曇り空ですが思ったよりも寒くはなく、自転車での移動もそんなに気になりませんでした。
このところ痛快な出来事はなくなっていたのですが、久しぶりにこれは痛快と思うことがありました。
一つは読売巨人軍の選手による野球賭博の件です。 さんざん球界の盟主、常勝巨人軍にして、野球は巨人でもっているんだという傲慢さが常に際立っている巨人というチームの相次ぐスキャンダルですので、それみたことか!と人間ができていないので悲しいかな喜んでしまいます。 選手個人よりも”ナベツネ”が辞任に追い込まれたことがとっても嬉しいです。それにつきますね。
そしてもう一つは高浜原発の運転差し止めの仮処分が決定したというニュースです。 まあよくぞそういう判決をしてくれました。 これを痛快といわずして何を痛快といいましょうか。 あの日から5年目にしてようやく、やみくもな政府や電力会社の原発再稼働の動きに警鐘を鳴らしてくれました。
この判決は、同時に国民に対しても5年前のことを改めて自分のこととして考えてほしいということを訴えているものと考えます。
悲しいことがまた起こりました。広島県府中町での中学3年生の男子生徒の自殺です。万引き犯として間違われたことが、その後もずーと生き続けていた。誤りに気づきながらも、きちんと訂正されてはいなかった。その情報が共有されていなかった。
進路指導といっても、廊下での立ち話が進路指導なのでしょうか。これにもびっくりしてしまいました。惜しむらくはこの男子生徒にそれは違うという異議申し立てをいう勇気が少しでもあったならばと思いますが、真面目で勉強もよくでき優しい性格の彼にはそれができず、なぜ学校はきちんと分かってくれないのだという深い絶望感に打ちのめされてしまったのでしょうか。
何とも痛ましく辛く悲しいことです。
きのうが3月9日で、きょうは3月10日。そして当たり前のことですが、あしたは3月11日となります。9日と10日に大きな地震が続いて起きたこともきのう書きました。 でも、いつもこの頃になると悩みます。 自分はどうやって3月11日を迎えたらいいのだろうかと。
テレビでもラジオで、新聞でも「岩手県・宮城県・福島県の被災三県」と何かというと言われます。でもあの日被災したのはこの3県だけではありません。青森県も茨城県も千葉県も大きな被害を受けました。もっと大きくとらえれば大阪まで行くのでしょうが、そこまでは言わないとしても、なにかというと被災3県という形で括られます。 他の県の復興はどうでもいいのでしょうか。
そして私は宮城県に、その中の仙台市に住んでいます。仙台市もとっても大きな被害を受けました。間違いなく宮城県人でもある仙台の人間は被災者です。私も被災者です。被災者ではあっても、その被害の程度の違いにより、とてもじゃないけど被災者なんて言える状況ではないような気がしてしまいます。
その被災者ではあっても被災者とはとても言えないような私が出来ることは何なのか。何ができるのか。何をすべきなのか。被災3県以外の人との違いは何なのか。 被災地に住む者として何を発信していくべきなのか。 この時期になるといつも悩んでしまうことです。そんなことを考えるなんて思い上がりも甚だしいということになるのでしょうか。
まだまだ復興半ばの悲惨な被害を受けた被災地の復興状況を知らせていくこと、そしてあの日のことを決して忘れないこと、ということは言えます。 でもそれだけでいいのか。
一緒に悩み、考え、行動すること、そしてあの時以上の地域共同体、望ましい地域を、ニンゲンが人間らしい生活を営むことができる生活地域をつくること、それが望ましいとは言えますが、それにどうやって関わっていくのか、関われるのか。祈るだけ、願うだけなのか。
そんなことを言うなんてあまりに自分という者を過大評価しているのじゃないかといわざるをえません。 そういうことをまじめに考えると悩みは深くなるばかりです。 もしかして偽善者かと思ったりもして、結局は、虚しさを抱えながら思い悩みつつ、忘れないようにすることだけか・・・・ こうして堂々巡りをしていくのです。
教訓、3・11の教訓というものができたとして、あったとして、それが現在活かされているか、逸脱していないか、つねに現実と5年前のあの日のことを照らし合わせながら生きていく、そうすれば自ずと忘れるということはない、ありえないことになるようです。