

「オレも混ぜてくれ!」
Nプロデューサーが来て、僕たちにそう言った。5人麻雀が始まった。

朝、何台かの車に分乗して「ソープランドの街・雄琴温泉」から帰る時、誰かが言った。

「『雄琴』の稲は成長するのが速いんだよなぁー。夜も周りの『ソープランド』のネオンが明るく輝いているから」

我々は「ソープランド」には行き損なったが、何か「大切なもの」を得た気がしていた。

松本真実・イレブンギャルとの淡い想い出

2023年05月30日 | テレビ
「11PM」の生放送冒頭、水着ギャルの顔のアップからカメラが引いて来て、全身になるカットがある。

その20秒のカットに「踊り子が踊る、動くスーパーテロップ」が上に乗っかる。

1983年当時、「生のスタジオの映像に、『動くスーパーテロップ』を乗せる」為には、タイムキーパーが「テレシネ(フィルムを再生する部署。タイムキーパーがフィルムを事前に持って行く)」にマイクで呼びかけ、フィルムを再生してもらっていた。

いわゆる、「ダバダバダバダバ」という部分である。

入社したての僕たち新人ADの仕事は、「水着ギャルのポーズ付け」。

火曜イレブンは毎週、「水着メーカーや航空会社のキャンペーンギャル」が週替わりで来ていた。密かにどんなギャルが来るか楽しみにしていた。

「ポールを持って踊る水着ギャル」の事前収録も担当。この時代、まだ売れる前の山口智子や鷲尾いさ子なども来ていた。

「モデル」と違って、「キャンペーンギャル」の多くは「どんなポーズをしたら、セクシーに映り、テレビの前の男性視聴者が喜ぶか?」がまだ身に付いていない子が多かった。

CM入りの5秒カット(Qショットという)で、あらかじめ「ギャル」と話をしながら、僕たち新人ADはポーズを決めていく。カメラさんとも生本番中に打ち合わせ、「足元から舐める様に撮って下さい」とか指示を出していた。

毎週の事だから、段々こちらも「セクシーショット」のアイデアが無くなってとても困る事がある。

木曜イレブンの「ギャル」は1〜2年の固定制。

僕が「11PM」をやっていた時、一緒に仕事をしたのは、「松本真実」と「小野リエ」。

特に「小野リエ」は普段モデル業もやっていたから、「Qショット」が来る寸前まで、ダランとしていても、自分で瞬時にポーズを付け、それが男心をそそった。自分がどう男性に見えているか、彼女はよく分かっていた。

「松本真実」は「真面目な女の子」だった。僕らと相談しながら、ポーズを作ってくれていた。

2年の歳月が流れ、「松本真実」が番組を卒業する事になった。

その頃、「11PM」のスタッフから「『松本真実』が僕の事を好きだ」と聞いた。

極度の人見知りの僕は「女性」を好きになると猪突猛進。「女性」の重荷になって、大概フラれてしまう。

そして、「『女性』が僕を好きになっているか?」に気が付かない事が圧倒的に多かった。

そんな事に、とっても疎かったのである。「女性」の「仕草」「顔の表情」「言葉」の意味がさっぱり分からない。男子校育ちだからか。

当時、「番組制作」の仕事がとっても楽しかった。不規則な仕事で「恋人とデートする時間」もほとんど無かった。

25歳前の僕にはまだ「結婚願望」も無かった。

「松本真実」のお別れ会の日が来た。一次会は藤本義一さんも出席され、彼女とスタッフで鍋を囲んだ。寒い冬の夜だった。

二次会はミナミのディスコ。僕はイイ感じで酔っていた。

最後は「松本真実」と全スタッフが一人一人握手。それぞれが言葉を交した。

スタッフが気を利かせたのか、僕が最後になった。

「松本真実」の目を見つめた。泣きそうな顔になっていた。

身長188センチの僕は屈みながら、170cmの彼女の唇にフレンチキッス。

周りから何故か湧き起こる拍手。

あれから40年以上。「松本真実」は結婚して子供もいるのだろうか?同じ東京の空気を吸っているのだろうか?

