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お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

1982年卒業旅行 5.アシジ〜フィレンツェ・・・イタリア

2020年05月20日 | 旅・外国
1982.2.28. 6:30、モーニングコール。7:15、朝食。8:00、出発。

高速道路を通ってバスでアシジへ。山の上の薄い黄土色の綺麗な教会。日本人の神父様が案内してくれる。もうすぐ祈りの時間との事。サンタ・クララのミイラを教会の地下に見に行く。

「ミイラが動き出したら怖いなぁー」

と思って見ていると、ミイラの後ろから顔に黒い布を垂らした修道女が出て来たので、アボさんと二人で逃げ出した。すると追い打ちをかける様に天井の電球が点滅し、我々はさらに怖くなって教会を飛び出す。帰りがけ、郵便局で切手を買う。コバとアネゴがミイラを見に行くのに出会う。

「怖いぞー!」とおどしておく。

昼食はバスの駐車場のホットドッグ。

 
クララのミイラは、バチカンの教皇のミイラ同様、黒かった。

しかし、アボさんは、

「とても綺麗な人だったんだろうなぁー」と言う。

映画「ブラサーサン・シスタームーン」でジュディ・バウカーが演じているのがクララである。映画では山頂に立っていた教会だが、実際は山の中腹に立っている。

 

バスにてシエナへ。シエナでは大きな寺院と大きな塔のある広場へ行く。坂が多い町。スパゲティを食べ、くそをした。スパゲティはコシがあって美味かった。量は少ない。

シエナを発って、フィレンツェへ。フィレンツェではミケランジェロ広場を通り、ホテルへ。ホテルはまたシャワー。しかし、部屋の向かいに共同浴場あり。

 
※ローマのホテル・エルミタージュ、朝の惨劇・・・僕の部屋のトイレは植出が使っていた。サノが「今村、うちの部屋へ来て、トイレ使いな」と優しい言葉。サノの部屋のトイレへ僕が入る。サノ、トイレの外で待っている。アネゴ、サノの部屋に入って来る。イイ雰囲気。僕、用を足し、水を流そうとするがうまく流れない。サノとアネゴ、もうすぐキスできそうな様子。そこへ僕が「やばい、クソが流れねえ」と言って出て来る。結果は・・・

ホテル到着後30分くらいして町へ。僕は、東大コンビ、手塚、アラレ、アカネ、パッパラバーズと歩く。うわさ通りの遅さ。途中、川べりでbitterを飲み、二階建てのベッキオ橋へ。橋の上は、市場になっていて、商人達でごった返している。橋を渡り、ピッティ宮殿を観る。

夕食を取ろうと町の方へ戻りかけると、ピザの店に植出らがいる。ピザとビールの夕食。

シニョーニア広場で、この後ホテルで洗濯すると言う手塚や女の子たちと分かれ、GUCCIやCELINE、VALENTINOの前を通って、駅へ。

駅にたどり着く。普通の駅。改札は無い。ピサ行きの列車の時刻表を見つけるのに一苦労。切符は無事買える。

 
ドゥオーモまで行くと、小野、野沢、玉井らがいる。ドゥオーモからNo.14のバスに乗る。植出がおじさんに降りる停留所を訊くと、僕たちと一緒にバスから降りて来て、「ドゥオーモ行きのバスに乗りなさい」と言う。

僕たちは降りた停留所がホテルの最寄りだと分かったから、ホテルに向かおうとすると、おじさん追いかけて来て、「この停留所にいろ!」ときつく言う。おじさんが行ってしまうのを待ってホテルへ。入浴(共同浴場)、洗濯、絵はがき書いて、23:20就寝。

1982年卒業旅行 4.ローマ・・・イタリア

2020年05月19日 | 旅・外国
ローマへ向かう飛行機の中。僕の前は久武。うしろは手塚。横(これが問題)が渡辺のおばちゃん(東京外国語大学のロシア語科卒業、Mobil内定。このツアーが終わって親しくなり、横浜の渡辺さんちで焼肉パーティーをした)。その隣がコバ。まず、おばちゃん、オレンジジュースをSONYのマイクロカセットの上にこぼす。マイクロカセット故障。おばちゃん、コバにマイクロカセット直せと言う。(コバはSONYに内定をもらっている)

僕はおばちゃんの血液型が絶対B型だとにらむ。聞いてみると、B型との事。コバもB型。僕の抱いていた「お茶大生」のイメージとは違っていた。

※コバ、お茶大に行くのにバイクで通う。ドロドロに汚れて原色を留めぬダウンを着ている。のちの話だが、GUCCIで買ったバッグにチョコレートを落とす。(食べるのに夢中になっていたんだって!)

昼食。わりと旨い。肉、ケーキ、サラダ、チーズクラッカー、コーヒー。おばちゃん、またコーヒーこぼす。ティッシュが無くなるよー!よくMobilが雇ったなぁー。

 

いよいよ、ローマ、レオナルドダビンチ空港。おばちゃん、空港の給油所にMobilがあると感激。空港のビル内に入るとさすがに緊張。なぜなら、イタリア・ローマとフランス・パリは、この旅行中、最も治安が悪いところと聞いていたからだ。先行した連中と会い、バスに乗り込む。いちばん前に赤く光るデジタル時計の付いたベンツのデラックスバス。ガイドは中年の化粧(特にアイシャドウ)の濃いおばちゃん。女性が男にからまれた時は、でたらめな電話番号を教えなさいとの事。男にからまれる様な女いるかなぁ?

運転手はアンジェロさん。イタリア人らしく陽気だ。

 

高速を通って、ローマ最初の観光は、バチカン・サンピエトロ寺院。寺院の中で大声を出したり、笑ったりすると「国外追放」になるのだ。(「国外追放」と言っても、100メートル位でイタリアなのだ)寺院は大きく、カメラに入らない。広角レンズ欲しいよ~。

中にあるモザイクは、小さな色とりどりの石を貼り合わせたもの。大理石の石像の衣の裾が本物の布の様だ。

教皇のミイラがある。黒い肌をしている。ミイラにとても興味があるのだが、やはり怖い。

45分間、バチカン市国にいて、コロッセウムへ。もうじき閉まるそうだ。ガイドさんがバスの中から、ジュリアノ・ジェンマはこの辺に住んでいるとか説明してくれる。

コロッセウムは思っていたとおり。ブルース・リーが「ドラゴンへの道」を撮ったのはどこかなぁー。

ガイドさん、声小さく聞こえない。ガイドブックを売っているおじさん、男を見たらジュリアノ・ジェンマ、女を見たらソフィア・ローレンに似ているとお世辞を言う。

 

コロッセウムの前の屋台には、日本語で食べ物名が書いてある。ここに訪れる日本人の多い事が想像される。

次に向かったのは、銀行街を抜けて、トレビの泉へ。狭いところにある。写真を撮ってもらいながら、2ドラクマを2つ投げて、恋の成就を願う。がどうやら、投げ方を間違えたらしい。これがのちのちいろんな影響を与える事になるのだが・・・

泉の周り、日本人だらけ。焼き栗を食う。

日本人の言動を見ていると恥ずかしい。おばちゃんにそう言ったら、

「いいじゃないの!」とかたづけられてしまった。

カバンをダウンの下に入れ、しっかり抱える。トレビの泉の周りはすりやひったくりが多いそうだ。

 

今日のホテルは、ローマ市内から北へ行った「エルミタージュ」

今日から植出と同室。明日、小野と生田はオプショナルツアーでナポリへ行くのでこういう部屋割りにする。部屋はホテルの端にあり、狭い。なにせ、スーツケースを一つ開けるとトイレのドアが開かない。汚い。シャワーしかない。ヒーターが壊れている。

 

チェックイン後、植出、先生、小野(日本女子大)、野沢(日本女子大)、僕で町へ。ローマの街が遠くても、このツアーには朝食しか付いていないので、出かけざるを得ない。

道で遭ったイタリア人にイタリア語でレストランの場所を訊く。しかし、この人英語しゃべれる。なんちゅうこっちゃ! この人に教えてもらった「パンダ」という店で夕食。サラダ、マカロニ、ワイン。ワインはビーカーのどでかいので出て来る。もちろん、冷えてはいない。ギリシャ、イタリアとワインは水より安いくらい。昨日の「エーゲ海クルーズ」以来、床が揺れている。

 
食後、駅へ行きたいという植出を振り切ってホテルへ。

先生が「俺が一緒に駅へ行こう」と言うが植出断る。

寝不足と疲れ。ホテルへ戻り、就寝。

※先生・アネゴ問題・・・エーゲ海クルーズで、先生がアネゴと肩組んで写真を撮って以来、先生はアネゴにぞっこん。ローマではオプショナルツアーに行くのを止めて、アネゴと行動を共にする気だ。明日はどうなる事やら・・・。

 

1982.2.27. 
TODAY IS MY BIRTHDAY! (1960.2.27.生まれ)

7:45、先生に電話で起こされる。「もうメシ食ったから、早く出かけよう」との事。やれやれ、今日はゆっくり寝るはずが・・・

 
9:00過ぎ、アネゴ、先生、植出、僕、鈴木、高橋、でバスをただ乗りしてテルミニ駅へ。切符、すぐ売ってくれる。文明圏はいいねぇ。

アボさん、渡辺おばちゃんに会う。おばちゃんに、カタコンベ(地下墓地)の場所を訊くが分からず。植出、駅のCHANGEにて両替。僕はその間、改札を入って、列車の写真を撮ったり、地下鉄を見に行ったりする。テルミニはとても近代的で綺麗な駅。「金おくれ」と言って近づいてくる男やおばさんいる。ちょっと気味悪し。

 
歩いてコロッセウムへ。途中、サンタ・マリア・マジョーレ教会、公園を通ってコロッセウム。いつもグループで歩くと一番前を歩く先生が、アネゴの後ろを歩いている。今日はコロッセウムの上に登る。入口があるのに、何故か無料。オプショナルツアーでナポリに行った人は上に登れなかった訳だ。フォロロマーノから「真実の口」へ。イタリア人に道を訊くのはいいが、どうも間違った事を教えてくれる確率が高い。5人に聞いて、やっと「真実の口」の場所が分かる。最後に訊いたのは日本人だった。

「真実の口」はホントに寂れたところにあった。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックのあのシーンが忘れられない。

手を入れてみる。何という事はない。僕は嘘をつかない人なのだ。アハハハ。ここで2人と4人に分かれる。すなわち、僕と植出、そして残り。

アネゴたちはバチカン美術館へ。僕たちはカラカラ浴場へ。先生は朝、「俺は美術館へは行きたくない」と言っていた。そして、「真実の口」では「美術館とカラカラ浴場ではどちらがいいかなぁ」と白々しい事を僕に訊く。そして、「やっぱり美術館にしよう」と言って、アネゴに付いていく。

こちらは植出と2人で気分も軽く、カラカラ浴場へ。「真実の口」で買ったコーラを飲みながら行く。カラカラ浴場は広く大きい。何でこんなもん作れたんや。

近くのBAR(バール)にて昼食。ビール、ピザ、サンドイッチ。

バスNo.118にて、カタコンベへ。(サン・カリスト)初めてバスでお金払う。車掌がいるから仕方がない。

 
14:30まで待ち、英語ガイドと共に階段を降りて、カタコンベの中へ。

英語でよく分からなかったが、地下40メートル、ローマ市内中に20万人の人が眠っているとの事。細くうす暗い通路の両側に、縦に5~8位の人の入れるベッド状の穴が開いている。死体は取り払ってあったが、通路は入り組み、見学コース以外へも通じている。5世紀の死体を見た。白骨化し、ボロボロになっている。ああ、気持ち悪いぃー! さすがにカタコンベには日本人はいなかった。

