思考の踏み込み

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戦国夜話16

2014-03-27 07:49:16 | 歴史
この戦国という舞台進行の終盤にさしかかり、時間関係が僅かにでも違っていれば信長の躍進などありえなかったし、秀吉の統一も不可能であった。

武田信玄の病死がなければ信長などは一蹴されていただろうし、伊達政宗や長宗我部元親の台頭、島津の九州征服などが、ほんのわずかでも早ければ秀吉の世などは訪れず、あと百年は乱世が続いたかもしれない。

この劇的過ぎるほどの時間関係にこそ、戦国時代という物語の醍醐味がある。



仮に信長以前と以後で戦国期を分けるとすると、上杉、織田の唯一の戦いである手取り川の戦いというものは、前期の神秘的名将対、後期の合理的名将の象徴的な戦いとして位置付けることもでき、戦国物語の前半部の終わりを告げる壮大な舞曲の様でさえある。

( さすがに謙信は引き際を誤らない。後半部の始まり ー 手取り川の戦いの翌年 ー を前にして幕から身を引いた。)

加賀国 手取り川

そしてこの "時代" という演出家の心憎いことは、この合戦で前期の名将 謙信に圧倒的勝利を与えていることである。

すでに長篠において最強、武田軍を破っている織田軍団を火器を用いずに一蹴した上杉軍。

信長不在であったとはいえ、普通兵器の差はそのまま勝敗に出ることを考えると、この一戦は戦国前期ファンへの最高のロマンを見せてくれたものといえる。



ここでは手取り川の戦いの実際は小規模であったとか、合戦自体がなかったとかいう史的な考察も、謙信と信長の軍人としてだけでなく政治家としての比較などもどうでもよい。

モノに頼らずに人の智と勇気と強靭な身体のみで "最新の" 装備をほこる軍団を破ったというところに人々は喝采を送るのである。

後世、謙信恐るべしとして狂歌にそのことが詠まれた。

" ー 上杉に逢うては織田も 名取川
跳ねる謙信 逃ぐるとぶ長 "

戦国夜話15

2014-03-26 07:39:41 | 歴史
歴史の常識として、有能な軍人、将とは一つの民族において数百年に何人出るか出ないか、というものとされる。

それがこの戦国期の日本にあってはこれほどに現れてくるのはどういうわけか?

同じ変革期である幕末には、活躍した藩がそもそもごく一部だった事を考えるとよりこの戦国時代の全国性というものに不思議さを感じざるをえない。

さらにいうならば、この "戦国時代" という物語の舞台進行の劇的である点である。

各地で下克上が繰り広げられ統一戦の進む中、"鉄砲" という新兵器が現れ普及する。



これにより戦術は一変し、歴史の転換を早めることになる。
難攻不落の城というものがなくなり、小勢力での割拠は難しくなり大勢力の傘下に入るか、滅ぼされるかになり、やがては大勢力どうしの対峙の構図が出来上がり統一という気運へと向かっていくことになる。



そしてこの "鉄砲以前" の名将達の死が奇妙なほどに時期を同じくしている。

元亀二年 (1571年) に後北条三代目 北条氏康、毛利元就。
元亀四年( 1573年) 武田信玄、天正六年( 1578年) 上杉謙信、と相次いでこの世を去っている。

この間に信長の上洛 (永禄十一年 1568) と天正三年( 1575年) の長篠の戦いにおける世界史上初の鉄砲の大量使用がある。


戦国夜話14

2014-03-25 07:17:27 | 歴史
ー さて、このあたりで一つの疑問と向き合わねばならない。

戦国史は英雄どもが群がり起こって登場した時代であるが、果たして同時代にこれほどまでに各地において人物が出るという事は、世界史的にみてもありうべき事だろうか?

四国においては長宗我部元親。

九州豊後大友宗麟。

肥前の龍こと竜造寺隆信。

その竜造寺の仁王門といわれた鍋島直茂。
雷神、立花道雪。

( 立花道雪 ー 別次鑑連は若い頃、落雷を受け半身不随になりながらも、輿に載って戦場を駆け回ったといわれる男である。雷に打たれた際、雷の中の雷神を切ったとかいう伝説さえある。
かの武田信玄をして "会ってみたい男" といわしめた豪傑。後世もなかなか評価の定まらない大友宗麟という主を助け働き続けた。個人的にもかなり好きな武将である。)

さらには松浦党や秋月氏。そして九州を統一しかけた島津氏。

家康をもってして "恐るべき将" と言わしめた島津義久、義弘。




この島津軍団はまぎれもなく戦国最強集団の一つに数えられるだろう。

戦国夜話13

2014-03-24 06:34:40 | 歴史
水軍という名脇役のほかにも戦国時代という舞台を鮮やかに彩った集団がいる。

伊賀甲賀の忍群は言うに及ばず、雑賀や根来の鉄砲集団。



本願寺を筆頭とする各大寺院における僧兵ども。



そして各地に猖獗した一向宗の一揆。



戦国時代とは戦国大名達が闘っていただけではない。むしろ大名たちにとって最大の敵は一揆集であったという説もある。

しかしそれは江戸時代における絶望的な農民の一揆とは趣の異なるものである。もっと日本人全体が全階層においてはち切れんばかりの力を奮って新しい時代の覇権を奪いあっていた。

そんな中の一勢力であると見る方が正しいような気がする。

これらの中でも特殊な水軍をまとめあげた毛利元就の評価が後世高いのも頷ける。

彼の出世記録は信長、秀吉、家康の "三英傑" を除くと、速度、石高共に戦国屈指であり、生涯の合戦数は200以上に及ぶ。
これは世界史の中でも稀有な数であり、元就がもし仮にその晩年、強い野心を失わなければ日本の歴史は大きく変わっていただろうことは間違いがない。

戦国夜話12

2014-03-23 06:23:58 | 歴史


毛利元就の行った業績のうち、"厳島の戦い" が頼山陽によって日本三大奇襲 (河越夜戦、桶狭間の戦いと共に) に選ばれていたりして、軍人としての元就の評価を高めている。

だが個人的には元就の最も面白い業績は毛利水軍を組織した所ではないかと思っている。

古来から日本人は陸戦には定評があるが海戦となると必ずしも強くない。
四方を海に囲まれていながらこれは不思議なことでもあるが、それは今はいい。

だが、この時代に限っては日本の水軍の力は侮れないものがあるといってよいだろう。

元就は丹波水軍、隠岐水軍、村上水軍らをまとめ上げ強力な毛利水軍を創り出した。



やがてそれは九鬼水軍を従えた織田水軍と摂津木津川で死闘を演ずることとなる。

初戦ではこてんぱんに織田水軍を叩くが、第二次木津川の戦いで、天才信長による鉄甲船の大安宅船という空前の戦艦の前に敗れてしまう。敗れはしたがその後も戦国期いっぱいは瀬戸内の制海権を握り続けた。
やはりそれは容易な能力ではない。



日本人は海戦が得意でないと書いたが、後の日露戦争における日本海海戦は世界海戦史でもこれ以上ない完璧な勝利と言われる。
そこで村上水軍の戦術が日本海軍に採用されたことは有名な話である。彼ら毛利水軍の優秀さは400年の後も生きていたことになる。