思考の踏み込み

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蟲師 続章2

2014-04-11 08:33:23 | 日記
さて、蟲師の魅力について個人的な意見を書いてみようと思う。



この間、友人と話していたら「神はいるかいないか」という話になった。

その友人は「神なんかいない。」という。

「特に唯一神の世界観は理解できない。そんなもの有るから戦争もなくならないと思う。」
「まだ多神教はましだけど、俺は無神論者だし、唯物論者だ」

ー と、要約すればそんな風に語った。

私はまず、その友人のいう "神" という定義は何について言っているのかを尋ねた。

世界の大宗教における "神" または信仰の対象は概ね人間であるか、もしくはきわめて擬人化された存在である。

ヤハウェ、アラー、ブラフマン…。
その意志を伝道しようとしたキリスト、マホメット、釈迦、…。

彼らは人間の持つ俗性から極限まで抜け出し得たという意味ではきわめて偉大だし、地上より天に近い存在といえるかもしれない。

それ故に "神" の声が "聞こえる" 者たちまでも預言者または救世主と呼ばれ、人々の崇拝の対象として "神" と同列に扱われた。



彼らを指して神といい、神なんかいない、彼らは人間じゃないか、というなら理解できる。

だが、それ以前の "モノ" あるいは "チカラ" とか、そもそもこの世界を構成している本質とか、命の根元とかいった現代科学ではけして答えの出せない問題をどうかんがえるのか?

ひどく大雑把にいってその領域のことは "神" というキーワード無しで説明することは困難である。

「いやそこから先は何もない。 "無" なんだ。」そう彼は言った。
だがそれは私に言わせれば "思考の停止" でしかない。

強い表現を使えば、真理への探求からの "逃避" である。
非科学的なものは信じない、ということもまたある種の宗教であることに現代の自称無神論者たちはあまり気付いていない。

"科学" というお粗末な御神体を信仰する時代は、果たしてそんな時代が過ぎ去った後からみたら、どんな風にみえるだろうか、想像してみるといい。

もちろんそんなことは本人には言わなかったが、そこからわずかにでも踏み込んで行かなければ、真理へは近づけないし、その作業無しで神はいるのか?なんて議論してもそれこそ無駄であろう。


西行法師は伊勢神宮を訪れた際にこんな歌をのこしている。

" 何事の おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるるー "

西行ほどの者がまさか伊勢神宮の御祭神を知らぬわけはあるまい。


だが彼がが感じた何かは、そんな小賢しい知識ではなくてやはり "なにごと" かの圧倒的な存在感や影響力という、唯物論ではけして説明できない感覚である。

「蟲師」が描き出そうとするのもその先の ー もしくはその周辺の ー 世界観ではないだろうか?



少なくとも私個人にあっては、その先の世界観を考えるきっかけをいつも新鮮な感覚で与えてくれる作品である。