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お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

マナウス・・・アマゾン川沿いの町

2020年04月13日 | 旅・外国
リオデジャネイロからブラジルの首都ブラジリアを経由して飛行機で五時間、アマゾン川観光の中心マナウスに到着する。河口から二千キロ、それでも川幅は二キロ以上、アマゾン川の巨大さにワクワク。まずはマナウスの旅行社に行き、今夜のホテルと翌日の「アマゾン川八時間クルーズ」を予約し、ホテルに荷物を預けてマナウスの町に出る。

リオと違い、マナウスの治安はすこぶる良く夜中に一人歩きも可能だという情報を得ていたので安心して何処へでも行ける。ちなみに南米で治安が悪いのはリオとサンパウロ、そしてペルーの首都リマといった大都市である。もちろん、その時の政権によって、南米では治安の悪さがコロコロと変わるので、注意が必要だ。

余談だが、私が海外に行って立ち寄る場所がある。動物園、日本料理店、文房具店、書店、駅、スーパーマーケット、百貨店、市場、遊園地等である。名所旧跡にはあまり興味が無い。何故なら訪れた国の人達が普通に生活している様を見たいからである。マナウスでも最初に市の郊外にある動物園にタクシーで行き,可愛い動物たちとの出会いを堪能した。

翌日は「アマゾン川八時間クルーズ」に参加した。マナウス港から中型の遊覧船に乗り出発。さすがに日本人は私だけ。欧米人観光客と一緒にアマゾン川を下る。マナウスはアマゾン川支流に面した町で川を一時間も下ればアマゾン川本流と合流する。ここで摩訶不思議な現象が起こるのである。本流の川の色がミルクコーヒーの色、そして支流の川の色が群青色。この二色の川が合流点から混じらずに三キロ程下流まで川面に二つの色を分ける境界線ができるのである。何故なら二つの川に溶け込んでいる成分の比重が違うからなのだ。この現象は世界でもここアマゾンと中国の長江でしか見られないという。 巨大なアマゾン川には船のガソリンスタンドやタンカー、車を載せた渡り船、川魚を獲る漁船等が往来している。昼食は漁船から直接買った川魚がフライで出て来た。こちらの人は魚を生で食べる習慣は無い。フライは大味であまり美味しいとは言えなかったが昼食後しばらくして遊覧船はクルーズの折り返し点に到着。お土産物屋でピラニアのはく製などをウィンドウショッピングする。マナウスへの帰路、アマゾン川の真ん中で突然遊覧船が止まり、

 

「It’s swimming time !」


と乗務員が叫び、ラジカセで陽気なサンバの音楽を流し始めた。そうするとツアー参加者の大半が服を脱ぎ、水着になってアマゾン川へダイブ、船の周りで泳ぎ始めた。私は旅行社からこんなイベントがあるとは聞かされていなかったので、水着をインナーに着ておらず、ただただ見守るしかない。

 

「アマゾン川で泳いでいてピラニアに襲われないのですか?」

 

と乗務員に訊くと、

 

「ピラニアは浅いところにいて、川の真ん中の深いところにはいないんだよ」

 

との返事。貴重な体験ができたのに本当に残念な事をしたものだ。

船は夕方マナウス港に着き、私は港のすぐそばの魚市場に寄ってみる事にする。魚特有のニオイが強烈にする中、場内にあった漁師達が立ち寄る食堂があった。思い切って入ってみる事に。私はメニューが読めないので、分かりやすいトマトスープを注文した。このスープ、アマゾン川の魚のあらで取った出しが効いていて、今まで食べたトマトスープの中でも跳び抜けて美味しかった。

夜は日本料理店に行こうと思い、宿を後にする。マナウスの治安はリオに比べて格段に良い。日本料理店は直ぐに見つかる。お店の前に、移動式の遊園地。設置された簡易観覧車に一人で乗り、南米・アマゾンに来て、何をしてるのかと自分に問いかけつつ、お店にたどり着く。私は、世界どこに行っても「日本料理店に行く派」である。外国という非日常の中、「日本料理店という日常」に浸るのが好きなのだ。店内には、「北島三郎ほか演歌」が流れている。日本にいると滅多に演歌は聞かないのだが、異郷の地にいると演歌が心に沁みるのである。茄子の田楽がとても美味しい。お酒でほろ酔いになりながら、プハーと息をつく。お店はがらがら。客は私だけだ。マナウスの日本料理店はそれほどでもなかったが、日本料理が出て来ると言っても、日本と同じ様な料理が出て来るとは限らない。


ニュージーランド・クィーンズタウンの日本料理店に家族で入った時は、寿司職人が現地人という事もあって、にぎり寿司からオーデコロンの匂いがした。同じ店で寄せ鍋を頼むと出て来た野菜は白菜ではなく、レタスだった。

 

また、アフリカ・ケニアの首都ナイロビに行った時、ウィスキーの水割りを頼んだら、水割りのキューブアイスの真ん中に「ハエ」が凍って入っていた。現地人の店長にその事を伝えると、「それは凍る時に入ったんだよ」と言い返された。

つまり、「なんで、そんな細かい事を言ってるんだ。ハエくらい入るのは当たり前の事なんだよ」と彼の顔は語っていた。

マナウスの話に戻ろう。かなり酔っ払いながら(海外どこに行ってもそうだが)、ホテルへ千鳥足で戻った。ホテルの宿泊代が5000円と安かった事もあって、クーラーが効かず、熱い夜に苦しみながら、翌日リオ・デ・ジャネイロへ五時間かけて戻った。