バスNo.118に乗って、コロッセウムへ。そして、メトロを乗り継いで、オッタビオへ。バチカンへ着いたら、15:50。アネゴとの約束の時間より50分遅れた。アネゴたちを探しても誰もいないので、ピエトロ寺院の屋上へ。階段が狭く急で正直しんどい。入場料1000リラ。高い。素晴らしい景色。キューポラの上まで登れるとは思わなかった。屋上は涼しくて心地よい風が吹きつける。

オプショナルツアーに行った人達、残念だろうなぁー。

ここで先生の名言。「バチカンはどこだ?」

 
キューポラの上には、サノもいる。

屋上から降りがけ、イタリア人の女の子とお父さんに話しかけ、記念撮影。

 
歩いてスペイン広場へ。サンタンジェロ城を通る。「ローマの休日」の最後の方、船の上でのシーンでバックになった城だ。子供たちがサッカーやスケボーで遊んでいる。スペイン広場の手前で、植出とサノは郵便局へ。

 イタリアの信号は青がAVANT、赤がALT。

スペイン広場は人でいっぱい。そのうち半分が日本人。オードリー・ヘップバーンよろしく、ジェラートを食べる。周りのみんなも同じ事をしている。

うす暗がりの中で写真。昼間来れば良かった。

オプショナルツアーの人達と合流。先生はアネゴにつきまとっている。アネゴ、かなり疲れたみたい。コバ、植出のところへ来て、二人で階段を上っていく。近寄り難い雰囲気。僕、いじける。

GUCCIへ。アラレ、アカネを冷やかし、妹のバッグを探す。持って来た写真は10年前のもの。日本市場より2~3年、先を行っているモデル。

コバ、アネゴ、店員と相談。適当に買う。適当の割に高い。(215ドル)最初、トイレに行って「日本円」を出して来たら、レートが悪いから「ドル」の方がイイって言われ、二回もトイレへ。キャッシュベルトは面倒くさい。

 
GUCCIもCELINEも日本人店員、あるいは日本語を話すイタリア人店員がいる。現代、日本の量販店に中国の人々が集まって、爆買いする感じに近い。

渋谷、お店の中が日本人ばかりでショックを受けていた。

 
僕は見ていないが、GUCCIに「ノーブラの店員」がいたそうな。それを目撃した渋谷は鼻血を出す事になる。

 
駅へ行く途中で夕食。ビール、ハンバーグ、ステーキ、サラダ、パン。

店を出るとイタリア・ミラノの女子学生の集団に遭い、植出のサイン帳をきっかけに駅まで大騒ぎ。

「今日が僕の誕生日だ!」と言うと、Happy Birthdayの合唱。サインを頼むと、サインを頼まれる。PENPALになる約束。イタリア人の女性、情熱的。いいなぁ!僕、イタリアに住もうかなぁ。

 
バスでホテルへ。ホテル近くの店でワインとパイを買い込み(僕は誕生日でお金支払わず)、誕生日パーティーをアラレ・アカネの部屋でやる。13人の会。第1回。出席者はジャイアント軍団(僕、手塚、渋谷)、生田、小野、日本女子大の二人、アカネ、アラレ、久武、角野、植出、小林の13人。話は先生の事、中央大バレー部の事。

22:30~23:40くらいまで騒ぐ。

 
部屋へ戻ってお金の計算、入浴。

1:00前、就寝。









1982年の卒業旅行 3.アテネ・・・ギリシャ

2020年05月18日 | 旅・外国
4:00、起床。辺り暗し。4:30、朝食。5:00過ぎ、カイロのホテル出発。エジプト人の日本語ガイド・ハシブさん来ている。いい人だ。空港でエジプト人にCabinを渡して、実家への絵はがき託す。日本へ着くかな? 郵便局がなかなか無いのだ。

9:10、1時間遅れ、オリンピック航空326便でアテネへ向けて離陸。僕の隣は野沢さん。生田の隣はアラレ。生田、彼女とちゃんとしゃべっているのかなぁ?

添乗員の深沢さんもエジプトを出られてホッとした様子。

11:00、アテネ空港着。12:00、バスで空港から市内へ。日本車多し。考古学美術館(あんなふうに展示されたら、彫刻を落としかねない)、アクロポリス(ちょっと雨模様。ガイドの説明、味気ない。声小さい。これがアクロポリスかぁ~という感じ)、お土産屋に寄ってホテルへ。近代的でしかも立地条件の良いホテルだった(このツアーの中でもいちばん立地は良かったと思う)。このホテルもエジプトのホテル同様、エレベーターの内側ドアが無く、「閉」のボタンも無かった。

17:15、ホテルから街の中心部、歩いて2分のオゴニア広場へ。手塚、渋谷(二人とも中央大学。住友銀行内定)、小野、生田、先生、アラレ、アカネ、etcは地下鉄で海鮮料理を食べに。

この日を境に彼らは女の子と一緒に買い物も食事も一緒に行動。関東人の行動パターン。対する植出、サノ、僕は女の子とは夕食の時に場所を決めて会う事にし、昼間は別行動をする事に。僕らは昼間自分の行きたいところを回りたいし、彼女たちは買い物等で過ごしたいので、この作戦で行く事にした。

 

僕たち3人が広場でどうしようか考えていると、日本人が声をかけてくる。添乗員の深沢さんの言葉を思い出す。これはポン引きだなぁと思い、無視しようとすると、「私はポン引きではなく、アテネでブティックをやっている」と言う。

よくこういう経験があるのだろう。

彼によれば、ギリシャの夕食は22:00頃からだという。だから17:30の今、飲食店がほとんど開いていないのだ。少し腹も減ったので、彼に教えてもらい、広場横の立ち食い屋にて、ハンバーガー、肉ダンゴ、ワインで43ドラクマ。ワイン安い。

地下鉄に乗って、国鉄の駅に行くつもりが別の駅に行ってしまう。コーラを飲み(よくコーラ飲むなぁ)、アテネ中央駅へ。途中、ギリシャ人の女性に道を聞かれたり、公園で子供たちと一緒に写真を撮ったり、大声で歌を歌いながら、駅へと向かう。

駅では案内所のおねえさんに何故か文句を言われ、散々探し回ったあげく、国際列車の駅」と「国電の駅」が違う事を発見。やっと10ドラクマで切符を買う事ができた。

 

コーラを飲み、黄色のトロリーバスで、近代オリンピックが初めて開かれた「オリンピック・スタジアム」へ向かう。異国の乗り物に乗るのは変な気分。周りはみんな外国人(当たり前!)。途中でトロリーが外れ、運転手が屋根に乗り、直そうとするがダメ。

バスを乗り換える。オリンピック・スタジアムをだいぶ行き過ぎている事に気付き、ゼウス神殿を経由して、戻って来る。スタジアムは閉まっていたが警備のおじさんに聞くと、手を大きく振って「入れ!入れ!」という事なので、塀を乗り越えて中へ。植出とサノはトラック一周走る。

スタジアムはセンターの上方に五色の五輪のネオンが輝き、白色灯がトラックを照らし出していた。

シンタグマ広場へ行き、シシカバブーとウーゾワイン(白)1300円位。レストランから出てすぐ「Young Girl 20ドル」という得体のしれない外人ポン引きに出会った。

22:00、ホテル着。
22:35、再び、渋谷、先生、サノ、僕の4人でオゴニア広場へワインを飲みに行く。赤ワイン、白ワイン、一本ずつ頼み、フライドポテトを食す。1人225円程度。渋谷は10数品あるフルコースを注文。店の雰囲気はいい。

23:30、店を出て、自動販売機でジュース(10ドラクマ)を買う。ジュースの量少ない。この旅行中、自販機のあったのはアテネだけ。ホテルへ。

生田、本を読んで起きている。入浴・洗濯後、就寝。

 

1982.2.25.  
6:00、モーニング・コール。6:30、朝食。7:30、ホテル発。

8:30、ピレウス港よりエーゲ海クルーズへ出発。小雨降り、寒い。海波高く、船揺れ激しい。船酔いにかかる。船酔いにかかっている人が多いのか、ゲーゲー袋が配られる。僕は船酔いを治す為、外へ出たり歩き回ったりする。吐く寸前。こんなに船酔いしたのは、後にも先にもこの時だけ。外へ出て海を見ているおじさん、おばさん多い。もっと若者(プロミシング・ユース)を海外に出してやれ!

最初の島はエギナ島。白い壁の家が立ち並ぶ港に到着。港からアフェリア神殿へ相乗りタクシー(500ドラクマ)で行く。バスは本数が少ない。入場料IDカードを使って半額の15ドラクマ。このIDカードは日本で取得。ヨーロッパ旅行ではいろんなところで使えると聞いて来たのだが、ほとんど使えなかった。

アフェリア神殿から見る海は本当に綺麗だった。2匹の猫がいる。可愛い子猫と太ったどら猫。小林(お茶の水女子大・ソニー内定。以降、コバ)が猫を抱いて、ぶりっ子して写真を撮る。写真を撮ったあと、猫をポイっと投げ捨てる。

彼女曰く、「猫は投げてもちゃんと立てるし、体を引き延ばす事もできるよ」と。猫をびよよーーんと引き延ばす。女は怖いのか実家で猫を飼っているのか?

タクシーの運転手。クリスチャン。ハンドルを離して、身振り手振りで話してくれる。本当に怖い。

港に帰って、チョコ牛乳飲む。なかなか開けられない。穴の無いテトラパック。

船上にて昼食withコバ、サノ、植出。ビール、オレンジ、チャーハン、オリーブケーキ。船酔い少し治る。

二つ目の島はロドス島。植出が名所はポセイドン神殿しかないと言うので、タクシーでポセイドン神殿へ。車は、13年前のDATSUN。ドライバーによると、来年位には買い替えたいが1台400万円位するそうだ。
神殿、柱の跡が4つあるのみ。海を臨む丘は風強し。後から来たタクシーの渋谷、コバらに「すごいぞ!来てみろ!」と言ってダマす。全員で柱の恰好をして記念撮影。タクシー往復で400ドラクマ。後から来たタクシーは230ドラクマ。170ドラクマボラれる。港でイギリス人、オランダ人他とディスカッション。日本人は名所よく見ないで写真ばかり撮り、日本へ帰って写真で名所を見ていると指摘され、反省する事しきり。ディスカッションした中に、仙台に少しいたことのある人がいた。みんなで、日本人の好きな記念撮影。帰船。船内で、トランプ。「ど貧民」やる。メンバーは久武、コバ、植出、僕、アネゴ(テキサス インスツルメント内定)、先生。先生、最後に大富豪になれて、トランプを叩きつけて上がる。

甲板に出ると、海の上に180°の虹が架かっていた。

無事ピレウス港へ。ホテルまでバス。

 

今日はコバの誕生日(1960.2.25.生まれ)という事で、植出がワインをおごってやると約束。植出、サノ、コバ、アネゴ、松山、僕で出発。オゴニア広場にて軽く腹ごしらえ。ハンバーガー、フライドポテト、ワイン。

歩いてケーブルカー乗り場へ。

松山が酔っ払って陽気に「Come on Everybody !」

ああ大変だ。酔ってこれだけ性格が変わるのも・・・

ケーブルカーに乗って山の上へ。どうもコバは植出に気があるみたいだ。僕のやっかみか?

 

山上はいい眺めだし、涼しい。どこにアクロポリスがあるかでひと悶着。他のツアーの日本人も来ている。僕がみんなの写真を撮り、続いて植出に撮ってくれと言うとコバが「植出君が写れなくてかわいそう。誰かに頼んだら」だって。

僕の場合はどうなるんだ、ちくしょう!

