僕がテレビ局に入った1983年、「先輩」の言った事はADの僕たちには「絶対」だった。
「飲みに行くぞ!」と言われれば、必ず付いて行き、「麻雀をするぞ!」と言われれば、すぐさま雀卓を囲んだ。
それは「番組単位」での行動だった。
その頃のテレビ局には、「30代の社員」がほとんどいなかった。
開局して数年間、社員を採用し続け、飽和状態になった為、10年間定期採用が無かったのである。だから、団塊の世代がほとんどいない。
僕より5歳上の先輩が「定期採用再開」の一期生。
つまり、当時は40歳以上と30歳以下にはっきり「制作部員」が分かれていたのである。
そんな環境の中で育った僕たち。入社して、2年余りの歳月が経ち、ディレクターデビューした。
ある特番で僕のADに付いたI君。
外部の編集会社に行くのに、声をかけた。
「テロップ持ったよな?ほな、行こか」
「僕は今日これからバンドの練習があるので、編集には行けません」とI君は平然と言う。
僕は呆れて、言葉が出なかった。そして、I君は言葉通り、編集には来ず、テロップも僕が準備した。
そんな世代なんだ!
「制作部」の「徒弟制度」の中で育って来た僕には大きなショックだった。
I君が「社員AD」だから許された発言なのかも知れない。
僕がADの時は先輩ディレクターが編集している横に「ピタッ」と付いて、朝を迎えた事が何度もあった。
先輩から教わるのでは無く、見て盗もうとした。疑いも無く、自然に行動していた。
仕事が早く終わった時、そんな先輩ディレクターと会社近くの天神橋筋商店街の居酒屋によく飲みに行った。
キンキンに冷えたビールを飲みながら、仕事の疑問点を先輩から教わった。その「まったり感」が堪らなく好きだった。
その日も先輩ディレクターと二人で飲んでいた。ムッとした湿気に夏の暑さが包まれた日だった。晴れていた。快晴だった。
会社を出た時から目を射る様な西陽が眩しかった。
居酒屋のテレビから「ニュース速報」の音がした。
「JAL123便、大阪伊丹空港行き飛行機の機影がレーダーから消えました」
1985年8月12日の事だった。
「日航機墜落事故」だった。
それから20数年、僕は東京に異動。車で御巣鷹山に向かっていた。
御巣鷹山の麓は整備され、駐車場があり、そこから山を登る事約30分で「墜落現場」にたどり着いた。
大小様々な形の墓標が点在し、静かに時は流れていた。僕はしゃがんで墓標を拝んだ。
僕は「生」と「死」の事を考えた。
20数年前にテレビの「ニュース速報」で見た「事故」の現場に今自分は立っている。
御巣鷹山を下山し、車で東京へ向かった。
自分の中に溜まった「心の澱」はいつの間にか消えていた。
「バンドの練習で編集に付いて来なかったI君」は今、部長になっている。部下に対してどう接しているのだろうか?
歳月は「人間」を置いて過ぎ去って行く。
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