一泊し、イグアスの滝で有名なイグアス経由、アルゼンチンの首都で南米のパリとも言われているブエノスアイレスに向かう。

(1986年)

リオ・デ・ジャネイロ2・・・ブラジル

2020年04月13日 | 旅・外国
 どうしても乗りたかった路面電車は石造りの高い高架橋の上をコトコトと走り出し、陽光の輝くリオの丘の上へと登っていく。終点がリオでもとくに治安の悪いところ。終着駅には15分位でたどり着く。石畳の路に降り立ち、キョロキョロ。駅から近い程近いところにあるはずの美術館に行こうと思うのだが「地球の歩き方」の小さな地図では全く方向が分からない。そうこうするうちに日は次第に傾いていく。ブラジル人が通るも、ポルトガル語は「オブリガード(ありがとう)」とあいさつ程度しか話せない私。途方に暮れてしまった。

 

「ちょっと、すいませんが・・・」

「はい、何でしょうか?」

 

私は勇気を出して、赤いジャージ姿の上下でジョギング中のおじさんに話しかけていた。ラッキーなことに英語が通じた。おじさん、美術館まで連れて行ってくれるという。涙がちょちょ切れそうになりながら、好意に甘えた。無事美術館を鑑賞、出て来ると、

 

「この近くの居酒屋に一緒に行かないか?」

「はい、喜んで!」


おじさんがそう声をかけてくれた。私は即答する。海外で初めて出会った人に付いていくかどうかの判断は自分の勘に任せる事にしている。幸いにもその勘は一度もハズレた事がない。

 そう、私はお酒が大好き。海外を旅していると酔っぱらいの日々が続く。それがすこぶる心地よい。すごい人見知りなので、お酒の力を借りないとなかなか現地の人とも知り合えないし、いろんなところに潜入もできない。

 店外の石畳の路にはみ出した席に二人で座り、早速やり始める。飲む酒はピンガ。南米で人気の焼酎でこれをソーダで割ったピンガサーワーとして美味しく頂く。

 この居酒屋でおじさんからいろんな話をお聞きする。

おじさんは医者で南米全土を治療の為飛び回っているとの事、超インフレの為ブラジルの人々は毎月給料を貰うとすぐスーパーに行って買い物をしまくりお金をモノに替える事(そうしないと日々お金の値打ちが下がっていくので)、美術館に行く途中で臭った異臭は薬物を吸う臭いだとうい事(薬物でも吸わないとやり切れない社会ゆえ)、市バスが大きく左右に揺れながら走っているのは運転手が飲酒運転をしているという事(バスの運転手も給料がなかなか出ないので自棄になっている)、リオの強盗はホールドアップ(両手を挙げて)しても撃ち殺してから金を盗る事(顔を見られているし警官に賄賂を渡せば逮捕翌日には釈放される為)、等々、驚く様なブラジルの日常を次々と話してくれた。

 さらに、

 

「ブラジルには人種差別はないんですか?」

 

という私の質問に、

 

「インディアン、メスチィゾ(インディアンと白人の混血)、ポルトガル系白人、黒い肌の方がより差別されているんだ。ブラジルには差別に関してこんな寓話があるよ、残念ながら」

 

と言って教えてくれたのがこんな話。

 ある学校の先生が担任のクラスで差別があるのに悩んでいた。悩んだ末に彼女が考えたのは、クラス全員の肌を「緑色」に塗る事。そうすれば、きっと差別は無くなるだろうと思ったのだ。しかし差別は無くならなかった。何故なら「緑色がより濃い生徒」が差別される事になったからである。

 これは寓話であるが私は聞いていて人間の「業」の深さを見る思いがした。


 こうしていろんな話をしながら、私とおじさんは酒を酌み交わし続けた。おじさんも私も英語は外国語。お互いゆっくりしゃべった事で意思が通じたのかもしれない。

 

「ところで、今日は息子の誕生日なんだ。家に来て一緒に祝ってくれないか?」

 

そんなおじさんの提案を無下に断れるはずもない。居酒屋の勘定もおじさんが払ってくれたのだ。それよりも強い好奇心の方が私の中でアタマをもたげていた。

 

おじさんの自宅までは居酒屋から石畳の道を歩いて五分もかからない距離。ガッシリとした門構えで塀の上にはビッシリと鉄条網が張り巡らされている。やはり、余程治安が悪い様だ。

 

「こうしてハンドルに鍵を取り付けて、カーステレオを外して家に持って上がるんだ」


門に鎖錠をし、なおかつ門の中に駐車してある車から貴重品は家に持ち込むのだそうだ。おじさん曰く、この近所ではそうしていてもタイヤ四本盗まれたケースもあるという。かなり物騒な地区に自分が来ていると再確認させられる。不安が少し湧き起こるもここまで来ては息子さんに会うしかない。