他のツアーのおじさんで、僕たちの行かなかったところばかり褒める人がいて、腹が立つ。まったく腹の立ち通し。

 

山上レストランにて、なすとひき肉を混ぜて焼いたパスタを食べる。オリーブオイルたっぷり、油っこくて残す。日本人は普段あまりオリーブオイルを摂らないので余計脂っこく感じるのだろう。エジプトで弱った胃腸の具合もおかしく、下痢が続いている。エジプトの水が胃腸に悪かったらしい。男子でお腹の具合が悪くなった人多し。女子の方が胃腸は強い。

店の支払いの時、ドラクマが足らなくなる。植出曰く、「コインも持っているだけ出せ!」

ドルなんかも混ぜて支払い後、みんなに記念にコインが返される。

植出曰く、「コレクション用のコインはとってあるんや」。なんちゅう奴!

 

ケーブルカーで下山。(往復30ドラクマ)。詳しいお金の計算はコバがホテルでやるとの事。船酔いと酒酔いで地面が上下左右に揺れる。ホテルまでは、植出、コバ・・・ちょっと離れて僕・・・かなり離れて残り。

植出の速足にコバ一生懸命ついていく。人を好きになるのはええけど、もっと周りに気遣って欲しいんやなあ。

気分悪くホテルへ帰り、入浴。

そういえば、植出、コバにワイン奢るいうて、みんなで飲んだんやからなあ、話ちゃうで~!!

ホテルの部屋で、生田と26:00頃まで話しこむ。

ツアーの中で誰がええか。僕はコバ、アカネ、アラレ。(この時はアカネやったんや、本当は!)

生田、いつもの様に言いよらへん、クソッ!

1982.2.26.
 5:30、モーニング・コール。6:15、 バゲッジアウト。

6:30、朝食。バスにて空港へ。近畿日本ツーリストの手違いで、9:05のローマ行き飛行機に乗れたのは4~5名(京産+二宮+先生)。

あとの連中で海を見に行く。海は岸辺と冲では色が違っている。水切りをする。アラレ下手。植出、失敗しては責任転嫁。さすがAB型。

植出と二人でサッカー場の周りを歩き、空港へ。途中、白い箱の上に十字架のついた建物が道路沿いにある。中はガラスで、若者がオートバイに乗った写真と灯りがともったろうそくがあった。どうもこの場所でこの若者が亡くなったらしい。ろうそくの火を絶やさないのは親だろう。しんみりする。久武にドラクマを借り、空港でジュースを飲む。37ドラクマ。

 

12:05発オリンピック航空235便にて、ローマヘ向かう。窓際の席で海や山がよく見えた。






1982年の卒業旅行 2.カイロ・・・エジプト

2020年05月14日 | 旅・外国
離陸後、ジュース。雲でドーバー海峡見えず。アルプス見える。

17:00、夕食。眠さと疲れで気分悪し。顔色悪い。やはり、僕は添乗員に向かなかったのか?(この前年、JTB日本交通公社に内定をもらっていたが、「不整脈」「高血圧」「肝機能異常」で内定を取り消されている)

 

カイロ時間22:00、カイロ国際空港着。空港の入口に兵士が機関銃を持って立っている。前年、1981年10月6日、サダト大統領暗殺事件が起きたからではないか。彫りの深いエジプト人、その視線が鋭く不気味だ。バスにてカイロ市内へ。30分くらい。バザールの雑踏の中をバスは通る。降りてみたい。

23:00、ホテル着。思っていたより、いい雰囲気のホテル。場所も街の真ん中に近い様だ。街は車で溢れ、二重三重駐車は当たり前、趣味の様にクラクションを鳴らすものだから騒がしい。カイロでクラクションが鳴らされる理由。それはどの車も信号があっても守らず交差点に進入して来て慢性的な渋滞をひき起こしているからである。違法駐車もその渋滞に拍車をかけている。


フランス映画「死刑台のエレベーター」に出てくる、内側のドアの無い金属が網目状になったエレベーター。三人がスーツケースを持って乗ると、一階と二階のちょうど真ん中で止まってしまい、ボーイが焦る。一階に降りて階段で二階へ。ボーイは黒人が多い。二階の客室前廊下には黒人のベルガールが並んで座っていた。この人たちはチップのみで生活している様だ。エジプトはイギリスの植民地だったのだ。生田と二人のツインルーム。風呂に入り、洗濯。水が濁っていて、シャツやパンツが赤くなる。生田が大阪空港で友達にもらったウィスキー、スーツケースの中で割れている。えらい災難や。1:00就寝。

 

1982.2.22.
7:30、起床。8:15、朝食。パン、コーヒー等、アメリカン・ブレックファースト。

9:00、バスでピラミッドへ。ピラミッドは思っていた通りで、さして感動せず。中は狭く、湿気ていて、閉所恐怖症だったら、耐えられない。王の棺のあったらところまで往復すると、息が苦しい。体力を奪われる。カメラのストロボの調子、悪し。ラクダを写すと1ドル取られる。

小野がラクダに乗って(乗せられて)、10ポンド(3000円)ぼられる。いち早く、ツアーの人気者に。ピラミッドのよく見える所へ行って写真を撮っていると、ラクダに乗っておじさん達が追いかけて来る。ああ、怖! 絵はがきを売っている少年たちもいる。ここは地球的にも屈指の観光地なのである。

スフィンクスへ。スフィンクスは思っていたより小さい。

 

11:40、パピルス・ギャラリーへ。無料のコーラが出て来る。これは「コーラを御馳走になったのだから、少しは買い物をしないと」という日本人の気質に訴える作戦で、のちにインドに行った時にもこの作戦に出会った。

パピルスの作り方を見学。あまり、興味無し。

 

13:00、エジプト博物館着。外観は薄オレンジ色で立派。博物館前で女の子のグループが僕を見て声を挙げる。エジプトではモテるんちゃうか? ミイラを見たかったのだが、エジプトのミイラはイギルスに運ばれ、大英博物館で展示されているらしい。ちなみにツタンカーメンの像は日本で見ている。この時、エジプト博物館には無かった。貸し出しているらしい。それほど感銘を受けぬまま、14:05、エジプト博物館発。ホテルに帰り、昼食へ。阪大4人で一緒に行動。

割と小ぎれいなレストランを見つけ、入る。ランチは2.25ポンド。ビールとコーラを入れて、4.5ポンド。パン、ひき肉入りピラフ、チキン、サラダ、プリン。

小野が寒いから服を取りに行くと言い、ホテルへ。ピラフ食べられず。ホテルに帰る途中でサノらに遭ったとの事。彼らはもっと安く食事をしたそうだ。僕としてもそうしたかったのだが・・・。食後、カイロ・タワーへ。

繁華街は日本と変わらぬ佇まい。ナイル川を渡って、カイロ・タワーへは徒歩で30分。道路を横断するのが怖い。車も人も信号を全然守らない。しかも車は猛スピードで走っている。カイロ・タワー到着。入場料50ピアストロ。少し待たされて、エレベーターに乗り、タワーの展望台へ。上に上がるとエジプトの若者たちに取り囲まれる。ペンパルになろうと住所を交換する。僕の名前をアラビア語で紙に書いてくれた。Cabin、あげる。タワーの上、風邪強し。カイロの街が砂で煙っている。エジプト人は大人びてみえる。向こうもそれを感じたらしい。カイロ・タワーからの帰り、コーラを飲んで、パンを買い、ホテルへ。パン固し。食欲無く、これは昼食の食い過ぎ。

 

バーにてダブルのハイボール5.35ポンド。非常に高い。飲み終わってロビーに戻ると、同じツアーの連中がいて、一時間近く話し込む。部屋に戻り、シャワーを浴びて、絵はがきを書き、就寝。前日に引き続き、生田と同室。天井の高い部屋。

 

1982.2.23.
7:30、起床。8:15朝食。オレンジジュースはエクストラチャージで飲めず。

9:00、バスにてメンフィスへ。オプショナル・ツアー。ナイル川の西岸を南下。車窓からレンガ工場が見える。泥の河で洗濯している人有り。メンフィス近くでは道が泥沼化し、前のバスが道から落っこちて横倒しになっている。僕たちのバスも危ういところだった。

今日から、僕は阪大4人が別々に、或いは、阪大じゃない奴と歩きたいとの考えから、阪大以外の人と歩く様にする。生田は阪大の4人組で歩きたい様だが。

10:00、メンフィス着。ラムセス二世の像(石灰岩)有り。スフィンクスも有る。僕が写真を撮ろうとすると、アラレが来て僕と肩を組もうとする。肩を抱いてハイ、ポーズ。ああ、えーえ目したわ。アラレの目、きれいやなぁ。

10:40、メンフィス発。緑の中を通って、水車なんか見たりして、11:00、サッカラ着。階段ピラミッド、神殿有り。涼しい。大臣の墓有り。写真を撮ろうとすると何故か止められた。墓の写真はNGなのだろうか?

 

13:00、昼食。エジプトのパンみたいなもの、オレンジジュース50P、焼き鳥、ライス。W.C.へ行って用を足すと、少年がタオルを持って来たので、それで拭く。チップが必要だったのかなぁー?後で後悔する。

自分たちが乗っているバスのタイヤが坊主になっている。ビックリ。道を悠然と歩くヤギに紙をやるとバクバク食べる。渋谷(中央大学で住友銀行内定)、100円ライターで買い物しようとする。この頃は、日本でしか手に入らないもの(100円ライターとか紙製の日本人形)を持って行くと、結構な品と物々交換ができた。

14:00、レストラン発。バザール、モスクへ寄り、16:00、ホテル着。

 
16:50、ホテルから郵便局へ。郵便局は汚い場外馬券売り場の様だった。そこでお釣りとしてもらった紙幣は金額も読めないゴミとしか言えないもの。

みんなと一緒に歩くのは機動力に欠けるので、植出と一緒に別行動。文房具店で、植出は日程表をコピーし、僕はメモ(20P)を買う。デパートに立ち寄ったり、コーラを飲んだり、映画館を覗いたり(「ナイトホークス」「砂漠のライオン」「征服王」をやっていた)して、ラムセス中央駅へ。駅の近くでエジプトの兵士に日本語で声をかけられ、「えらいなぁー」と思って、「You are diligent(あなたは勤勉ですね)」というべきところを「You are dangerous(あなたは危険ですね)」と言ってしまった。焦ったぁ。向こうは分からなかった様だ。

駅には改札口は無く、誰でも入れる。構内の線路上を歩いている人もいるし、車内ではたくさんの人が網棚に座っている。

僕はこれから回る都市の「駅」を訪れて、いちばん安い切符を買う事にしたのである。切符を手に入れる為、散々歩き回るが英語が通じず苦戦を強いられる。どうも何種類もの切符があるらしい。1時間近く駅構内をウロウロ。ついに買う事ができず、駅の入口にあった使用済み切符入れから1枚失敬する。

 

駅を出たのが、19:00。土砂降りの雨。幸いな事に「晴れ男」の力を存分に発揮したせいなのか、雨はすぐ止む。道端でホットドッグ(にんにくの様な強い匂いのするソーセージとニンジンをパンではさんだもの)15Pを食べ、映画館の前の食堂へ。ビールを飲み、オイルサーディンと何か訳の分からない白いぶよぶよしたもの、キュウリ。二人で6.9ポンド。もうこれでエジプトのお金はコイン以外無い。余っても、他国の通貨とは交換してくれないから、助かった。2日間で20ドル。安い。20:00、ホテル着。部屋でパンを食う。22:00、入浴。

※エジプトで食べたホットドッグは文字通り「犬の腸」。ぶよぶよしたものは「牛の脳みそ」との事。ああ、気持ち悪い~~。添乗員の深沢さん情報。

1982年の卒業旅行 1.大阪国際空港〜ロンドン

2020年05月13日 | 旅・外国
1982.2.20  3:00前、車で自宅を出る。大学の友人生田(サントリー内定)をピックアップして、大阪国際空港へ。僕らがいちばん乗り。2階から見ていると、同じく同級生の小野(住友化学内定)到着。最後に植出(パナソニック内定)が到着。この四人で今日から「大学生協主催ヨーロッパ歴史の旅」に参加するのである。訪れる国は、イギリス・エジプト・ギリシャ・イタリア・オーストリア・西ドイツ(当時)・スイス・オランダ・ベルギー・フランスの10カ国。

元々、就職浪人した僕。海外旅行に行く予定は無かった。大学の同級生四人で申し込んでいたのだが、その内一人が旅行期間中に内定をもらった会社の行事が入って行けなくなり、部屋がツインという事で僕にお呼びがかかったのである。

就職して返す事になったツアー料金は、全宿泊費・全交通費(航空機・都市から都市へのバス・ベネチアからウィーンへの寝台特急)・全朝食費・簡単な半日市内観光が付いて、27日間で36万5000円。1ドル=243円の時代であるから、安いと言えるのではなかろうか?