「11PM」ギャルの淡い想い出。

TMC(東京メディアシティ)

2023年03月27日 | テレビ
TMC(東京メディアシティ)。僕が「番組宣伝」の為に通っていた時、TMCには7つのスタジオがあった。

フジテレビが2つ。カンテレが2つ。TBSが2つ。国際放映が1つである。

フジテレビは主にドラマ(「古畑任三郎」など)、カンテレもドラマ、そしてTBSのスタジオはバラエティー(「ダウンタウンDX」など)に貸し出していた。

「国際放映」所有のTMC-1スタジオはスタジオ使用料が安く、東海テレビの昼帯ドラマなどで使用されていた。

TMCは世田谷区砧にあり、祖師ヶ谷大蔵駅から徒歩15分。芸能人の皆さんも近くに住んでいる人が多く、番組収録には至って便利なスタジオだった。

TMCに「ダウンタウンDX」の宣伝に行っていると、知り合いのタレントさん、スタッフとよく顔を合わせた。

フジテレビがザ・ドリフターズ「ドリフ大爆笑!」のオープニングを収録をしていた時、ダウンタウンの浜田雅功さんがそのスタジオを訪れていた事もあった。ざ:ドリフターズとダウンタウンの浜田雅功さん、凄い画面だ。

木村拓哉さんが浜田雅功さんと一階にある喫茶ルーム「今昔庵」で談笑をし、盛り上がっていたのを見た事もある。2人はTBSドラマ「人生上々だ!」(1995年10〜12月)で共演している。

そもそも、TMCは「新東宝撮影所」が発端。

その後、テレビ創世記のドラマ(「チャコちゃんシリーズ」「ケンちゃんシリーズ」)などを製作する「国際放映」となり、現在に至っている。テレビドラマの最盛期には、「国際放映」の前に数十台のロケバスが並んだと言う。

フジテレビもカンテレもTBSも「国際放映」に使用料を支払って、運用していたのである。

フジテレビは「フジテレビ湾岸スタジオ」が出来ると、2つのスタジオを「国際放映」に戻し、ドラマ・バラエティー共、8つのスタジオがある「湾岸スタジオ」に収録の拠点を変更している。

仕事の前後には、好奇心から他のスタジオにどんな番組が入っているかを見る為に、TMC内をうろちょろしていた僕がいた。

TMCの一階の「今昔庵」という軽食を出す喫茶店。ここのマスターが優しいけど少しエキセントリックだった。

席が空いているからと言って、勝手に座ろうものなら、マスターの怒りを買い、キツく怒鳴られた。

それからは必ずマスターに聞いてから、着席する様にしたところ、本当に優しく接してくれた。僕は「今昔庵」のオムライスとミックスジュースが好きだった。

しかし、理由は何だったのか分からないが、今「今昔庵」は無い。

店が閉まる時も週刊誌の記事になる程、「芸能人御用達の店」だったのに。

今では、「秘密のケンミンSHOW極」も「東京タワースタジオ(昔の『テレビ東京』の社屋)」が無くなったので、TMCで収録している。

カンテレのドラマや昔の「古畑任三郎」の再放送を見ていると、ここはTMCの二階の廊下やな、とか、これはTMCのすぐ外の広場やなという事がすぐ分かる。

新東宝撮影所→国際放映→TMC、この地に撮影魂あり、と言ったところだろうか?

「今昔庵」のマスター、元気にされているかなぁー。心臓に持病をお持ちになっていたので、とても心配している。

アニメの巧者

2023年03月09日 | テレビ
「手塚先生、サイン下さい!」
僕の同期入社・諏訪道彦はメイク室、手塚治虫さんの前に立っていた。手塚さんは色紙にサラサラと「ジャングル大帝」を描いてくれた。