 息子さんの誕生日を祝って、隣に住むおじさんのお姉さん(ヴァリグブラジル航空CAさん)始め、親族10人ほどが集合した。

 ポルトガル系、瞳のまんまるい六才、やんちゃ盛りの息子さんの為にハッピーバースデーを合唱する。今日初めて会ったのにこんな展開もありか・・・と内心あまりの展開の速さに付いていけていない自分を感じつつ、私も口を大きく開けて元気に歌ったのである。息子さんがケーキのローソクを勢いよく吹き消し、全員で拍手喝采。美味しくケーキを頂く。リオの二度と経験できない夜は続いたのだが・・・

しばらくして突然、

 

「おばあちゃん家に行きたいよー!」

 

息子さんがそんなことを言い出し、私も誘われて何故かおじさんの車に同乗。走る事10分、おばあちゃんの家に到着する。当然ながらおばあちゃんは大喜び、そして突然の外国人旅行者の登場も大歓迎してくれた。

気が付くと私は調子に乗り、いろんな話を初対面のおばあちゃんから聞いていた。

 

「ほらあの崖の斜面に光っている建物があるだろう。ここらの人はみんなあのことを《死の館》と呼んでいるんだ。」

 

おばあちゃんによれば、ブラジルのエイズ患者数はアメリカに次いで(当時)世界二位。それゆえ「娼婦の館」と言われていたくだんの建物が「死の館」と呼ばれる様になったという。またリオの市街地を囲む崖の斜面には地方の農村部から職を求めて出て来た人が無断で家を建てスラム化、治安がかなり悪化しているので要注意との助言も頂く。

 

「どこのホテルに泊まっているんだ。車で送ろう」

 最初の美術館からずっと私の事を気にかけてくれていたおじさんの本当に温かい言葉に感謝しきりである。ホテルへの車中では日本についての質問責め。大学卒の初任給はいくら?とかで思いつくままに答えていると、

 

「えっ!そんなに高いのかい?」

 

仰天した様子だ。

 また、明日以降のホテルについて相談すると、おじさんは自宅近くの一泊1800円のホテルを教えてくれた。有難い。深夜にコパカバーナのホテルに到着。おじさんとの別れを惜しむ。ほど良い酔いと人の心の優しさに包まれて、あっという間に眠りについたリオの夜であった。

 

 リオ三日目は、郊外に遊びに行き、丘の上の巨大なキリスト像や有名なロープウェイにも足を運ぶ。夕食を食べ、酒を飲み、くつろいでいると、結構夜もふけてくる。治安が悪い地区なので、タクシーでおじさんに教えてもらった丘の上のホテルに乗りつける。

 小さなフロントで、


「今夜一泊お願いします」

「あいにく満室なんだよ」

 

というやりとりがあり、途方に暮れる。この辺りはリオで最も治安の悪い場所。深夜。ホールドアップしても殺されると聞いている。ビビらない方がおかしい。

 

「空いているかどうか分からないが、この坂を五分位下って行ったところに姉妹ホテルがあるんだ。行ってみたらどうかな?」

 

フロントの人も私の困惑度合を察したのか、そう親切に助言してくれた。

 おそるおそる周りを見回しながら深夜の石畳の道を姉妹ホテルへと向かう。強盗に遭遇しない為に心の中では走っている感じではあったのだが、足は遅々として進まない。五分という恐ろしく長い時間が過ぎ、やっとの事で姉妹ホテルにたどり着く。ここは空室があり、ホッとして体全体が脱力感に襲われ、案内された部屋の堅いベッドに横たわる。熱いシャワーを浴びようと思い立ち、裸になるが水がお湯にならない。このホテルのシャワーは変わっていて、シャワーの出口に電熱器が仕込まれていて、水がそこを通ると熱くなる仕組みなのだ。もう一度、服を着てフロントの人の手を引っ張り部屋に連れて来る。ポルトガル語しか通じないので、手振り身振りと筆談でシャワーの件を伝える。ななんとか私の言いたい事を理解してくれ、共同シャワー室を開けてくれた。生温いシャワーを浴びながら、思いはアマゾンに馳せていた。リオでの濃密な三日間は終わり、明日はブラジルの首都ブラジリア経由でアマゾン川中流の町マナウスへ向かう。

 

(1986年)

リオ・デ・ジャネイロ1・・・ブラジル

2020年04月13日 | 旅・外国

「コパカバーナ(リオの高級リゾートビーチ)に泊まりたいんですが、ホテルの予約をお願いできますか?」

 

 ブラジル・リオデジャネイロ空港のツーリスト・インフォーメーションでこう投げかけたのが、私の南米での第一声となった。日本からアメリカ西海岸ロサンゼルス空港で二時間の給油をしてヴァリグブラジル航空でほぼ二十四時間。時計は午前と午後が替わるだけで時計の針を直す必要が無いといういちばん時差のキツイ所だ。早朝五時到着。


 南米は初めてというのにホテルの予約も取らずにノコノコとやって来たのにはワケがある。世界の様々な所に仕事で行った事がある会社の上司にブラジル行を告げた時、その上司から

 

「リオの空港に着いてツーリストインフォメーションに行けば、ホテルは簡単に安く取れる」

 

と嬉しい様な不安が増す様なアドバイスを受けたのだ。

 

「いくらのホテルをご希望ですか?」

「一泊五千円位のホテルはありますか?」

 

