思考の踏み込み

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完璧3

2014-04-25 06:06:54 | 
あるいは東郷平八郎。



彼の生涯というよりも彼が成し遂げた「日本海海戦」という戦いが、比類ない完璧な勝利であったといわれる。

もちろん作戦を立案したものも、海軍を構想し、構築した政治家も、有能な海兵たちも ー この完璧な勝利の主役たちであるが、その中心にいて不動の求心力として東郷は存在した。

当時世界でも名将として称賛され、偉大な提督として今も尊敬する国家さえあり、マスコミはけして報道しないが、( 反日報道は飽きるほどするのに…) その駐日大使が赴任すると必ず戦艦三笠を訪れるという国まである。

東郷の偉業はこの完璧な勝利にこそある。
どういうことかといえば、完璧に勝つ以外に日本には活路が見出せなかったという状況がある。

一隻でもバルチック艦隊を取り逃がせば、日本の防衛は混乱し、大陸での戦線の補給が閉ざされる。

その状況の中で東郷は戦前、あろう事か天皇陛下に直々に「誓って敵艦隊を撃滅致します。」と断言している。

そしてそれを見事、実現させた。
東郷の凄みはここにある。

この海戦が終わった後、東郷の立っていた場所だけ波しぶきで濡れていなかった、という有名な伝説は彼の不動心の表れであるし、この完璧な勝利の極めて重要な要因である。
それはまた、当時の横暴な列強相手に半歩たりとも引かない ー という明治日本人の総意の象徴のようにも思われる。



" ー 皇国ノ荒廃ハ コノ一戦ニアリ" という ー それほどに失敗の許されない状況を思えば、なおのこと彼のおこなった "仕事" は間違いなく "完璧" なものであったといえる。

完璧2

2014-04-24 09:21:24 | 
例えば本ブログでも何度か取り上げているが、上杉謙信。

いろんな説があって正確な数字は確定していないとはいえ、生涯70余の合戦における勝率は九割五分とかいわれる。




"相模の獅子" こと北条氏康に唯一敗北を喫したともいわれるが、決定的な敗北というよりも撤退とみるべきという意見もあり、生涯無敗であったという説も成り立たなくない。


肝心な事は謙信が野戦を得意としたという点である。
毛利元就が策謀を駆使して、高い勝率を誇ったことはある意味で勝つべき戦しかしていないともいえる。

この意味で秀吉の強さも、政治的な要素の方が強く、戦を始めるときにはすでに勝敗が見えているケースが多い。

ところが謙信は野戦が強すぎて、誰も応じてくれないからといって、あえて不利な地に布陣して、相手をおびき出すというようなことまでしている。

そうしたスタイルでの勝率の高さという事を考えれば、野戦指揮官としてのその評価は世界史でみても五本の指には楽に入るであろう。


( よくある戦国武将の比較などはそもそもできるものではない。戦国大名とは政治家であり、民政家であり、軍人であって策略家でもあり、経済外交教育まで全てを背負っていたから、本来どの要素で富強していったか比べることは難しいものである。)

こう考えてみるとやはり、謙信の強さは純軍事的であり、他の要素に頼らないという点からも、その勝率の高さはちょっと常識的には理解しがたいものがある。

いずれにせよ "強さ" というものを合戦に絞っていうのなら、謙信のそれは "完璧" なまでに強かったといって差し支えないのではないだろうか ー 。


完璧

2014-04-23 08:42:13 | 
およそ世の事象は全て、相対的な条件の中で生起する。

しかもそれは複雑に入り組んで、いわゆる科学者が実験で行う "閉ざされた空間" における単一要素どうしの反応など現実世界には存在しない。

それ故に完璧で無欠な現象など本来起こりうるものではない。

まして純物質世界ならともかく生物界において ー

ことに人間の行動や行為が、完璧に行われることなどあり得ることは無いように思われる。



ー だがしばしば、ごく稀にではあるが、そうしたことを成し遂げてしまう人間が現れる。

彼らに共通しているのは、真の天才性と強力な運、その上に立つ不断の精進、そしてよく陶冶された人格などが見てとれる。

人々は彼らを英雄視し、憧れの眼差しでもって見てきた。

ふらりとー 3

2014-04-22 05:45:10 | グルメ
せっかくなのでヘミングウェイの愛した酒を飲んでみよう。

ダイキリ。

彼が飲んでいたのはフローズンダイキリだが、フローズンではなくノーマルダイキリを注文した。



二杯目はマスターが作って下さった。

またヘミングウェイの言葉が浮かぶ。

" 氷山の威厳はそれが水面上に僅かしか出ていない事による ー "

バーテンダーの仕事も似ているかもしれない。
「寿司」でも投稿したが、カウンターの内側や客から見えないところでの一杯に対する追求があるから、出された酒に威厳が漂う。

オーセンティックバーの持つ緊張感の大元もそこにあるだろう。

(だとすると、お茶の系譜より寿司の文化の流れなのかもしれないとか考えたりもする。)

特にトゥーのマスターは女性で、しかもお綺麗な方だから、純粋に酒の技術で勝負したいという想いを遂げるにはご苦労されたのではないだろうか。

だがもちろんそんな気配は微塵も感じさせはしない。

さて、一見だしお店も混んできたし、サクッと三杯くらいで帰るのが良さそうだ。

最後はドライマティーニを。



ヘミングウェイのように極端なドライではないが、私もドライが好き。
ジンはこの日はサファイア。

不思議だったのはドライの中にやはり柔らかさがあること。
それはけして物足りなさではない。
今まで経験した事がないので新鮮な感覚だった。

やはり女性独特の優しさと見る他ないのではないかと今の段階で思っているが、どうだろうか。

同じレシピ、手法、スタイルでも作り手によって味の印象が変化する事はカクテルの楽しみの一つであろう。

ともかくもまた行きたいお店です。



ふらりとー 2

2014-04-22 05:43:37 | グルメ
一杯目が終わる頃、マスターがお見えになった。

ずっとお一人で営業されてたと聞いていたので、聞けば最近ようやくスタッフをお一人加えられたとのこと。



マスターがいらっしゃってさらにお店に心地よい緊張感が漲る。

オーセンティックなバーにおけるこうした緊張感はおそらく日本独特のものだろうと思う。

それは茶道における茶席の緊張感に似て自分には心良い。というか日本のオーセンティックバーはその文化の要素を引いた一形態とみる方が正しいのではないだろうか?

といっても私はお茶をやっているわけでもないし、バーホッパーなどでもないからいろんなバーについて詳しいわけでもない。

ただ今回は感じたままに書いているだけである。


バーをあまり知らない人々には、そんな緊張感は邪魔なだけかもしれないし、普通のバーとオーセンティックと呼ばれるお店の違いが何なのかもわからないかもしれない。

たしかヘミングウェイは "魂の為には一日の中で、二つほど嫌な事をする事は良いことだ" とかいう内容の事を言っていた気がする。



それはつまり自己に対して負荷をかける、という事だろう。
負荷が "かかる" ではなく、自ら負荷を "かける" のである。

オーセンティックバーにおける緊張感もその意味で近い要素を持つ。
そして緊張感を持って味わうと、腰が自然と伸びて身体感覚は微妙に変化し、酒の印象も変わるものだ。

でなければ酒など家で飲めばいい。

そんな事をフワフワと考えていたら、二杯目はどうされますか?との問い。

うーん、まったく考えてない。
だが次何にするか迷うこともバーでの楽しみの一つだろう。