出発前には、母方の祖父母から「激昂の電報」があった。海外旅行はそんな「高嶺の花」の時代だったのである。

この旅では「東京銀行のトラベラーズチェック」を持って行った。淀屋橋の「東京銀行大阪支店」まで行って両替した。海外ではまだ「東京銀行」が強い時代。TCもそこそこ使えたのである。

 

重いスーツケースを引き摺って、レストランに入る。僕はカレーライスを注文した。これが最後の日本食か!?

生田、レストランの窓からクラブの友達が来ているのを見つけ、会いに行く。この時もらったウィスキーが「魔のウィスキー」になる事も知らずに。

 

5:00 英国航空のカウンターに行く。京都産業大学の男性(後にサノと分かる)と女性が一人(のちにアネゴと分かる)並んでいた。

両親、妹、大叔父、大学の親友が見送りに来ている。

英国航空のお姉さん、きれい。飛行機は一時間遅れている模様。

6:20 通関へ。ここで見送りの人たちとはお別れ。生きて日本へ帰れるかな?

税関はたくさんの人々が並んでいる。パスポートと搭乗券を提示。通関後、タバコCabin100’sを1カートン買う。1100円。生涯初めての「duty free shop」での買い物。搭乗ゲートの前まで移動。伊丹空港の国際線フロアーがこんなに広かったなんて知らなかった。同志社女子のツアーがいる。かわいい子多し。わがツアーはどうかな? トイレに行き、キャッシュベルトにパスポートを入れる。植出も一緒。

 

散々待たされて、英国航空006便は20:15大阪国際空港を離陸。成田・アンカレッジを経由してロンドン・ヒースロー空港へ向かう。定刻より遅れる事、1時間。外は真っ暗だ。

 

僕のイスはリクライニングが壊れていて、日本人スチュワーデスに言ったら、「ロンドンまで直りません」と素っ気ない返事。何を考えているのか!その後、他のスチュワーデスに「イスを元の位置にしろ」と言われ続ける。

初めての海外、久しぶりの飛行機。大阪を離陸する時、本当に飛ぶんだろうかと気分が悪くなった。

成田までにパインジュースが出る。成田からどんな奴が乗って来るんやろか?

21:45 成田着。ガラガラだった英国航空006便も満員になる。

なぜか我がツアーの女子は同志社女子に比べて質が落ちる!?気のせいか?

 

ジュースを飲めばただなのに、スコッチのハイボール(2ドル)を飲む。機内はドルも円も使えるので、どちらで買えばいいか、悩ましい。スリッパ、アイマスク無料で配られる。イヤホン(700円/3ドル)借りる。機内は暑い。京産の奴が近くにいる。0:15 最初の食事が出る。肉・寿司・サラダ・パン・パイ・コーヒー。量はこんなものか・・・。添乗員、近畿日本ツーリストの深沢さんは機内食を食べない。彼は35歳位。旅慣れた人には不味くて食べられないのか?

 

5:00(日本時間) 10:00(アンカレッジ時間)アンカレッジ国際空港到着。1982年当時、ヨーロッパ線のほとんどはアンカレッジを経由していた。アメリカ合衆国上陸。


いろいろ見たが品少なく、値段高い。酒くらいか、安いのは・・・。

ビール飲む。小野1ドル、僕1.25ドル出す。初めて手にするアメリカの25セントコイン3枚。

 

6:20再び飛行機へ乗り込む。3回目の食事があった後、9:20から映画「クリスタル殺人事件」を見る。最初10チャンネルで聞いていたら、画面と音声がずれていたので、イギリス人のスチュワーデスに文句を言ったら、9チャンネルにしてくれた。声が小さい。映画の最初の部分が分からないので、登場人物の名前がなかなか憶えられない。映画は飛行機の壁にある絵が回ってスクリーンになり、客席の上の映写機から映す小さなもの。字幕映り悪く、山場少なく、面白くなし。どうしたガイ・ハミルトン監督。出演がロック・ハドソンとエリザベス・テーラーじゃねえ・・・。生田・小野・植出はアイマスクをして眠っているのに、なんで僕だけ眠い目を擦りながら、こんな面白くねえ映画を見なきゃならないんだよー!

上映後も電気は点かず、飛行機は一路ロンドンへ。

外ずっと暗し。13:40、朝食出る。肉、ハム。海老入りサラダ、パン、牛乳。



食後、前の席のサノ(ツムラ内定)らとトランプ。

 

現地時間6:10、ロンドン・ヒースロー国際空港到着。薄暗し。空港は広く近代的だ。僕はすぐ通関できたが、生田はえらい時間を食った。エスキモーと間違われたのではないか!?

英国航空のポーターのストライキの為、自分たちで荷物をカイロ行きの英国航空カウンターへ持って行く。

8:25、カイロ行きの出発時間までかなりあるので、一旦解散。地下鉄ヒースローセントラルからハイドパークコーナーへ。四条軌条方式。車内狭く、かまぼこ型。軋む音しきり。地上に出た地下鉄より見る家々はどれも同じ形に見える。


初めて踏むイギリスの大地。ハイドパークは広く、涼しく、人はいず、日本の公園と雲泥の差。ジョギングする人、馬に乗った警官、芝生に降りた霜の水滴。僕の眠気も吹っ飛んだ。

写真を撮りまくる。植出はゴミ清掃員のおじさんにサインをもらっている。おじさん、恥ずかしそうにしている。

歩いてマーブルアーチへ。植出によれば、この門の下では誰とでも話ができるのだそうだ。

車のエチケット良し。人が道を渡ろうとすると、車は必ず止まってくれる。

僕と植出、歩くの速し。小野・生田、遅れる。

マーブルアーチのそばに「マクドナルド」。まだ食べ物はやっておらず、飲み物だけなので、あきらめ、通りを東へ。やっと「7days a week」の店を見つける。外見は刑事コロンボでもいそうな安っぽい店。初めての外国での食事にいささか緊張。中に入るとイギリス人が静かに食事をしている。席に座っても誰も来ないので、「Excuse Me」と言って店の人のところへ行くと、席に座っていろ、との事。

頼んだ食事は2.25ポンド。目玉焼き、焼いたフランクフルト、トースト、コーヒー。味はまあまあやけど、値段高いんとちゃうか・・・ロンドンはかなりのインフレ?

食事は音をたてないように、そしてチップをいくら置けばいいかアタマを悩ます。

 

食後、ハイドパークの北を回って、アルバート公の像、「ヒッチコック映画」「刑事コロンボ・ロンドンの傘」でも有名なロイヤル・アルバート・ホール」へ。この辺りのアパートは怪物の様に大きい。


ソフトクリームを屋台にて食す。屋台のおじさんがソフトクリームではなく、ホットドッグを作りそうになったので、焦る。25ペンス。ソフトの上にレモンクリーム載っているが不味し。

地下鉄の入口、日曜日の為、閉まっているところ多く、通りゆく人に聞きながら、駅にたどり着く。駅のホームはとことん深い。エスカレーターが木製なのもロンドン地下鉄がSLの時代から動いている世界最古の地下鉄である事を物語っていた。

ホームに僕の大好きなMel Brooks監督の「珍説世界史パート1」ポスターが貼ってあった。嬉しい。

 

12:30、ヒースロー空港。家に絵はがきを出す。

英国航空の時刻表を探すが見つからず。添乗員の深沢さんによれば、鉄道案内所の様なところに置いてあるそうだ。

Duty Free Shoppers 内の待合せ室に再集合。四人ほど遅れた。

飛行機も遅れる。

14:15、ロンドン・ヒースロー空港を離陸。英国航空155便でエジプトはカイロへと向かう。


湖水地方〜ネス湖・・・イギリス

2020年05月11日 | 旅・外国
1993年、私は妻と一歳になる娘と共に、ロンドンへ向かうJALの機内にあった。

娘の事を思い、外国のキャリアではなく、JALにした私たち夫婦の気遣いを知ってか知らぬか、娘は穏やかな表情で眠っていた。

今回の目的地は、アーサー・ランサムの少年小説の舞台となった湖水地方(ピーター・ラビットの故郷としても有名)とネス湖である。アーサー・ランサム全集は、私が転校生としてイジメられていた時、二宮金次郎の様に小学校から自宅まで、歩きながら読み耽った本である。

 

ロンドン・ヒースロー空港に着き、タクシーでヒルトンホテルへ。

ヒルトンホテルと言っても、ピンキリである。そんなに豪華さは無いけど清潔なホテルであった。ホテルに着いて分かった事。イギリスは明日12/26が「BOXING DAY」だと言う。要は「12/25まで飾ったクリスマス飾りを箱にしまう日」。その為、全国の鉄道が止まってしまうのである。今日一泊して、明日鉄道で湖水地方に行こうと思っていた私たちのプランがガラガラと崩れ落ちた。

ホテルのカウンターに相談すると、ロンドンから500キロある湖水地方へはレンタカーしかないとレンタカー屋にあたってくれた。そして、有難い事に車の予約までしてくれたのだ。

 

翌朝、早くに起きてレンタカー屋へ。少し受付で並んだが、VOLVOのワゴン車を借りて、無事ロンドンを出発。郊外へ出るまでVOLVOは国産車より大きいので緊張したが、出てしまえば逆に安定感があって、頼もしい味方になってくれた。途中国道沿いのサービス・エリアで昼食を取り、500キロをひたすら走る。一人で運転しているので、最後の方は睡魔と闘いながら、運転。何度か、凍っている路面で滑りそうになりながらも、湖水地方の中心・ウィンダミアに到着。予約しておいたホテルに雪が積もっていて、「白いお菓子の城」に見える。娘は車中でも大人しい。

 

翌朝、アーサー・ランサムの著書にいちばん多く出て来る「ウィンダミア湖」と御対面。著書では「ハリハウ」という名前で登場する町から観光船に乗って、湖上遊覧。やっと憧れ続けた場所に来られた喜びに思いっきり浸る。


 

車でグラスゴーへ移動。ここも泊まりはヒルトンホテル。翌朝のバイキングでは「味噌汁」「海苔」「梅干し」「白米」など日本食のコーナーがあり、有難い。グラスゴーに日本企業が多いせいだろう。

 

ここから先は道が凍結している危険性もあるので、レンタカーを返して、電車で北上。目的地はネス湖観光の拠点・インバネスだ。インバネスで鉄道を降り、駅前に出るとすぐ左手にあったのが「カラオケ」という赤い提灯。日本の「カラオケ」がここインバネスにも進出していた。

 

ネス湖の観光はバスで。冷たい風が吹き荒び、木々がしなう様に低く生えている。

車窓から目を凝らしてネス湖の湖面を見据えるが、さすがに「ネッシー」は出て来ない。しかし、不気味な事に変わりはない。お土産屋でネッシーグッズを買い漁り、インバネスから電車でグラスゴーへ戻る。グラスゴーで一泊後、飛行機でロンドンへ。ロンドンの遊園地に行く。新年を迎えた。