1985年3月21日、「11PM・手塚治虫特集」で僕がディレクターデビューした生放送、本番直後の事だった。

「どんな事があっても、手塚治虫先生にサインをもらいます。会社を辞めろと言われても!」
彼は大先輩のプロデューサー諸氏にそう宣言していた。

愛知県豊田市出身の諏訪は幼い頃から「漫画」が大好きだった。

彼は、全ての週刊漫画誌、月刊漫画誌、その他の漫画に目を通していた。本当に漫画とアニメが大好きだった。彼の家は押し入れまで、漫画が山積みにされていた。

うちの局に入社したのも、「巨人の星」「タイガーマスク」「ルパン三世(1st season)」「宇宙戦艦ヤマト」「天才バカボン」などを制作していたからである。

諏訪と僕の付き合いは長い。同じ大学に通い(彼は工学部、僕は経済学部)、偶然「バスケットボール愛好会」でも一緒になった事があったから。

性格も真反対。彼は社交的で人見知りを全くしない。それに目立ちたがり。

僕はシャイで人見知り。目立つのが嫌でしょうがない。

全く合いそうにも無い性格だったからこそ、逆に合ったのかも知れない。

さらに、愛知出身の諏訪の住んでいた家と僕の実家の最寄り駅が一緒だった。

よく二人で飲み、終電で帰り、駅のベンチに座って、「11PM」の事などいろいろ話をしたものだ。

「11PM」で、諏訪は大阪大学の大村助教授と共に、テレビで多分初めて「CG」を使った。歌手が歌うバックの壁を「CG」で作ったのである。

「11PM」での諏訪との仕事は2年弱。その後、彼は念願の東京支社「アニメーション部」に異動になった。

それからの諏訪道彦の快進撃は凄かった。東京に異動した当初はヒット作もなかなか出なかったが、テレビアニメ「名探偵コナン」(1996〜)でクリーンヒットを飛ばす。

彼は「名探偵コナン」の映画化も企画し、今では映画界でも欠く事の出来ない一大コンテンツとなっている。

「金田一少年の事件簿」「YAWARA!」
「犬夜叉」
「ブラックジャック」
「シティーハンター」
「コボちゃん」
「結界師」

などなど。

アニメの原作を書いている漫画家との付き合いも諏訪ならではのものがある。

「犬夜叉」の高橋留美子先生とはたくさんのスタッフを引き連れての沖縄旅行を企画し、実現させた。

様々な段取りが団体旅行にはあると思うが、彼の強引なパワーがそれを成功に導き、高橋留美子先生始め、スタッフから好評を得たと聞いている。

諏訪と飲んでいて、突然、「シティーハンター」の原作者・北条司先生の自宅に行こうと言い出した。

アニメ「シティーハンター」にも関わっておらず、人見知りの僕は30分後には北条司先生の御自宅マンションに座っていた。

「どうして僕はここにいるんだろう?」
不思議な感じがした。
北条司先生も見知らぬお客に戸惑っておられる様だった。

諏訪は写真週刊誌に撮られた事があった。
いつも、有名漫画家の直筆で描かれたアタッシュケースを持っているアニメプロデューサーとして。

テレビアニメ「名探偵コナン」の「アフレコ」は毎週行われる。声優さん達の声の調子を保つ為、二本録りとかは出来ないのだ。多分、他のアニメでも一緒だろう。

「名探偵コナン」の「アフレコ」の後は、毎週、諏訪主催の40〜50人規模の飲み会が安めの居酒屋で行われていた。

これは、「名探偵コナン」のキャスト・スタッフが1つのチームになる為に、諏訪が考え出した手法。

宴会の終わりには、
「はい、これ東京宣伝部の領収書ね!支払いよろしく!」
「はい、これ小学館さん!」
「はい、これトムスさん!」

宴会に参加した各会社・各部署に領収書が諏訪の独断で振り分けられる。
最初はちょっと「引いた」が、そんな儀式も諏訪らしいと僕は思っていた。

この宴会に参加して、当時「名探偵コナン」の宣伝担当だった僕。

主役を演じておられる高山みなみさんと話が出来、それが後々の取材に繋がったりして、「飲みニケーション」として使わせてもらった。

そんな諏訪道彦が関わっている新作アニメーションの製作が着々と進んでいる。

どんな作品になるか、今からとっても楽しみにしている。

彼の作るアニメーションは、彼のエネルギーに満ちあふれている。

かけがえのない親友である。



「ゆく年くる年」の生中継

2023年02月24日 | テレビ
日本テレビは毎週木曜19:30から「木曜スペシャル」という番組をやっていた。「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「ピラミッド特番」が放送された枠である。

