午前6時台後半
(朝7時過ぎ頃)
(以下の写真は2月4日に撮影した閖上の小中学校と日和山周辺です。)
きょうは2月11日、東日本大震災の月命日です。来月で丁度丸9年となります。早いものです。昨夜からようやく雪らしい雪が降り出し、冬らしい天気となったわけですので、普通ですと当然のこととして河原の雪景色等をご覧いただくことになるのですが、きょうは11日ということで、湯k景色はあした以降にさせていただきます。
今朝の新聞の地方版に宮城教育大学の学生の紹介記事が載っていました。今は21歳の大学生ですが、あの当時は小学6年生でした。南三陸町にある名足(なたり)小学校です。校舎は2階まで津波にのみ込まれたそうですが、児童87人は先生たちの避難誘導で全員助かったそうです。
責任者の校長先生は、児童たちは標高14メートルの津波避難場所の職員駐車場に逃げしゃがみ込んでいたのですが、入江の水が引き、赤黒い海底がむき出しになっているのを見て、元高い場所への避難を呼びかけました。
避難した場所は少し離れた畑地、そこから海を見ると小屋が波に押されてコロコロと転がっていたそうで、先生はもっと高いところへ避難しようと決断しました。 そしてさらに一番高いところにある名足保育園まで避難しました。
つまりは先生方がぎりぎりの判断・決断を迫られ、適切な決断を重ねて全力で学校の子どもたち全員を守り抜いたということです。
去年の11月に団体で訪問した気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館でも語り部から、先生方が何回も切羽詰まった決断をしながら、高い場所高い場所へとさきさきと非難していった話しを聞きました。そのおかげで気仙沼向洋高校の教職員と生徒たちは全員無事だったわけです。
旧向洋高校の屋上で語り部から聞いた言葉、常にその場その場で最悪の場合を想定しながら先先に避難していった、と。
今朝の新聞記事や旧向洋高校の語り部の話しを聞くたび、思い出すたびに悔しい思いにさせられます。そうです、石巻市立大川小学校の悲惨極まりない事故です。人身事故です。確かにあのとき最高責任者の校長先生は学校にはいなかった。教頭先生はいた。他の先生方もいた。
でも学校管理下での先生方の指導、避難誘導により、教職員児童ほぼ全員が津波の犠牲になってしまった。山に逃げようという児童の声に先生方が耳を傾け、高学年生徒とともに協力してすぐそばの裏山に逃げていれば、・・・・・・・・
日和山から撮影
十分に逃げられるだけの時間もあったし、普段から子どもたちは山に登って遊んでいた、というのに・・・・・。 本当に残念です、悲しいです、悔しいです。 大川小学校の大惨事は絶対に忘れてはいけないことと肝に銘じています。
(祈りの広場・芽生えの塔)
きれいに整地されました。