 こうして写真やテレビでしか見た事のないコパカバーナのホテルを無事取る事が出来、私は空港からタクシーでホテルに向かった。

  当時のブラジルはデノミ(超インフレの対策として、貨幣の単位を替え、新しい貨幣を発行する事)した直後で、空港の銀行で両替したら、クルゼイロとクルザードという二つの貨幣が入り混じったものが返って来た。一クルザードが十万クルゼイロだそうである。のちに分かるのだが、当時ブラジルはなんと2000%の超インフレ!すなわち、二十万円のテレビが一年間で四百万円になるという状態。いずれにしても旅人としては買い物のたびに一体いくら払っているのか、分かりづらい事この上もない。

 

 話を元に戻すと、私の乗ったタクシーはコパカバーナのビーチを快調に走っていた。乗車の際、ホテルの名前を運転手さんに告げたら通じたので、そこそこのホテルだと安心し、ビーチで陽気に遊ぶ人々を車窓からぼんやり見ているとコパカバーナのビーチが終わりそうになってきた。どこに連れて行かれるものやとドキドキしていたら、みすぼらしい二階建ての建物の前でタクシーは停まった。<本当にビーチのいちばん端に予算5000円のホテルはあった。


 ホテルにスーツケースを置き、おそるおそるコパカバーナを散歩する。何故そんなにビビッているかというと、「地球の歩き方」にリオデジャネイロの治安はものすごく悪く、日本人観光客はコパカバーナ等の観光地でも一人では歩いてはならないと記載されていたからである。たとえそれが昼間であったとしても。また、ニュース報道ではリオ市内だけで三日間で殺人事件が50件を超えるというものもあったり物騒この上ない。

 しかし、コパカバーナを実際に歩いてみると気候は沖縄・石垣島に近く、海岸では泳いだりビーチバレーを楽しんだり実に平和な光景が見受けられた。新市街地まで足を延ばして商店街をウィンドウショッピング等を楽しむ。夕方までブラブラしていると頭痛がしてきた。極度の時差と早朝から行動し続けてきた疲れが原因と思われ、速攻ホテルに戻り体を休める事にした。

 

「カフェオレはいかが?」

「・・・いただきます!」

爆睡して起きると朝。このホテルは朝食付だ。食堂に下りていって飲んだのが熱いコーヒーとこれまた熱いミルクをカップに同時に注ぎ込むカフェオレ。今まで飲んだカフェオレで一番美味しかった。さすがコーヒー豆が有名なブラジルだけのことはある。ちなみに、ブラジルの公用語はポルトガル語だが、南米の他の国はスペイン語である。カフェオレはスペイン語でカフェ コン レーチェという。これを英語に翻訳すると、coffee with milk となる。コンはwith、レーチェはmilk、南米豆知識。

 

 今日はザ・シティと呼ばれるリオの旧市街地へ行ってみる事にする。目的はザ・シティから出ている路面電車に乗る事だ。私は鉄道ファン、それも乗り鉄なので国内外行ったところの鉄道にはできる限り乗る様にしている。

 ちなみにリオにも地下鉄があるのだが、乗ろうとしても入口がすべて閉鎖されていてストライキでもしているのかなぁーと思っていた。あとで現地の人に訊くと、リオの地下鉄は日曜日が休みで運行していないのである。これにはかなりビックリした。というか唖然となった。東京の地下鉄が日曜日すべて止まってしまったら、大パニックになってしまうだろう。日本では絶対考えられない。海外を旅すると日本が見えてくるとはこういう事かもしれない。


 




 


河童が覗いたインド

2020年04月09日 | 旅・外国


フジテレビの美術デザイナーから蜷川幸雄の舞台デザイナーを務めた妹尾河童がインドの建物を俯瞰でイラスト化して、旅行記にまとめた一冊。
これを読んで、僕はインドへの衝動を抑えきれず、入社が1つ上の先輩とインドへ行った。
インドはカオスの国だった。車、リキシャー、人間、牛、様々なものがさまよっている。
でも、それを好きになるか、嫌いになるかである。インドはそんな我々を温かく包み込んでくれる深い懐を持っているのだ。

リオデジャネイロ

2016年06月04日 | 旅・外国
リオ・デ・ジャネイロ


「コパカバーナ(リオの高級リゾートビーチ)に泊まりたいんですが、ホテルの予約をお願いできますか?」

 ブラジル・リオデジャネイロ空港のツーリスト・インフォーメーションでこう投げかけたのが、私の南米での第一声となった。日本からアメリカ西海岸ロサンゼルス空港で二時間の給油をしてヴァリグブラジル航空でほぼ二十四時間。時計は午前と午後が替わるだけで時計の針を直す必要が無いといういちばん時差のキツイ所だ。早朝五時到着。

 南米は初めてというのにホテルの予約も取らずにノコノコとやって来たのにはワケがある。世界の様々な所に仕事で行った事がある会社の上司にブラジル行を告げた時、その上司から

「リオの空港に着いてツーリストインフォメーションに行けば、ホテルは簡単に安く取れる」

と嬉しい様な不安が増す様なアドバイスを受けたのだ。

「いくらのホテルをご希望ですか?」
「一泊五千円位のホテルはありますか?」

 こうして写真やテレビでしか見た事のないコパカバーナのホテルを無事取る事が出来、私は空港からタクシーでホテルに向かった。

 当時のブラジルはデノミ(超インフレの対策として、貨幣の単位を替え、新しい貨幣を発行する事)した直後で、空港の銀行で両替したら、クルゼイロとクルザードという二つの貨幣が入り混じったものが返って来た。一クルザードが十万クルゼイロだそうである。のちに分かるのだが、当時ブラジルはなんと2000%の超インフレ!すなわち、二十万円のテレビが一年間で四百万円になるという状態。いずれにしても旅人としては買い物のたびに一体いくら払っているのか、分かりづらい事この上もない。