毎年11月、その枠でうちの局は、「全日本有線放送大賞」を大阪・フェスティバルホールから生放送。
その年に人気のあった歌手を大阪に集めての歌番組。

僕も何度かスタッフとして参加したが、一年に一度の大型歌番組。フロアディレクターをやっていて、どれだけ緊張したか分からない。

同じ、木曜日。21:00からTBS系では、久米宏、黒柳徹子司会、伝説の歌番組「ザ・ベストテン」の生放送があった。

そして、23:20、うちの本社では「11PM・おめでとう有線放送大賞」の生放送。

大阪に有名な歌手が集まっている。当然、「ザ・ベストテン」にも複数の歌手の楽曲がランクインする。

TBS系MBS毎日放送はフェスティバルホールからうちの局までの間に生中継をしなければならないという状況に陥っていた。

「しぶがき隊」が国道2号線を走る二階がオープンになったバスの上で歌った事もあるし、うちの局のロビーから二階のパーラーに上がる螺旋階段で「中森明菜」が歌った事もあった。

僕はこの生放送の3連チャンを観て、毎年興奮したものだった。

子供たちの楽しみ、大晦日。
親たちに何の気遣いもせず、夜遅くまで起きていられる貴重な日。

この日も生放送の3連チャンがあった。

まずは19:00から始まるTBS「輝く!日本レコード大賞」。21:00スタートのNHK「紅白歌合戦」。
そして、23:45民放全局(多分、当時100局以上でネット)で生放送される「ゆく年くる年」であった。

この「ゆく年くる年」、日本テレビ系列始め、各系列が毎年持ち回りで番組制作を担当していた。

ある年、日本テレビ系で制作される事になり、滋賀の三井寺からの中継に僕も駆り出される事になった。

「全国各地のお寺の鐘の音」で「蛍の光」を演奏しようという特別企画。三井寺の鐘はそのいちばん最初だった。

昼過ぎ、三井寺に着き、セッティングが始まる。三井寺の中継時間はカメラ4台で40秒。

夕方になり、日も暮れて来ると途端に底冷えがし、立っていても歯がガタガタなる程寒い。

プロデューサーが日本酒を一升、やかんにぶち込んでスタッフ皆んなに振る舞ってくれた。嬉しかった。

僕の役割はTK(タイムキーパー・日本テレビから三井寺の中継に来るまでの時間、三井寺の中継時間をディレクターやスタッフに伝える人のこと)。

カメラリハーサルは上手くいった。日本武道館で指揮をする加山雄三さんが指揮棒を振り上げた瞬間に、三井寺のフロアーディレクターが鐘を撞くお坊さんにキュー(合図)を出す。

このタイミングでキューを出す訳。それは、鐘を撞くには木でできた太い棒を一旦引いてから振り下ろさないと、鐘が撞けないから。タイムラグがあるのである。

いよいよ、23:59生本番。
加山さんがリハーサルと同じ様に指揮棒を上げた。三井寺でお坊さんにキューが出る。お坊さんは木の棒を思いっきり引く。

そこで思わぬ事態が生じたのである。

加山雄三さんが一言喋った。リハーサルとは違う。そして、一拍あって加山さんは指揮棒を振り下ろした。

三井寺に中継の映像が切り替わる。その時、鐘は既に撞き終わっていた。カメラ目線の驚愕したお坊さんの表情が映し出される。

フロアディレクターが見切りながら(画面に入りながら)、お坊さんにもう一度キューを出している。

お坊さんは気を取り直して、鐘を鳴らした。そして、全国のお寺の鐘の音による壮大な企画「蛍の光」は始まった。

元旦の早朝、僕らスタッフは局に帰る為にロケバスに乗っていた。何とも言えない沈黙が車内を支配していた。名神高速を走るバスの車輪の音だけが鳴り響いていた。

全くもって、愛でたい元旦とは言えなかった。苦々しくも、今となっては懐かしい思い出。


連続ドラマプロデューサーとテレビ局への就職

2023年01月20日 | テレビ
連続ドラマ・プロデューサーの仕事とは?
 