ロンドンでフリー・アナウンサーの逸見政孝さんの逝去の報に接する。


帰路もJAL。しかもエコノミークラスに乗客を乗せ過ぎたのか、席のみ、ビジネス・クラスへアップデート。機内食はエコノミー。

娘は今27歳。このイギリス旅、憶えていないだろうなぁ・・・

(1993年)


ペルー〜ボリビア

2020年05月11日 | 旅・外国
二回目の南米は、ペルー~ボリビア。成田からシアトルを経由して、ペルーの首都リマに入る。リマは治安がとても悪いと聞いていたので、緊張して「リマ国際空港」に到着。日本にいる時からひいていた風邪が悪化していて、最悪の状態。熱があるかもしれない。



 

重たい荷物をカートに載せて、ゲートから出て来ると一人のおじさんに声をかけられた。旅行代理店の人の様だ。リマ市内まで無料で車に乗せて連れて行ってやるとの事。心身共に疲れ果てていた私は荷物をおじさんに任せた。車中、何の予約もしていない事、今回の旅でどこに行きたいかという事を話すと、俺がすべてコーディネートしてあげるとの提案。そして、フジモリ大統領候補の選挙があるので、数日後からペルーの公共交通機関がすべて止まってしまう事を教えてくれた。

リマの中心地、大統領府のある広場の一角、おじさんのオフィスに到着。ホテルと交通、ルートに関して、話し合い、ルートを決める。リマから飛行機でクスコに飛び、クスコを観光。翌朝、鉄道でマチュピチュへ移動。マチュピチュ観光後、クスコへ戻り、鉄道でボリビアの首都ラパスへ。ボリビアのチチカカ湖でウロス島を観光。その後、バスに乗り国境を越え、ペルーへ。首都リマへ戻る。

今度はリマから南に向かって5時間。ナスカの地上絵を見に行く。セスナ機に乗り、地上絵を見たら、リマに帰って来るという旅程である。もちろん、添乗員が付く訳ではなく、私がクーポンの束を渡され、それを1枚1枚使っていく訳である。

こんなに体調の悪い時におじさんと会えた事を感謝。

 

一泊目は、大統領府の前のホテルを取ってくれたので、チェックイン。

広いベランダがあり、そこから町の様子がはっきり見えるナイスな部屋。

体調を整える為に早めに就寝。

翌朝早めに起き、準備をする。ここで南米のトイレ事情を少し。

南米はトイレの水の勢いのせいか、流す紙のせいか分からないが「お尻を拭いた紙は流さず、トイレについている屑籠に捨てる」のだ。基本、空気が乾燥しているから臭わない。

リマ観光。まずは大統領府の下にある「カタコンベ(たくさんの骸骨が祀られた地下墓地)」に。実は私、小学生の頃、週刊少年マガジンの「かたこんべ特集」見て、3日間高熱を出して寝込んだ事があるにもかかわらず、骸骨やミイラに関心があるのである。

街には「血圧屋」と呼ばれる「血圧を測る事で生計を立てている人たち」もいた。

リマは治安が悪いとガイドブックに書いてあったが、歩いたのが昼間だったせいか、それほど怖いという印象は無かった。

ペルー日系人会館(のちに立てこもり事件で有名になる建物)を見終わって、トイレに行ったら、トイレットペーパーが無い。会館の向かいにスーパーがあったので、買おうと思うがお金が無い。ATMを探し、トイレットペーパーを買い、トイレに戻った。よくよく見ると便座が無かった。盗まれる事があるので、イタリアなどでも飲食店が便座を外しているケースは多い。

仕方がないので、腰を少し浮かせて、用を足した。足がつりそうになった。

翌朝、リマを出て、飛行機でクスコへと飛ぶ。前に見えるは雪をかぶったアンデス山脈。飛行機には「高山病」対策の為、一人一人に「酸素ボンベ」が備え付けられている。

 

クスコのホテルにチェックイン。インカ・コーラ(プラッシーの様な黄色のコーラ)とコカ茶(覚醒剤の原料となるコカの葉から抽出されたお茶。高地で働くインディアが飲み、高山病の予防にも効果がある)を飲む。

クスコを散歩。アルパカの毛で編んだセーターをお土産に買う。

翌日、鉄道で4時間、マチュピチュへ向かった。クスコからマチュピチュへは標高が下がっていくので、息が段々楽になっていくのを実感した。

巨大瀑布とかアマゾン川とか自然の大きさが好きな私にとって、マチュピチュは期待していたほどではなかった。ただ、何百年もジャングルの中で人知れず眠っていたマチュピチュを初めて発見した人の驚きはいかほどだったのか、そんな事に思いを馳せた。

 

クスコへ戻り、翌朝鉄道に乗ってボリビアの首都ラパスを目指す。外国人は1両だけ連結されている車両に乗る事になっていた。所要時間は7時間位か。

途中の駅で車窓越しに地元の人が鶏の丸焼きを駅弁として売る様に持って来る。毛糸でできたインディオの人形を売っている少女もいる。1日数本しか通らない鉄道によって生計を立てている彼女たちの生活はどのようなものか、旅人は想像するしかなすすべがないのだ。

列車からバスに乗り換えて、ボリビアの「チチカカ湖」の「ウロス島」へ。ここでは湖に浮かんだ「藁の島」を観光。島にはインディアンが暮らしていて、火を使って炊事している。

再びバスに乗り、先を急ぐ。2~3日中にペルーのフジモリ大統領の選挙があり、ペルーの交通機関が止まるという事らしい。その余波がボリビアの交通機関にも及ぶという。

休憩で止まった町の公衆トイレ、男性が用を足すところは限りなく高かった。

最初は手を洗うところと思った位だ。背の高い私でもちんちんをやっと載せられるほどだ。ボリビア人の足の長さを思う。

 

標高4000メートル、富士山の山頂より高いところに位置するボリビアの首都ラパス。すり鉢状になっていて、真ん中が凹んでいる。すり鉢の縁には貧困層が、すり鉢の一番凹んだ中心には金持ちが住んでいる。これは空気が濃いか薄いで決まって来るのである。

五分も歩くと私は息苦しくなり、座り込まなければいけないほどだった。ちょうど私が行った時、ラパス市民マラソン大会をやっており、私がしんどくて座り込んでいる横をランナー達が軽快に走り抜けて行った。

 

ラパスには「遊園地」があり、ミニ・ジェットコースターに乗ってから、町をぶらり。坂を金持ちゾーンへと下りながら、「レストラン東京」を探す。「寿司FUJI」という看板を見つけ、店内へ。店主に銃を突きつけられる。ボリビアは中国からの密入国者が増え、治安が悪くなっているとの事。それゆえ、鮨を握るまな板とカウンターの間に銃を置き、いつ強盗が入っても大丈夫な様にしているとの事。日本語で事情を説明したら、温かく迎え入れてくれた。店主は元々大阪・江坂の寿司屋にいたとの事で、かつて吹田市に住んでいた私としては親近感が湧く。

鮨を肴にビールを飲んでいると、40代のおじさんとボリビア人らしい女性が入って来て、店主も入れて四人で盛り上がる。おじさんはボリビアにボーリング(工事用の穴を掘る技術)を教えに来ているという事だった。

私が「フォルクローレ(南米の民族音楽)」を聴きに行きたいというとおじさんが連れて行ってくれるという。女性は彼の愛人らしい。

夜の10:30、おじさんオススメの劇場で三人待ち合わせ。ショーは「タンゴ」あり「フラメンコ」あり「民族音楽の演奏(「コンドルは飛んで行く」など)」ありで盛り上がる。最後に出て来た「フォルクローレのバンド」が開口一番言ったのは、スペイン語で「今、この会場に二人の日本人(ハポーネ)が来ている。その二人の日本人に捧げます」。

演奏し始めたのは、「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」。私の心に深く染み入った一曲であった。南米の夜は更けていき、人の出会いは貴重だと思った。

 

翌朝、ラパスから飛行機でペルーの首都リマへ。リマのホテルへチェックインし、

市内観光。と言っても、「地球の歩き方」を見て、ひたすら歩くだけ。

 

翌朝、旅行社の車がホテルの前に迎えに来ている。今日はナスカの地上絵を見に行く。私の横には知らないおばさん。添乗員さんに誰?って聞くと、添乗員の叔母さんで、ナスカに行く途中の町まで行くので同乗しているとの事。

少し走ったところで、食堂に立ち寄る。叔母さんの朝食タイム。私はホテルで食べて来たので、トイレの場所を聞き、食堂の裏手のトイレへ。

6畳位ある部屋の中央に便座があったろうとは想像ができる。しかし、何十万という人々がウンコをし続けて、三メートルの高さのピラミッド状の山になっていた。乾燥地帯なので、臭いは全くせず、それ故それだけの人数の人々が用を足したのだろうが、さすがに日本人の私は用を足す事は出来ず、ナスカの手前、空港のあるイカの町まで我慢する事にした。イカのホテルのトイレに行ったら、またしても「便座」が無く、中腰で用を足していたら、足が吊りそうになった。

 

ナスカの地上絵観光飛行の飛行機はイカの空港から出発する。欧米人のおばさんと二人、セスナ機に乗り込む。一つの地上絵につき、セスナ機は右回転と左回転を繰り返す。右座席のおばさんと左座席の私に地上絵をよく見てもらう為だ。

古代人が飛行機も無い時代に作った「ナスカの地上絵」。どういう風に作ったのか、古代ロマンに思いを馳せつつ、セスナ機を降りて、首都ペルーへ5時間の帰路についた私である。

 

事件はそんな時起きた。車のエンジンが砂漠地帯のど真ん中で動かなくなったのだ。車から降りて、私と添乗員さんで車を押す。ドライバーが何度もエンジンを駆ける様、試みる。1時間位、やっていただろうか? 永遠に続く砂漠の中、ガソリンスタンドなど全く見えない。

車を押している私たちに容赦なく、太陽の光が降り注ぐ。湿度が低いとはいえ、汗ばんできた。

「デデディィィ・・・ドドローン」

奇跡的にエンジンがかかった。

これでリマへ帰れる。ホントにホッとした。

 

ペルー帰国前日、タクシーで「黄金博物館」へ。リマのタクシーにはメーターが付いていないので、値段交渉が必要。旅行者に「黄金博物館」まで幾らかかるのか分かるはずもなく、交通整理をしていた警官に値段交渉をしてもらう。金額が決まったら、それを紙に書き、運転手に見せて同意を取った上でタクシーへ乗り込む。

 

「黄金博物館」には、「インカ時代の母子のミイラ」が展示されていた。

母子のミイラには物語がある。写真を撮った。ミイラに興味があるのである。

ノドが渇いたので、インカコーラを買って飲む。プラッシーの様な色。名前に「インカ」が付くので、私は「ミイラの粉末」が入っている様なイメージがしていたが、実際は「普通に美味しいコーラ」だった。


「セビーチェ」という食べ物がある。ペルーの人たちが好んで食べる「魚介類のサラダ」である。味はビール(スペイン語ではセルベッサ)に合う。島国の日本人好みだ。

この「セビーチェ」の影響が帰国した私に襲いかかるのだ。その話は後ほど。

 

ペルー最終日は地元旅行会社に行って支払い。全行程で28万円位か。

こちらの金額に換算すると巨額になる。

しかし、風邪で最悪の体調だった中、助けてくれた恩義もある。ほとんど値切らずに支払う事にした。

 

帰国し、会社で健康診断を受ける。

2~3日して、会社に出勤する途中で「身体がだるくて、階段を上がれない状況」になった。何とかして会社に到着すると産業医の先生から電話があり、すぐに入院しなさいとの事。血液検査のγ-GTPの数値が1600有り、A型肝炎にかかっているそうだ。入院して、数日経つと黄疸が表れた。