 話を元に戻すと、私の乗ったタクシーはコパカバーナのビーチを快調に走っていた。乗車の際、ホテルの名前を運転手さんに告げたら通じたので、そこそこのホテルだと安心し、ビーチで陽気に遊ぶ人々を車窓からぼんやり見ているとコパカバーナのビーチが終わりそうになってきた。どこに連れて行かれるものやとドキドキしていたら、みすぼらしい二階建ての建物の前でタクシーは停まった。本当にビーチのいちばん端に予算5000円のホテルはあった。

 ホテルにスーツケースを置き、おそるおそるコパカバーナを散歩する。何故そんなにビビッているかというと、「地球の歩き方」にリオデジャネイロの治安はものすごく悪く、日本人観光客はコパカバーナ等の観光地でも一人では歩いてはならないと記載されていたからである。たとえそれが昼間であったとしても。また、ニュース報道ではリオ市内だけで三日間で殺人事件が50件を超えるというものもあったり物騒この上ない。
 しかし、コパカバーナを実際に歩いてみると気候は沖縄・石垣島に近く、海岸では泳いだりビーチバレーを楽しんだり実に平和な光景が見受けられた。新市街地まで足を延ばして商店街をウィンドウショッピング等を楽しむ。夕方までブラブラしていると頭痛がしてきた。極度の時差と早朝から行動し続けてきた疲れが原因と思われ、速攻ホテルに戻り体を休める事にした。

「カフェオレはいかが?」
「・・・いただきます!」

爆睡して起きると朝。このホテルは朝食付だ。食堂に下りていって飲んだのが熱いコーヒーとこれまた熱いミルクをカップに同時に注ぎ込むカフェオレ。今まで飲んだカフェオレで一番美味しかった。さすがコーヒー豆が有名なブラジルだけのことはある。ちなみに、ブラジルの公用語はポルトガル語だが、南米の他の国はスペイン語である。カフェオレはスペイン語でカフェ コン レーチェという。これを英語に翻訳すると、coffee with milk となる。コンはwith、レーチェはmilk、南米豆知識。

 今日はザ・シティと呼ばれるリオの旧市街地へ行ってみる事にする。目的はザ・シティから出ている路面電車に乗る事だ。私は鉄道ファン、それも乗り鉄なので国内外行ったところの鉄道にはできる限り乗る様にしている。
 ちなみにリオにも地下鉄があるのだが、乗ろうとしても入口がすべて閉鎖されていてストライキでもしているのかなぁーと思っていた。あとで現地の人に訊くと、リオの地下鉄は日曜日が休みで運行していないのである。これにはかなりビックリした。というか唖然となった。東京の地下鉄が日曜日すべて止まってしまったら、大パニックになってしまうだろう。日本では絶対考えられない。海外を旅すると日本が見えてくるとはこういう事かもしれない。

 どうしても乗りたかった路面電車は石造りの高い高架橋の上をコトコトと走り出し、陽光の輝くリオの丘の上へと登っていく。終点がリオでもとくに治安の悪いところ。終着駅には15分位でたどり着く。石畳の路に降り立ち、キョロキョロ。駅から近い程近いところにあるはずの美術館に行こうと思うのだが「地球の歩き方」の小さな地図では全く方向が分からない。そうこうするうちに日は次第に傾いていく。ブラジル人が通るも、ポルトガル語は「オブリガード(ありがとう)」とあいさつ程度しか話せない私。途方に暮れてしまった。

「ちょっと、すいませんが・・・」
「はい、何でしょうか?」

私は勇気を出して、赤いジャージ姿の上下でジョギング中のおじさんに話しかけていた。ラッキーなことに英語が通じた。おじさん、美術館まで連れて行ってくれるという。涙がちょちょ切れそうになりながら、好意に甘えた。無事美術館を鑑賞、出て来ると、

「この近くの居酒屋に一緒に行かないか?」
「はい、喜んで!」

おじさんがそう声をかけてくれた。私は即答する。海外で初めて出会った人に付いていくかどうかの判断は自分の勘に任せる事にしている。幸いにもその勘は一度もハズレた事がない。
 そう、私はお酒が大好き。海外を旅していると酔っぱらいの日々が続く。それがすこぶる心地よい。すごい人見知りなので、お酒の力を借りないとなかなか現地の人とも知り合えないし、いろんなところに潜入もできない。
 店外の石畳の路にはみ出した席に二人で座り、早速やり始める。飲む酒はピンガ。南米で人気の焼酎でこれをソーダで割ったピンガサーワーとして美味しく頂く。
 この居酒屋でおじさんからいろんな話をお聞きする。
おじさんは医者で南米全土を治療の為飛び回っているとの事、超インフレの為ブラジルの人々は毎月給料を貰うとすぐスーパーに行って買い物をしまくりお金をモノに替える事(そうしないと日々お金の値打ちが下がっていくので)、美術館に行く途中で臭った異臭は薬物を吸う臭いだとうい事(薬物でも吸わないとやり切れない社会ゆえ)、市バスが大きく左右に揺れながら走っているのは運転手が飲酒運転をしているという事(バスの運転手も給料がなかなか出ないので自棄になっている)、リオの強盗はホールドアップ(両手を挙げて)しても撃ち殺してから金を盗る事(顔を見られているし警官に賄賂を渡せば逮捕翌日には釈放される為)、等々、驚く様なブラジルの日常を次々と話してくれた。
 さらに、