・企画を考え出すのは、放送の1年以上前から。

・原作・漫画・映画・芝居…世間ではやっているもの・海外ではやっ 
ているものを観に行く。体験する。

・会議を重ね、プロット(あらすじ・登場人物のキャラクター)を作る。そして、キャスティングへ。

同時に、グループインタビュー等のマーケティング・調査も。

ドラマは企画優先。企画が面白いから、そのドラマに俳優さんが出演しようと思う。

前のクールに同じような企画を他局にやられ、急遽、別の企画を考える事も。

実際のプロデューサーの仕事
企画作り。脚本家・監督・音楽・キャスト・スタッフの選定。キャスティング。

脚本作り(時には放送された何倍ものプロットを作る事もある)。

予算管理。

現場がいちばんいい雰囲気でやりやすいようにするムードメーカー的存在。

撮影が始まる前におおかたの仕事は終わっている。

ポスター撮影。記者会見。広報戦略。スポンサーへのプレゼン。

収録・編集・MA(音楽とかナレーションを付ける作業・・・音楽の入れ方一つでドラマの面白さが変わる大切な作業)のスケジュール調整。

俳優について。ある時は、プロデューサーは詐欺師。

すべての俳優の言い分を聞いていたら、大変なことになってしまう。

複数の監督のタッチの調整。編集・MAでの打ち合せ、手直し、撮り直し。

ロケ弁当・炊き出し・差し入れ。ロケなどの中止するかどうかの判断。

現場が上手くいっていると、プロデューサーはすることがない。

派手に見えるが全くそうではない。苦情処理係り。

考査(コンプライアンス)の事(はだか…暴力…)。スポンサーがらみ(車の事故はやめて欲しい、等)。 

プロデューサーという仕事で何が大切か?

体力。好奇心。かわし方。しかし、いちばん大切な事はこんなドラマを作りたいという情熱。

それがないとこんなしんどい仕事できない。

人を大切にすること。天才ならば別だけど。

人の才能をどういう風にかけ合わせ、積み重ねて、素晴らしいドラマにするか。

どれだけ、社外の人と知り合えるか。

自分にしかできないジャンルを一つ持つこと。

在阪テレビ局・面接の通り方の極意↓

面接官を笑わすこと。面接官の気持ちがほぐれて、共有感が生まれる。

面接官のほとんどが関西人なので、「笑い」は有効な手段。

まずはそのテレビ局の作っている番組を把握。その局の番組に関しての質問される場合あり。

就職雑誌や就職の本で憶えた受け答えはすぐバレる。

難しい言葉を使うのではなく、普段自分が使っている言葉でしゃべる事が肝要。

自分の得意分野の質問が来たら、さりげなく、その話題を少しでも長く持たせる事。

その為には、提出する履歴書に「面接官」が引っかかってくれそうな「趣味」とか「話題」を書き込んでおく。

一人当たりの面接時間は3分程度なので、「自分の得意とする話題」を少しでも長く話せば、「自分の不得意な質問」に受け答えする時間が減るから。

僕の場合は「乗り鉄」と履歴書に書いたら、面接官の制作部長も偶然「乗り鉄」で終始その話題だけで盛り上がった。

世間の「プロデューサーのイメージ」とは違う部分もあるが、参考までに書き連ねてみた。テレビという媒体もまだ捨てたものじゃない。

クロちゃんの本。僕らはモンスターラブの大きな策略に騙されてはいないか?

2022年12月24日 | テレビ



リチは本当にクロちゃんを好きなのか⁉️


「水曜日のダウンタウン」リチのプロフィールは?

2022年11月26日 | テレビ
可愛いなぁー