健診がいいタイミングであったと今にしてみれば思う。

そう、「セビーチェに使われている野菜から感染した可能性」が否めない。

入院は三週間におよび毎日二回の点滴で肝臓の数値を下げ、退院する事ができた。

(1990年)




チリ・・・南米

2020年04月27日 | 旅・外国
南米に惚れた。ブラジル・アルゼンチン、ペルー・ボリビアと旅し、三回目の今年はチリの最南端、マゼラン海峡沿いのプンタ・アレナスへ行く事にする。

日本からは、アメリカン航空で南米のハブ空港マイアミに飛び、飛行機を乗り換え、チリの首都サンチャゴへ。サンチャゴはTシャツ一枚でも汗ばむ陽気。国際空港から国内線専用のターミナルへ移動し、塔乗を待つ。ここからチリ最南端の町プンタ・アレナスを目指すのだ。プンタ・アレナスは日本テレビ「電波少年」でドロンズが旅を出発した町でもある。
5時間後、到着。日本からは30時間あまりかかっている。プンタ・アレナスの空港からはタクシーで市内へ。寒い。雪が降っており、マゼラン海峡沿いの町なので、海峡から強く吹く風も顔に痛い。厚手のコートを着ても寒いのだ。

ガイドブックに載っていた2つのホテルから1つを選び、チェックイン。

ホテルの室内はとても温かくて生き返る。翌日の氷河ツアーをフロントで予約。

ツアーの出発点まで、タクシーで4時間かかるので、往復8時間。1日押さえて3万円。南米のここまで来る事は絶対無いだろうから、奮発した。服を着込み、マゼラン海峡海岸へ散歩。どんよりと灰色の空の下、荒れた海が目の前に広がる。体をなぎ倒さんばかりの強風が吹き荒れている。自然の怖ろしさを全身で感じる。海岸から見るだけでも怖いのに、船に乗ってこのマゼラン海峡に挑んだ過去の船乗りたちに拍手を送りたいという感じだ。


ホテルのレストランで夕食を取り、早めに就寝。

翌朝はホテルをまだ真っ暗な午前3時にタクシーに乗り、氷河ツアーの出発地点に向かう。欧米人に混じってツアーに参加。巨大な氷河等を見て、夕方終了。

また、4時間かけて、プンタ・アレナスへ戻る。

翌朝、タクシーで空港へ行き、プエルト・モンまで飛行機。

この町からサンチャゴまで1日1往復の寝台特急に乗るのが目的。

まずは「プエルト・モン駅」に近いホテルを押さえる。南米の市街地にあるホテルでは英語が通じるので、ホテルを取るのも楽。もちろん、観光客が泊まらない様なホテルではスペイン語しか通じない。

部屋に荷物を置き、駅に行って、翌日11時発の寝台特急の指定券を取る。

翌日、せっかちな私は、10時過ぎ、駅に着き、止まっていた客車に乗り込んだ。

ところが11時になっても動き出す気配が無い。11:15、アメリカ人らしき乗客がやってきて、

「駅前からバスが出る。機関車が来ないらしい。機関車のいる駅まで北上する」

と教えてくれた。これが無ければ私はバスに乗れていなかっただろう。鉄道会社からのオフィシャルなアナウンスは全く無い。
でもこれが旅の醍醐味だと思う。日本では当たり前の非常時の誘導。誘導が無くても、自分で感じ、自分で動くという事。「チリの流儀」に試されていると思った。それが何故か心地良かったのだ。

駅前で待っていると、11:30過ぎマイクロバスが来た。バスはサンチャゴの方角、すなわち、北に向かって走り出した。

途中、2つの駅に立ち寄り、機関車の来るのを待つ。乗客はその度に、駅の待合室で待機。それぞれ30分くらい待っただろうか?バスは北に向けて走り出した。

15:30、着いた駅で待てとの事。ホームに座り、線路に向かって足を投げ出し、ゲームボーイで「麻雀ゲーム」をやりながら1時間。なかなか機関車は来ない。

日本の常識で言うと考えられない事態である。

そうこうしているうちに、遠くで汽笛が聞こえた気がした。

蜃気楼の様にレールをゆっくりと近づいてくる機関車。

17:00すぎ、機関車を付け直した寝台特急はゆっくりとサンチャゴに向けて走り出した。

すぐにトイレに行く。便器に座っていると、便器の下から冷たい風が吹いてくる。かつての日本の列車にあった様に、汚物がそのまま線路に排出されるシステムである。


列車には「食堂車」があって、とてもお腹が空いたので、ステーキと水割りを頼む。まだ他の乗客はここには来ていない。

ステーキは少し硬かったが、ウィスキーの酔いが体に沁みる。そして、列車がレールの繋ぎを通り過ぎるカタンコトンという衝撃音が心地良い。次第に意識を失くしながら私は眠りに落ちていった。

6時間遅れでサンチャゴに向かった寝台特急は早まる事も遅れる事も無く14:00にサンチャゴに着いた。

サンチャゴのホテルにチェックインし、スーツケースを置き、バスに揺られて約1時間、サンチャゴの西に位置する軍港バルパライソに。神戸よりもっと山が海に迫った町だった。山の斜面には、日本でいうと明治時代に作られた「斜めに斜面に沿って昇降する木製のエレベーター」が多数点在。それに加えて、建物が原色で塗られ、白と赤と黄色と青のコンビネーションが素晴らしい。

私は52カ国に旅したがこのバルパライソいう町がいちばん好きだ。

木製のエスカレーターに乗って、町を上から眺めても飽きない魅力がバルパライソにはあった。軍港ゆえ、写真を撮るのが禁止。それでもこの町の事を忘れる事はないだろう

(1995年)

 


タヒチ〜イースター島

2020年04月23日 | 旅・外国
今回の目的地はイースター島。イースター島は南米チリ領なのだが、チリを経由するより、タヒチを経由した方が早い。私はエールフランス航空でフランス領タヒチへと向かう。成田からタヒチのパペーテ国際空港までは11時間程度。

パペーテ空港からホテルまでは市街地を抜けて1時間位か。車が大渋滞していて、クラクションの音もやかましく、排気ガスの濃度も濃いのでせき込みそうになる。タヒチには3日滞在する。タヒチからイースター島を通ってチリの首都サンチャゴを結ぶランチリ航空のフライトが週二便だからだ。

着いた初日はタクシーでパペーテ市内まで行き、市場などを訪れる。魚などを売るには少し気温と湿度が高いかもしれない。魚の腐った臭いが鼻の奥にグッと来る。

2日目は、簡易オートマ(シフトを幾つか入れ変えなければならない)のレンタカーを借りてタヒチ島を一周。ゴーギャン美術館に立ち寄る。ゴーギャンが「少女を愛する愛情の持ち主」だった事を知る。

3日目、パペーテ国際空港を発ち、イースター島へ向かう。新婚さん4組と私と添乗員さん(男性)の10人のツアー。JTB、HIS、近畿日本ツーリストなどそれぞれ違うツアー会社からタヒチの旅行代理店が請け負ったツアーなので、オプションがそれぞれ違う。5時間かけて、南海の孤島イースター島に到着。

天気は晴れ。雲一つ無い快晴。30回近くイースター島に来ている添乗員さんが「こんな天気のいいイースター島は初めてだ」と言い、パンフレット用の写真を撮りまくっていた。いつものイースター島は孤島で雨風をさえぎるものが無いので、いつも荒れているという。日本で見るガイドブックの写真の様にはいかないのだ。この天気は「私が晴れ男」だからなのかもしれない。

イースター島の空港からバスに乗り、宿泊先のホテルへ。キーをもらい、自分のスーツケースを運び込む。木製のベッドに寝てみる。ベッドの下から「ミャオミャオ」と鳴き声が・・・

部屋の前にお掃除のおばさんがいたので、声をかけ、部屋について来てもらい、ベッドの下を指さす。彼女にも何がいるのか分かったようで、ベッドをずらし、子猫を取り上げた。あとは彼女に任せておけば、親猫を探してくれるだろう。

 

マイクロバスに乗って、モアイを見に行く。山肌に運びかけのモアイが残っており、その辺りは泥でぬかるんでいる。昨日まで雨が降っていた証であろう。

海辺に立ち、海の方を向いているモアイを見に行く。写真で見るより大きい。

私は観光スポットに行くのが苦手だ。行ってもすぐ飽きてしまう。

海外に行く目的はその土地に住む人々がどんな暮らしをしているか?である。

モアイを見た後、おみあげもの屋さんに行くまでの車中、外を歩いている現地の人を見ていると、靴を履かず、裸足で歩いている人がほとんどだった。私は南米チリにも行ったが、首都サンチャゴを始め、訪れた町ではみんな靴を履いていた。

その事を考えると、イースター島の人は貧しいのかもしれない。

数軒の観光客用のホテル、おみあげもの屋を除けば、島民の住居と観光スポットモアイ像しかないのだから・・・

バスがみあげもの屋についた。この時、私はパニックに襲われていた。

お腹を壊し、いつ下から出てもおかしくない状態だったからである。ホテルまではもたない。新婚さんたちは楽しそうに買い物をしている。そして、私は決意した。野糞をしようと。止まっているバスに隠れている民家の庭先に生えた木の付け根で。民家から誰も出て来ない事を祈りながら、用を足し、ポケットティッシュで慎重に拭いた。男性の添乗員が遠くから見ていた様だが、目をつぶってくれた。

何食わぬ表情でおみあげもの屋の店内に入り、

「これ似合う?」
「どうしようかなぁ?」

という新婚さんの戯言を聞きつつ、買い物を済ませた私だった。

 

私はイースター島から日本に戻る。

イースター島で仲良くなった添乗員さんは数年後来日。お台場のホテルで再会を果たした。

(2005年)

アンボセリ国立公園〜マサイマラ国立公園・・・ケニア

2020年04月20日 | 旅・外国
アフリカ専門旅行代理店「道祖神」の手配した車が迎えに来て、アンボセリ国立公園へ向かう。ナイロビを出て15分、未舗装の道、砂煙を上げながら猛スピードで走っていると、きりんの群れを発見。興奮。アフリカに来た事を実感。それから、象・インパラなどを見ながら自分が別世界に来た事を感じる。ナイロビから5時間程未舗装路を走っただろうか、目的地のアンボセリ国立公園のホテルに到着。ここはアフリカ最高峰キリマンジャロ眼下のサバンナを臨む国立公園である。ここは周りに有刺鉄線が張り巡らされており、野生の猛獣が入って来る可能性がほぼ無い宿泊施設。部屋に案内される。緑のテント生地で覆われ、セミダブルのベッドが据え付けられている。

昼食は野外レストランでバイキング。私以外は大勢のグループ。テーブルに誰かがいる。私は一人で食べている。骨付きの肉を食べ終わり、他の料理を取ろうと席を立った瞬間、空を舞っていた鷲が急降下してきて、私の食べ残した骨付きの肉を皿に接する事無く咥え、急上昇した。周りの欧米人から大歓声が沸き起こった。なんか、野生の中に来たとつくづく実感した。大地は生きているのだ。

 

野生動物は昼動かない。暑さで体力を奪われない為だ。彼らが動くのは薄暮と早朝。雲がかかっていたキリマンジャロから雲が無くなるのもこの時間帯。

だから、夕食後、くっきりと浮かび上がったキリマンジャロの下、動物たちを観るのはこの時間帯。

もう少し夜が更けてくると、ホテルの広場で焚火が設けられ、ギター弾きがアフリカの音楽を奏でる。

お酒を飲みながら、サバンナを見て、音楽を楽しむのはとてもとても贅沢な時間である。

翌早朝、ランドクルーザーに乗ってフォトサファリへ。離れた動物達を写真におさめる為、望遠機能がついたカメラを持って来た。ぞうやインパラ、きりんやライオンの群れを観る。ライオンは雌ライオンが狩りを行ない、雄ライオンは何もしない。いろんな動物の生態を間近で見られて満足。

