思考の踏み込み

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戦国夜話2

2014-03-14 08:16:55 | 歴史
戦国期、日本は気候が違っていたという説がある。
多湿でじとじとした気候ではなく、カラッと乾いて鮮やかな青空と強烈な太陽が列島を覆っていた。



太陽は活動に周期があり、小さなサイクルなら11年とか、大きなサイクルで数百年とかあるようだから、そうしたこともありえたかもしれない。

実際中世の終わりの時期が、東西で時をほぼ同じくしているということは、地球規模の環境の変化ということは考えに入れてもいいとは思う。

だがこれはむしろ気候的な事実よりもこの時代の日本人達の気質の印象からくるものとみた方がいいかもしれない。

戦国期の日本人は底抜けに明るくて乾いていて、色で表現するならば原色の力強い色彩が目に浮かぶような感がある。



実はこれは当時の日本人の活力にあると思われる。中世を終わらせたモノの正体もここにある。

それは何か ー ?

鉄の生産量の増加である。
鉄の生産が飛躍した事によって農機具の性能が上がった。
当然、食糧生産は増大し人々はそれまでより圧倒的に豊かになった。

世界史の中では百年戦争とか、長く続く乱世の時代を有した地域はいくつかあるが、単一民族でしかもその内輪だけで百年も戦争を続けたのは日本人だけだろう。

これはそれだけの体力、つまり経済力がなければ出来ないことである。
歴史上では歴史を動かしたのは武将たちだが、その戦に参加していた多くの足軽達は農民である。

農村において余剰人員が出て、戦に参加できるほどになっていたからこそ多くの武将たちは戦を続けられたわけだし、下克上のようなことも可能となっていったといえる。

戦国時代とはそういう自然現象に近いエネルギーの台頭が、中世を終わらせようとしていた過渡期の時代であり、人の意思も思想もほとんど介在していない特殊な歴史的季節である。




戦国夜話

2014-03-14 08:15:11 | 歴史
物事を楽しむには全て距離感が肝要である。
何事も近すぎるものは息苦しく、遠くに過ぎたるは捉え難い。

それは恋愛も仕事も趣味嗜好も全て同じことだ。これを "間" という。

真面目とは "間" を締めること。
間抜けとは読んで字の如く "間" の感覚の抜けていることである。



大好きなスポーツ選手のファンでいることは楽しいだろう。だがたとえばその家族にまで距離が近くなってしまえば、日々の勝負に明け暮れる暮らしは穏やかなものとはいえない。



歴史というモノを見る上でも、近世の話は直接現代社会と関わってくるだけに、中々無条件で無邪気に接することはさせて貰えないものだ。

今なお遺恨を残す第二次大戦期などは当然であるし、その意味で皮膚感覚でいうと徳川幕府の成立くらいまでは、近距離の範疇に入る様に思える。

これが平安時代にまで遡ってしまうと、やや遠過ぎて霞がかったように映像として結びづらい。

この点でいくと戦国期という時代は程よい距離感にあると思う。
もちろん乱世であるから、距離をつめて見つめればまったく悲惨な時代ともみれる。

それでもこの時代の日本人が妙にエネルギッシュに思えるのはなぜだろうか。