「ブラジルには人種差別はないんですか?」

という私の質問に、

「インディアン、メスチィゾ(インディアンと白人の混血)、ポルトガル系白人、黒い肌の方がより差別されているんだ。ブラジルには差別に関してこんな寓話があるよ、残念ながら」

と言って教えてくれたのがこんな話。
 ある学校の先生が担任のクラスで差別があるのに悩んでいた。悩んだ末に彼女が考えたのは、クラス全員の肌を「緑色」に塗る事。そうすれば、きっと差別は無くなるだろうと思ったのだ。しかし差別は無くならなかった。何故なら「緑色がより濃い生徒」が差別される事になったからである。
 これは寓話であるが私は聞いていて人間の「業」の深さを見る思いがした。

 こうしていろんな話をしながら、私とおじさんは酒を酌み交わし続けた。おじさんも私も英語は外国語。お互いゆっくりしゃべった事で意思が通じたのかもしれない。

「ところで、今日は息子の誕生日なんだ。家に来て一緒に祝ってくれないか?」

そんなおじさんの提案を無下に断れるはずもない。居酒屋の勘定もおじさんが払ってくれたのだ。それよりも強い好奇心の方が私の中でアタマをもたげていた。
 
おじさんの自宅までは居酒屋から石畳の道を歩いて五分もかからない距離。ガッシリとした門構えで塀の上にはビッシリと鉄条網が張り巡らされている。やはり、余程治安が悪い様だ。

「こうしてハンドルに鍵を取り付けて、カーステレオを外して家に持って上がるんだ」

門に鎖錠をし、なおかつ門の中に駐車してある車から貴重品は家に持ち込むのだそうだ。おじさん曰く、この近所ではそうしていてもタイヤ四本盗まれたケースもあるという。かなり物騒な地区に自分が来ていると再確認させられる。不安が少し湧き起こるもここまで来ては息子さんに会うしかない。
 息子さんの誕生日を祝って、隣に住むおじさんのお姉さん(ヴァリグブラジル航空CAさん)始め、親族10人ほどが集合した。
 ポルトガル系、瞳のまんまるい六才、やんちゃ盛りの息子さんの為にハッピーバースデーを合唱する。今日初めて会ったのにこんな展開もありか・・・と内心あまりの展開の速さに付いていけていない自分を感じつつ、私も口を大きく開けて元気に歌ったのである。息子さんがケーキのローソクを勢いよく吹き消し、全員で拍手喝采。美味しくケーキを頂く。リオの二度と経験できない夜は続いたのだが・・・
しばらくして突然、

「おばあちゃん家に行きたいよー!」

息子さんがそんなことを言い出し、私も誘われて何故かおじさんの車に同乗。走る事10分、おばあちゃんの家に到着する。当然ながらおばあちゃんは大喜び、そして突然の外国人旅行者の登場も大歓迎してくれた。
 気が付くと私は調子に乗り、いろんな話を初対面のおばあちゃんから聞いていた。

「ほらあの崖の斜面に光っている建物があるだろう。ここらの人はみんなあのことを《死の館》と呼んでいるんだ。」

おばあちゃんによれば、ブラジルのエイズ患者数はアメリカに次いで(当時)世界二位。それゆえ「娼婦の館」と言われていたくだんの建物が「死の館」と呼ばれる様になったという。またリオの市街地を囲む崖の斜面には地方の農村部から職を求めて出て来た人が無断で家を建てスラム化、治安がかなり悪化しているので要注意との助言も頂く。

「どこのホテルに泊まっているんだ。車で送ろう」

最初の美術館からずっと私の事を気にかけてくれていたおじさんの本当に温かい言葉に感謝しきりである。ホテルへの車中では日本についての質問責め。大学卒の初任給はいくら?とかで思いつくままに答えていると、

「えっ!そんなに高いのかい?」

仰天した様子だ。
 また、明日以降のホテルについて相談すると、おじさんは自宅近くの一泊1800円のホテルを教えてくれた。有難い。深夜にコパカバーナのホテルに到着。おじさんとの別れを惜しむ。ほど良い酔いと人の心の優しさに包まれて、あっという間に眠りについたリオの夜であった。

 リオ三日目は、郊外に遊びに行き、丘の上の巨大なキリスト像や有名なロープウェイにも足を運ぶ。夕食を食べ、酒を飲み、くつろいでいると、結構夜もふけてくる。治安が悪い地区なので、タクシーでおじさんに教えてもらった丘の上のホテルに乗りつける。
 小さなフロントで、