 

アンボセリ国立公園を後にし、車で空港へ。空港からセスナ機に乗り込み、大地溝帯を一気に乗り越える。空港に着いたら、別の自動車でマサイマラ国立公園内のホテルへ。ここは有刺鉄線では囲まれていない。部屋はツインのベッドルームとトイレ・シャワールームの二つに分かれている。


昼間は野生動物が動かないので、レストランまで一人で行けるが、夜はマサイ族の男性がライフル銃を持ってやって来る。それぞれの部屋まで迎えに来て、照明で辺りを照らしながら、二人でレストランに向かう。時々、急にライフルを動かすので、それが怖い。食後再びマサイ族に連れられ、自分の部屋に戻る。

深夜、トイレで用を足していたら、トイレ・シャワールームを擦りながら歩いている野生動物の音がする。ベッドルーム戻るにはこちら側のファスナーを開け、50センチの「外」を通り、ベッドルームのファスナーを開け、入ってファスナーを閉める。

この50センチが短い様で長い。テントの周りを回り続けている野生動物が何者だか分からないので、らいおんやサイ、ひょう、象など想像力は膨らみ、足が動かない。なおも巨大動物がテントに身を擦り付ける音がする。

一時間、その音が徐々に消えていった。ファスナーからファスナーへ、ベッドルームにたどり着いた。ホッとしたのか、ベッドに倒れこみ、深い眠りについた。

翌早朝、車に乗って、気球の出発地点に。朝四時。大きなバーナーから炎が上がり、気球が徐々に膨らんでいく。気球に乗り込んで、大空からの「バルーンサファリ」。かなりのスピードで飛ぶように走って行くインパラを空の上から見るのは爽快だ。しかし、この「バルーンサファリ」が動物をケニアからタンザニアに移動させ、ケニアでサファリで動物を見つけるのが難しくなってきたというのである。気球は朝のそよ風に乗り、広大なサバンナの上を音も立てず、滑る様に飛んで行く。

気球がランディングし、マサイ族の戦士四人が守る中、大きなビニールシートを敷き、サバンナの中での朝ごはん。気球の飛行で使ったバーナーを使ってソーセージが焼かれる。朝なので、野生動物が活動している中での朝食は襲われないかと緊張する。しかし、早朝から起きているので、ソーセージと卵、パンのゴハンはとてつもなく美味しく感動的でさえあった。

 

ホテルに戻って部屋でしばしの休息。下痢が止まらなくなる。変に動いては治るものも治らないと思い、夕方の「フォトサファリ」はキャンセルし。抗生物質を飲んでベッドで寝続ける。海外での体調変化は休養を取る事が必須だ。

翌朝、最後の「フォトサファリ」に参加。フランス人五人と私の六人のサファリ。

フランス語しか通じないので、少し気づまりだ。フランス人は別の車に乗った騒がしいアメリカ人を見て、「田舎者」という表情していた。私の思い過ごしだったのか?

 

マサイマラ国立公園から車とセスナ機に乗って首都ナイロビに戻り、パキスタン国際航空でカラチ経由日本へと向かう。初めてのアフリカでいろんな経験ができて有意義な旅だった。

(1987年)


ナイロビ・・・ケニア

2020年04月16日 | 旅・外国
若い時に世界の遠くへ行っておこうと思った。ただ、それだけ。

インド、ブラジル、アルゼンチンと行って、アフリカに行きたくなった。いろいろ人に聞いて、アフリカの情報を集めた。団体のツアーに参加するのは止めようと思った。かと言って、完全に個人で「サバンナ」に行くのは「予約」を取っていないと怖い。

私が選んだのは、アフリカ専門の旅行代理店「道祖伸」に「航空機」「ホテル」「現地での移動」をパッケージしてもらう事だった。

 

成田からまずは香港に飛ぶ。航空会社は「パキスタン国際航空」である。「エジプト航空」と共に南回りのヨーロッパ行きの「買い出し列車」とも呼ばれる「格安航空会社」である。

日本からアフリカ・ケニアに行くには、(日本からヨーロッパに飛び、そこから南下するルートを除く)大きく二つのルートがある。「パキスタン国際航空」の香港・バンコク・カラチ。カラチで飛行機を乗り換え、アブダビ・ナイロビ。もう一つは「エア・インディア」のニューデリー乗り換えのナイロビ。

「パキスタン国際航空」の機体の凄かったのは、着陸する度に座席上、非常時に落ちてくるはずの酸素呼吸器がガラガラと落ちてきた事。そして、倒したリクライニングが元に戻らない事だった。なおかつ、香港からの乗客を乗せ過ぎ、CAさんの席にも乗客が座り、CAさんは立って離陸した。

「パキスタン国際航空」のパイロットは操縦技術が凄いと言われる。古いだろう機材を上手く操っているからだ。

 

カラチ空港では不測の事態が起こった。
大韓航空の墜落の関係で、時限爆弾に使われる可能性があると言う事で、

「爆弾に使われる危険がある。今すぐ、乾電池を出しなさい。没収します」

カメラ等に使われているバッテリーも没収された。
この乾電池・バッテリーは乗客からのクレームによりナイロビ空港で返されるのだが、一つのごじゃまぜに入れられていたので、どれが誰のだか分からなくなっていた。

カラチを発ち、アブダビに向かう。砂漠の中にあるアブダビ空港。「パキスタン国際航空」のB737は二回ジャンプし、無事アブダビ空港に降り立った。乗客はアブダビ空港の売店に向けてみんな走る。ビールなどアルコール飲料を飲む為だ。「機内」では、パキスタンが厳しいイスラム教の為、アルコールが一切でなかった。

ナイロビでは、「道祖伸」のスタッフに迎えられ、ホテルへ。添乗員やガイドは付いていないので、移動のみだが、とても助かる。このスタッフが「サザンオールスターズ」が好きで、翌日、サザンの話で盛り上がった。

ホテルはプールもついていてとても豪華。部屋も巨大なダブルベッドで居心地はすこぶるいい。日本からの長旅だったので、赤川次郎や西村京太郎の小説を読みながら、ゴロゴロする。ナイロビに来て、豪華なホテルの部屋で好きな日本の小説を読むという贅沢に浸る。

 

まだ昼なので、外に出てみる事にする。ホテルのそばには大きな公園。ガイド・ブックによると、この公園は夜、歩いていると「木の上から強盗が降ってきて、身ぐるみ剥がれる」との事。

公園を歩いていると、日本語で話しかけられた。若い男性だ。

男性曰く、「日本の近畿大学にいた事があって、故郷ウガンダに戻った。しかし、ウガンダで戦争が起き、命からがらケニアに逃げて来た。近畿大学に戻りたい。少しでいいからお金を貸してくれ」。

要は「金を貸せ」という事である。彼の話を最後まで聞いたが、金の無心なので、断って、ナイロビの中心部へ向かう。ナイロビの治安は昼でもあまり良くない。

先程の男性とそのグループらしき男たちがつけて来ていたので、慌ててホテルに避難。夕ごはんの時間に改めてタクシーを呼び、中心部の日本料理店へ。料理を頼んで飲み始める。ウィスキーの水割り、キューブ・アイスの中にハエが凍っていた。さすがに店長を呼んでもらう。

私「これなんですがねえ・・・」

店長「凍った時に入ったんだと思いますよ」

そんなことは訊いてねえよ!と心の中で毒づいた。

でも、日本からはるばるやってきて、このやりとりをできた事がオイシイ事かもしれなかった。

二軒目は日本料理店の隣のバー。すごく混んでいて、カウンターでダーク・ダックス状態。黒人の女性が片言の映画で話しかけてくる。どうも、娼婦の様だ。家に来いと言っている様だ。よくよく話を聞くと、子供を育てる為に娼婦をやっているらしい。貧しさが起こす悲劇と一言では言えぬところがある。複雑な思いを感じながら、タクシーでホテルへ戻る。私は一介の旅行者だ。


アグラ〜ウダイプール〜ムンバイ

2020年04月15日 | 旅・外国
タージマハルで有名なアグラ。この街は、観光都市でもある事から治安が非常に悪い。夜、ホテルから外出するのは厳禁だ。身ぐるみ剥がれかねない。また、この街では、観光客とリキシャの支払いのトラブルがとても多い。リキシャには、タクシーのメーターの様なものは付いていないから、まず乗る前に金額の交渉をしなければならない。金額が決まったら、その額を紙に書き、もう一度、運転手に確認。そして、リキシャに乗り込み、支払いの時、先程支払い金額をメモした紙を見せ、お金を支払う事になる。

 

黒色の看板があるお店があり、美味しそうなパンが焼き上がる匂いがした。

お店に近づいて行くと、黒い看板がかすかに動いている。これ、ハエの集合体であった。また、さとうきびをその場で絞ってジュースを作ってくれる屋台があり、このジュースはひたすら美味であった。

ここで「インドの買い物」について書いておこう。


インドでは一つの物を買うのに三十分位の時間は十分かかる。というより、それくらいの時間をかけないと「適正な価格で商品が買えない」のである。

お土産物屋に行ったとしよう。ある商品が欲しくなり、値段を聞く。200ルピーと店の主人に言われる。こちらはすかさず30ルピーと言う。主人はありえないと英語で叫ぶ。私は「他の店を見て来る」と、店を出る。後ろを見ずにしばらく歩いていると、かならず店の主人が追いかけて来る。

「150ルピー。これ以上は負けられません(Our Last Price)」と私を店に連れ戻す。

いやいや「50ルピー」と私。

「他の店を見て来ます」

また、店を離れ、他の店に行こうとする私。

またまた追いかけて来る主人。

「120ルピー」

交渉が成立した80ルピーになるまで、こんな事を繰り返すのである。もともと商品には、観光客向けに現地価格の2~3倍の価格が設定されているから、80ルピーでも儲けになる。

どんな商品を買う時も「この手続き」が必要なので、買い物にはすごく時間がかかったのを憶えている。

タージマハルは王様が亡くなった王妃の為に作ったお墓である。世界遺産。

完成後、ガンジス川を挟んだ向かいに王様自らの墓を建てようと計画していたがその夢が叶う事なく、亡くなった。

アグラに泊まっている時、添乗員のラジプットさんから朗報があった。ウダイプールで明日泊るホテルがレイク・パレス・ホテルに決まったというのだ。このホテルの予約は本当になかなか取れないらしい。本当にラッキーだ。古代マハラジャがその財力を使って、湖の中に建てたホテルなのである。ホテルは湖岸からボートに乗って行く。

ホテルの中庭には噴水、客室のフランス窓の下を見ると眼下が湖水である。

「007/オクトパシー」にこのホテルが出てくる。

ウダイプールに移動し、観光に行こうと思っていると、先輩のFさんの下痢が止まらなくなった。熱もあるようだ。フロントに頼んで医者を呼んでもらう。

医者の診察が終わり、処方箋を書いてもらい、私がボートに乗り、湖岸の街へ薬を買いに行く。インドではポピュラーな、ポカリスエットの粉末の様なもの。

それをホテルに帰って来て、お湯に溶かしてFさんに飲んでもらう。後はベッドに横たわり安静を保つ。私もこの二日後、下痢に悩まされた。原因は道端で食べたリンゴらしい。

インドには公衆トイレがほとんど無い。インドの農村では家にそもそもトイレが無く、朝、国道沿いに老若男女のお尻が並ぶ。

朝、ホテルでちゃんとトイレでしていくのだが、ツアー中でトイレに行く事がなかなかできないのである。

しかも、添乗員のラジプットさんとF先輩、そして私三人のツアーゆえ、ラジプットさんの説明を真剣に聞く必要があるのだ。これが30人位のツアーだと、他のものを見ていようが、添乗員さんの話を聞かずにいようがとがめられる事は無い。

