思考の踏み込み

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祈り4

2014-03-01 18:56:26 | 
優れた芸術は必ずこの "同調" が基礎にあると思う。

いくら優れた芸術でも "同調" するモノがなければ人の心は動かない。

"鑑賞眼" などというのは知識ではなくて、この観る側の "同調" レベルにある。

日本の伝統的な芸術は全てこの "同調" を導くような創りになっている。
能などがリアリティなどハナから無視して、ある "型" にこだわり続ける理由もそこにある。それは同調に入りやすい "型" である。

ゴッホの絵が好きなモノは少なからず、ゴッホの過酷なその人生を知っていてその気持ちに同調しているものだ。



"絶対芸術" とはそうした前段階の知識無しでも人の心を動かし得るものを指すが、それは要するに作者名もタイトル名も存在しない正宗の無銘の刀の様なものだが、それは余談。


さて虚飾のない発露、といったがそれはけして追い詰められて余裕のまったくない者ばかりとは限らない。

例えば母親が純粋にその子の幸せを願う。
その "想い" はまぎれもない「美」である。
あるいはけして純粋ではないが、一つの夢を遂げんとして "執念" を燃やす者の姿もまた一種心に訴えるモノがある。

例えそれが金の為でも名誉の為でも、それに執念を燃やす行為はそれなりの "美" を有している。
なぜならその "想い" は、目的は俗っぽいくせにきわめて純粋だから。

そして強すぎる "執念" は死してなお消えることを知らない。
それはあまりにも哀しく美しい。
能の二番物における修羅能こそ、その表現の極みであり、彼らへのレクイエムでもある。