「今夜一泊お願いします」
「あいにく満室なんだよ」

というやりとりがあり、途方に暮れる。この辺りはリオで最も治安の悪い場所。深夜。ホールドアップしても殺されると聞いている。ビビらない方がおかしい。

「空いているかどうか分からないが、この坂を五分位下って行ったところに姉妹ホテルがあるんだ。行ってみたらどうかな?」

フロントの人も私の困惑度合を察したのか、そう親切に助言してくれた。
 おそるおそる周りを見回しながら深夜の石畳の道を姉妹ホテルへと向かう。強盗に遭遇しない為に心の中では走っている感じではあったのだが、足は遅々として進まない。五分という恐ろしく長い時間が過ぎ、やっとの事で姉妹ホテルにたどり着く。ここは空室があり、ホッとして体全体が脱力感に襲われ、案内された部屋の堅いベッドに横たわる。熱いシャワーを浴びようと思い立ち、裸になるが水がお湯にならない。このホテルのシャワーは変わっていて、シャワーの出口に電熱器が仕込まれていて、水がそこを通ると熱くなる仕組みなのだ。もう一度、服を着てフロントの人の手を引っ張り部屋に連れて来る。ポルトガル語しか通じないので、手振り身振りと筆談でシャワーの件を伝える。ななんとか私の言いたい事を理解してくれ、共同シャワー室を開けてくれた。生温いシャワーを浴びながら、思いはアマゾンに馳せていた。リオでの濃密な三日間は終わり、明日はブラジルの首都ブラジリア経由でアマゾン川中流の町マナウスへ向かう。

(1986年)

ユースホステルを知らない世代が・・・

2015年10月24日 | 旅・外国
ユースホステル(英語: youth hostel、ドイツ語: Jugendherberge)は、プロイセンのリヒャルト・シルマンが創設した、青少年少女の旅に安全かつ安価な宿泊場所を提供しようという主旨で始まった運動と、それにより生まれた、宿泊施設の世界的なシステムである。

略称「YH」。日本では「ユース」とも。

イギリス英語で、ユースホステルの利用者をホステラーという。ユースホステルを利用した旅をホステリングという。


概要

海外では、素泊りか朝食付で1泊が日本円で約3000円以下の廉価で泊まれるというのが魅力で、その宿泊施設も一般住宅と同等の家屋のほか、古城や古い穀物倉庫などの歴史的建造物、豪華な邸宅、さらに岸壁に係留された帆船や貨客船などの船舶であったりと多種多様で、そうした環境面での予期しない楽しみも多い。世界最初のユースホステルもドイツ・ドルトムント近くのアルテナにある古城の一角に設けられた。

2005年時点で、世界の80ヶ国に約5500施設があり、うち約3分の2がヨーロッパにある。

元来、青少年の旅行者向けに開設された宿泊施設のため、ドイツ南部のバイエルン州では2004年まで原則満26歳までの利用とする年齢制限があった。2005年からは世界中の全ての地域・国で、利用できる年齢に上限を設けていない。


日本のユースホステル

1951年のJYH設立以後、全国各地でユースホステルの開業が相次ぎ、1974年の最盛期には587施設とピークを迎えた。それ以降の施設は減少気味であり、2000年には332施設、2010年12月31日現在249施設、2013年では222施設まで減少している。

会員も全盛期には、1970年代には最高で63万人を超え世界第1位となったこともあったが、1980年代以降は減少傾向にあり、2013年で37,800人まで減少している。

料金
基本的には会員制(会員でない場合はビジター料として600円が加算される→公営ホステルは除く)で、日本の施設では宿泊料金は2007年で一般的に1泊2食付で約4700円~約5040円(会員料金・通常期料金)となっており、基本的に寝室は男女別相部屋である。2006年より宿泊料金の上限が引き上げられ、繁忙期料金や閑散期料金がそれぞれの施設である程度自由に設定できるように規則が改められた。

会員の種別
大きく年齢別一般会員と、特別会員としてモンベルカード、ワールドホステリングカード、そのほか学校パス会員、特別資格公認会員とがあり、それぞれに定める年会費を納付する。有効期間は原則として申し込みを行い会員証が発行された日からの1年間。但し学校パス会員は会計年度制で4月から翌年3月まで。特別資格公認証会員は発行された日からの1ヶ月のみ。一般会員の終身パスについては有効期限なし。会員になると、上掲の通りユースホステルの宿泊がビジターよりも優遇されるほか、提携カード会社などとの特典が受けられる。

一般会員
少年パス会員(4歳~中学3年生)
青年パス会員(中学卒業者~19歳未満)
成人パス会員(19歳以上〈年齢上限なし〉)
家族パス会員(19歳以上の成人と同行者として帯同する中学生以下の少年)
団体パス会員(10名以上の団体・法人・機関。応募はそれらの代表者<引率責任者>が行う)
終身パス会員(26歳以上〈年齢上限なし〉)

モンベルカード
アウトドア用品メーカー・環境保全団体の(株)モンベルとの提携によるもの。モンベル直営店・オンラインショップでの購入特典あり。

成人パス会員(19歳以上〈年齢上限なし〉)


ワールドホステリングカード
VISAカード、またはマスターカードとの提携によるもの。いずれもクレジットカードの機能があるため、入会に際し提携のクレジットカード会社の厳正な審査がある。

成人パス会員(19歳以上〈年齢上限なし〉)
家族パス会員(19歳以上の成人と同行者として帯同する中学生以下の少年)