観光スポットにはさすがにきれいなトイレがあるのだが、次の観光地やホテルへの移動中の車内では、振動で便が出ないように腰を浮かしながら車に乗っていた。

 

旅の最終目的地は、ムンバイ。イギリスの植民地の名残りを色濃く残し、ニューデリーと違って、高いビルも多い。

この街で見つけた不思議なもの。タクシーのメーターが運転手と逆サイドのボンネットの上にあったのだ。そうするとどういう事になるかというと、お客さんが乗り込んだ時、運転手が運転席を出て反対側に回り、メーターを倒す。支払いは運転手が再び運転席から反対側に回り、メーターを止める。なんとも面倒くさい。

いよいよ、インドから日本に帰る日。ラジプットさんと私たちはムンバイ空港に向かう。エア・インディアのカウンターで手続きをしてくれるラジプットさん。

私たちの所に戻って来て・・・

「塔上予定のエア・インディアの機材(飛行機)が成田空港を24時間遅れで出たので、明日の今頃、カウンターに来て欲しい」

という。

「えーっ」と驚く私たち。

「今晩のホテルはエア・インディア持ちで手配済です。ただ、私はこれからニューデリーに次のお客さんを迎えに行かないといけないので、明日のチェックインはおふたりにお願いします」

とラジプットさん。

 

ホテルの部屋からホテルの電話交換手を通して日本の職場に電話をかける。かなり待ったが繋がらない。

ホテルでの夕食。食べ終わったところで、生バンドの演奏が始まる。

私はボーイにチップを渡し、「misty」をリクエスト。お酒を飲み、いい気持ちになる。

部屋に戻り、日本へ電話。何度しても繋がらないので、電話交換手に関西弁で怒りの声をあげたら、すぐ繋がる。インドの人にも「怒っている」という感情はすぐ伝わったのである。会社に出社が1日遅れる事を伝えられた。

安心して就寝。忘れられないインド旅行になった。

 (1985年)




ジャイプール

2020年04月14日 | 旅・外国
どうしても、インドに行きたくて行きたくて堪らなくなった。単独で行くのはさすがに怖いまで、ツアーで行く事にした。二名から催行するツアーに申し込んだのだが、なかなかこの二名が集まらない。期限が来そうになり、一つ上の先輩Fさんにお願いし、やっとツアーが成立する。成田から二人でエアー・インディアに乗り、インドの首都・ニューデリーへ向かう。機内に入った途端、美味しそうなカレーの香りが漂う。フィリピン・マニラ、タイ・バンコクを経て、深夜の一時半、ニューデリー国際空港に着いた。ここまで、日本からの添乗員が同行せず、現地の日本語を話せる添乗員が同行する事になっているので、ツアーが最終的に何人で組まれたか分からなかったが、ここで判明する。

スーツケースを受け取り、通関を済ませ、たくさんの人が出迎えている出口へ向かう。出口の外はむっとする暑さだ。

 

ここで会ったのがラジプットさん。私たち二人の添乗員さん。英語が話せる生粋のインド人である。この時、彼は来日経験が無く、後年来日。

「日本に来たら、連絡してね。日本を案内するから」という日本人の社交辞令を信じて、ホテルも取らずに来日。ほとんどの日本人ツアー客に拒否され、ボロボロになって、先輩Fさんのところに連絡があったそうだ。Fさんはそんなラジブットさんを家に泊めて、その心を癒してあげた。

結局、私たち二人と添乗員ラジブットさん、車(ワーゲン・ビークル)の運転手四人のツアーとなる。この日は夜も遅いという事もあり、ハイアット・リージェンシーホテルまでの送りのみ。疲れたので、即刻就寝。

 

翌朝、朝食はバイキング。カレーバイキングがあったので、まずは赤いカレーを食す。これは日本のカレーの比ではない辛さ。慌てて、緑のカレーを食べる。ところがこちらの方が圧倒的に辛い。後で聞いたのだが、緑のカレーの原料は「青唐辛子」で、それゆえこちらの方が辛いのである。

 

やはり、インドは混沌としていた。人間の横では、牛が放尿しており、その横をリキシャーや車が猛スピードで通り抜けていく。太陽がすべてのものに平等に照りつける。

ニューデリーでの観光を終えて、ジャイプールに向かう。両サイド砂の大地の中を走る国道を出せる限りの速度を出して、我々の車は突っ走る。私とFさんは後部座席で手すりを持ちっぱなし。それでも、体はバウンドし続け、何度も天井に頭をぶつける事となる。

そして、ピンク・シティーと言われているジャイプール到着。

観光後、ホテルへ。

夕方、ホテルの近くを一人で歩いていると、同い年の青年に声をかけられた。自分が描いた絵を買って欲しいとの事。そんな彼に質問した。ヒンズー教徒はお酒を飲むのか?答えは外国人が泊っているホテルのバーで飲む。彼女と事におよぶのも同様のホテルだそうだ。

自宅に来ないかと誘われたので、好奇心が上回って、付いていった。典型的に思える庶民の自宅。夕ご飯を作っている母親にも紹介してもらった。ノドが乾いたので、水をもらい飲んだ。今思うとビックリする位、大胆だった。

 

添乗員のラジプットさんの結婚について、少々書いてみたい。彼は結婚式の当日まで、お互いの顔を知らない。インドで厳然として存在するカースト制度。それ故、同じ身分の人としか結婚できない。しかも結婚相手を決めるのは両家の両親だ。もちろん、ヒンズー教徒の中にも、男女の恋愛はあるし、仏教徒である日本人以上に「性」に関しては大らかである。インドの大きなお寺では「壁にいろんな体位が描かれていたり」「神体が男根であったり」する。

ラジプットさんの身分は「クシャトリア」。奥さんの身分も「クシャトリア」である。

 

(1985年)

ブエノスアイレス・・・アルゼンチン

2020年04月14日 | 旅・外国
イグアスからアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスへ飛行機で入る。空港でホテルを取り、タクシーで市内へと向かう。着いてみると、ホテルは好立地。荷物を置き、22時30分頃から始まるアルゼンチンタンゴのショーを予約。南米では22時30分頃と午前1時30分頃にショーが始まる。ショーなどを見て朝まで遊ぶのだそうだ。

お腹が空いたので、ホテルの並びにあるステーキハウスに入る。ビールとステーキを頼む。アルゼンチンは肉食牛の一大産地である。

 

日本より細くカラッと揚げられたポテトフライをつまみながらビールを飲んでいると、メイン・ディッシュのステーキ登場。レアの赤い断面からは美味しそうな匂いが漂ってくる。

ナイフとフォークでステーキを切ると引っかかりなく素直に切れた。

味は・・・というと日本で食べるステーキ以上の味なのだ。本当に美味しかった。アメリカやヨーロッパでもステーキを食べたが、全然日本のステーキの方がおいしいと思っていた。

ビール数杯とステーキで、2300円位のお支払い。安っと思ったのを憶えている。

 

一旦、歩いて数分のホテルに戻り、アルゼンチン・タンゴのショーに行く為、タクシーを呼んでもらう。

タクシーの運転手に「どこへ行くのか?」と問われたので、「アルゼンチン・タンゴを聴きに行く」と答え、タンゴの一節をくちづさんだら、

「ラ・カンパルシータ」とおじさんは「GOOD!」という合図をしてくれた。

 

タンゴショーは、フラメンコ・フォルクローレ(南米の民謡を歌う・・・例えば「コンドルは飛んで行く」など)・バンドネオンの連奏などから構成されている。

会場は「ツアー客」優先で、個人で予約した僕は劇場の端の方だった。2時間に及ぶタンゴショーは全く飽きさせない素晴らしい内容だった。午前二時頃、ホテルに戻る。

翌朝、午前中はティグレ川のクルーズに出かける。ホテルからの往復送り迎え付き。ブエノスアイレスはティグレ川河口にできた町だが、水の上から見るブエノスアイレスも美しい。肌寒い気温の中、五時間のクルーズを楽しんだ。

南米のパリと呼ばれているブエノスアイレス。ボカ地区にあるカミニート。このカラフルな街並みから、タンゴが生まれた。

この日の夜もタンゴショーに行く。

22時30分開演直前、いちばん舞台から遠い席に座らせられた私の真横に日本人らしきおじさんが座った。気になったが、ショーが始まり、私の関心は舞台の方に向かった。

 

終演後、「これから、お酒を飲みにいきませんか?」

と100ドル札を20枚以上手に握りしめたおじさん。

「いいですよ!」と私。

基本、この手の誘いを絶対断らない私。

土砂降りのブエノスアイレス。二人の珍道中が始まった。


おじさんは在日韓国人で大阪の淡路出身。今はニューヨークに住んでいて、ブエノスアイレスには商用で来ているとのこと。

それから二軒飲み明かし、最後にたどり着いたのはいわゆるキャバクラ。おじさんはスペイン語が流暢なので、いろんな事がスムーズである。私はかなりへべれけ状態になっていた。座席から望むキャバクラの舞台はいやにキラキラとしていた。

おじさんは三軒とも何故か奢ってくれた。彼はキャバクラ嬢と共にお店を出てタクシーに乗り、滞在しているホテルに向かう。

私は午前二時、深夜のブエノスアイレスで一人取り残された。かなり酔っている。何とかタクシーを止め、「ランカスターホテルへ」と運転手に伝える。辛うじて「ホテル名」は憶えていたのだ。

 

ホテルに着いた。ホテルの正面の大きな扉が閉まっている。必死で扉を叩いて叫んでいると、扉を開けてくれた。

部屋に戻り、翌朝の食事のルーム・サービス、「ドアの外ノブにかける用紙」に書き込む。

ベッドに入り、疲れていたのだろう。すぐに熟睡。

ドアをノックする音で目が覚めた。ルーム・サービスが来た様だ。

このルーム・サービスで帰国する飛行機に間に合った。本当綱渡り人生。

 

ブエノスアイレスからリオ・デ・ジャネイロまで六時間。リオからロサンジェルス経由成田まで二十四時間。この旅行の時は大阪に住んでいたので、成田から伊丹へ。

さすがに自宅に着いた時はヘトヘトになった。

 

(1986年)




イグアス・・・ブラジル・アルゼンチン

2020年04月13日 | 旅・外国
リオから航空機でイグアスの空港へ。そこからタクシーを飛ばして、イグアスの滝・ブラジル側へ。私はこの日、ブエノスアイレスで宿泊する為、タクシーを使ったが、時間があれば路線バスを使った方がいいかもしれない。

ブラジル側からはたくさんの細かい滝が落ちている様子と左側から大きな滝が落ちて来るのを見上げる形で見る事ができる。滝に近いので、防水機能が付いた服を持って行く事をお勧めする。

そして、タクシーを使って高速道路を通り、ブラジルとアルゼンチンの国境(確かパスポートを見せただけで簡単に通れた)を越え、アルゼンチン側へ。

アルゼンチン側からは滝に落ちる前のイグアス川の上を渡って行く。「悪魔の喉笛」といういちばん大きな滝が82メートル下に落ちていく様子を間近に見られるスポットに行けるのだ。

私は、「ナイアガラの滝」「ヴィクトリアの滝」「イグアスの滝」、世界三大瀑布に行ったが、行った季節を鑑みても、圧倒的に「イグアスの滝」がいちばん凄い。

こんな巨大な自然現象の前では、人間の存在はちっぽけなものだ。悩んでいる場合ではないと思ってしまう。

イグアスの滝、その破壊力ゆえ、100年間で30センチ後退していくそうだ。

夕方になり、飛行機の出発時間も迫ってきたので、タクシーで空港へ向かう。

(1986年)