思考の踏み込み

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祈り5

2014-03-02 03:42:05 | 
同調についてもう少し触れてみよう。

同調することとは即ち "等価" であるとはD先生の言葉だがまさにその通りだと思う。

つまり "対等" な関係である。

そこから "礼" も生まれる。

礼などは長幼の序や社会的立場などより以前にもっと優先される "礼" がある。

それは命に対する礼である。

年下だろうが口の聞けない赤ん坊だろうが、一つの命として相手に "礼" をもって接することは、特に教育者には必要なことであろう。要するに "礼" とは
"形" ではけしてない。



体罰がよく問題になるが、体罰自体が問題なのではない。

人はときに横っ面をひっぱたかれないと目が覚めないこともあるからだが、それが純粋に相手の為に行われるケースが少ないから問題なのである。

体罰における多くのケースは相手の為である以前に、暴力による自己の快を
満たす為であることが多い。

だが中には本当に相手の為を思って止むを得ず手を出すべき時もある。
その関係は等価であるからこそ、手が出せるのである。
相手の為に、嫌われることも辞せずに厳しくする。それは対等な関係性であるから相手の心にも響くものだ。

そして厳しさのない世界はどこまでいっても二流の世界でしかない。

そのことと、たんなる "暴力" を混同し全ての体罰を問題視して過敏になる教職員組合やPTAは教育に本気で向き合う者たちとは言えない。
ただ自分たちの責任回避と世間体をかわす為に体罰を禁止している形だけをとったって教育などいつまでたってもよくならない。

人の行為には余分なものが多い。

その余分さはどこから生まれているか、全て自己のエゴである。

相手の為といって、また本人も本気でそう思い込んで親切の押し売りをして相手を傷つけていることなどいくらでもある。

余分なものは結局余分なものでしかない。よくできた人物とはそうした余分に気付き、余分を蒸留して濾過する作業をしているものだ。

祈ることや願うことは本来そうした余分なものが混ざりにくいものであろう。そこに美しさを感じるのではないかとも思う。