その他の特別会員
学校パス会員(10名以上の小学校・中学校・高等学校・高等専門学校の生徒・教職員。応募はそれらの代表者(引率責任者)が行う)
特別資格公認証会員(10名以上の地方公共団体・青少年団体・社会福祉団体・および大学・大学院・専門学校など、日本ユースホステル協会が特に必要と認める団体。応募はそれらの代表者(引率責任者)が行う)

運営による違い
運営の違いにより下記のように分類される。

直営ユースホステル:JYHが直接運営しているもの。
公営ユースホステル:公営の宿泊施設をユースホステルとして使っているもの。あるいは、地方自治体などがユースホステル専用として設置運営しているもの。会員でなくても身分証明があれば同じ料金で宿泊できることが多い。
民営ユースホステル:民営(個人・会社)の宿泊施設がユースホステルとして利用できるもの。あるいは、個人などがユースホステル専用として設置運営しているもの。
日本では直営ユースホステル以外、設置者(民間の個人、地方自治体など)がJYHから認定を受けた上で、JYHとの契約でユースホステルの運営が開始される。

2008年末、中国地方の多くのユースホステルが一斉に日本ユースホステル協会との契約を解除した。そのため、日本ユースホステル協会のWebサイトなどでは「閉館」と告知されているが、ほとんどの施設はユースホステルと同形態のまま宿泊営業を続けている。



大学時代の旅の宿泊は、もっぱらユースホステルだった。泊まった事があるのは、金沢の泉ヶ丘ユース、北海道の稚内ユース、ウトロユース、阿寒湖ユース、帯広ユース、白糠ユースなどである。

稚内ユースは、元・カレーハウスで夕食も朝食もカレーライスとミルク、白糠ユースは周りに何も無いのでユースホステルの食堂で夜遅くまで読書やゲームなど何でもやって良いし、ミーティングも無かったと記憶している。帯広ユースは国鉄の線路沿いに有り、ユースのスタッフが列車の窓から手を振る宿泊者に毎朝手を振り返してくれる事で有名だった。

また、北海道の帯広ユースの隣には夏場、バイクでツーリングしている若者がテントを張って泊まる広場が有り、その広場にはユニークな名前が付いていたのだが、忘れてしまった。憶えている方、教えて下さい。

人と人とが直接キズナを作れる時代だった。

今まで行った国

2015年10月14日 | 旅・外国


今まで行った国は、エジプト、ギリシャ、イタリア、バチカン市国、オーストリア、西ドイツ(ベルリンの壁崩壊前)、スイス、オランダ、ベルギー、フランス、イギリス、アメリカ、カナダ、インド、ブラジル、アルゼンチン、パキスタン、ケニア、ペルー、ボリビア、香港(返還前)、マカオ(返還前)、チリ、エクアドル、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ボツワナ、タヒチ(フランス統治領)、イースター島(チリ領)、ガラパゴス諸島(エクアドル領)、インドネシア、スペイン、ポルトガル、モロッコ、グァム(アメリカ領)、サイパン(アメリカ領)、ニュージーランド、ベトナム、ポーランド、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、トルコ、韓国、台湾、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、です。

吹割の滝

2015年04月14日 | 旅・外国




群馬県吹割の滝に来ている。雨。観光客はほとんど皆無。マイナスイオンを仰山浴びて、リフレッシュして帰ろう!!!!!水の流れる猛々しい姿には目を奪われる。

ケニア

2015年04月12日 | 旅・外国


ケニア。首都ナイロビは夜治安極悪!外出はタクシーで。水割りの氷の中にハエが入っていても驚くべからず。マサイマラ国立公園のホテルは夜行性動物が入って来る。ライオン、サイ、カバ等。夜の外出、絶対禁止!気球サファリは行くべし。草原の真ん中でマサイ族に守られ、美味しい朝食GET!!!!!

ボリビア

2015年04月11日 | 旅・外国



ボリビア。首都ラパスは4000mの標高。すり鉢状の街の1番低い所に金持ちが住む。空気が濃いから。遊園地もあってお化け屋敷やジェットコースター面白い。5分も歩けば息切れ、高山病注意。治安は良くはない。鮨屋があるから御主人に聞いて夜はフォルクローレを聴きに行こう。夜10:30開演!

ペルー

2015年04月10日 | 旅・外国
ペルー。首都リマは治安が悪い。空港職員に身包み剥がれる事も。その際はその場を動かず、コールトゥーアンバサダーと大声で叫ぼう。タクシーはメーターが無いので交通警官に値段交渉をして貰い、その金額を必ず紙に書く。トイレ事情は悪く、トイレットペーパーは持って行こう!クスコで走らない事

2度目の露天風呂

2015年04月04日 | 旅・外国




大井川鉄道の暫定終点の接岨峡温泉駅で30分余りの時間があったので、今日2度目の露天風呂に入る。森の中の露天風呂は気持ち良いものだ。

川根温泉

2015年04月04日 | 旅・外国








静岡県川根温泉に来ている。露天風呂510円。ああ、気持ち良かった。日常の生活に追われているとこうしたいつもの生活圏と違う場所に身を置く事が心身のリフレッシュになる。桜が綺麗だ。大井川をもう少し遡ってみよう。

世界遺産・富岡製糸場

2015年03月21日 | 旅・外国










世界遺産・富岡製糸場に到着。「あゝ野麦峠」の舞台だったろうか?明治の女工達の生き様はどの様なものだったのか?快晴。風が心地良い。