きょうは午前中河原では風がちょっと強いかなと思う時もあったのですが、全体に爽やかで過ごしやすい日となっています。ありがたいです。
そしてきょうの感動的な言葉から;「あさが来た!」からですが。 この朝ドラは最高ですね、「あまちゃん」と双璧を成すすばらしい朝ドラですね。 入院している父親から言われた言葉、
『ええ娘やったで。 今は自慢の娘になりよった。』
思わず朝からジーンときてしまいました。 もうすぐ終わりとなると思うとさみしいですね。
今、朝日新聞には長期の連載記事としては、『プロメテウスの罠』 と 『新聞と9条』 がありますが、そのうちの「新聞と9条」からです。 その中で今は ”70年安保と革新自治体” を連載しています。
その「9」(2月27日掲載)から、三島由紀夫を中心とする5人の楯の会隊員が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監部に押し入り、益田総監を監禁したあと自衛隊員の前で演説をし、決起を促し、三島本人と楯の会の森田必勝の二人が割腹したという事件を扱っています。
なんで「新聞と9条」に三島由紀夫が出てくるのかと最初は思いましたが、彼の言動と日本国憲法は密接な関係があったわけです。自衛隊の位置づけや扱いには憤懣やるかたなかったでしょうし、天皇についても「なでと皇(すめらぎ)は人となり給いし」という文言を覚えています。これは「英霊の声」だったかな。
三島由紀夫の割腹の件についてはこのブログでも紹介したことがあります。2008年11月25日のブログです。11月25日が彼の命日だということで、決起を促した後、割腹自決したという事件を大きく扱ったアサヒグラフがあるはずだと古い書類や書籍等を探してようやく見つけ、その中の写真を3枚くらい紹介しました。
今回あらためて憲法問題の一環として新聞が三島事件を取り上げ、写真も掲載したりしましたが、そのなかの写真を見て あれっ?何かおかしい? と思いました。この写真です。
2008年11月25日のブログにもこの写真をアップしましたが、本当の写真は上の写真の左端下に割腹した二人の首が並べられていました。
それで改めて1970年(昭和45年)12月11日号のアサヒグラフを探し回ってようやく見つけました。(いったん仕舞うと忘れてしまいます。)
新聞記事(2月27日)にはこう書いてあります。「渡辺は隊員にまぎれ、総監室前の回廊へ入り込んだ。にらみつけてきた制服の一人に『総監は大丈夫だろうか』と話しかけたのが功を奏した。関係者と間違われたのか、楯の会の3人が総監室から連行される場に立ち会えた。『2人は死んだ』という声が聞こえた。とっさに眼前の机に飛び乗り、窓ガラスの割れた部分から手だけ室内へ差し入れてシャッターを1回だけ切った瞬間、『降りろ』と静止されたという。」
そしてその「11」(3月2日掲載)には、『朝日は2人の首が画面左下に見える写真を同日(25日)夕刊1面に掲載。日経とサンケイも夕刊で遺体の一部が写ったコマを載せた。』とあります。 45年前は首のある写真も新聞に掲載されていたのです。
解剖所見についてはこう記しています(その「10」3月1日掲載)。『短刀は刃渡り22.5センチ。解剖所見によれば、死因は頸部割創による離断。頸部は3回は切りかけ、右肩に刀が外れたとみられる11.5センチの切創。腹部は14センチの切創。深さ4センチで小腸に達し、左から右へ真一文字だった。』(福島著「資料三島由紀夫」2005年再訂)と。
アサヒグラフでは、「傷は深さ5センチ、長さ13センチにわたり、真一文字だった。」と書かれています。
あれから45年が経過していますが、これも社会の変化、国民の意識の変化ということになるのでしょうか。 いかなるものであれ死体や死骸は見せない、公開しないということ。 死亡事故・事件現場からの遺体等の搬出の場面もブルーシートで見えないようにして搬出しています。 もうこういうことは社会の暗黙の了解事項となっています。
ことさら強調して死体等を見せることはないと当然思いますが、これでいいのかなとも思ってしまうところもあります。40,50年以上も前のことであっても、その時は掲載していても、すべからく死体は見せる必要はないし、見せるべきものでもないとしていいものか。
全ての死を遠ざけていいのか、遠ざけるだけでいいのか、死の教育=命の教育でもあるはずで、ティーンエイジャー等による近頃のいとも簡単な殺人事件等を目にし、耳にする中で、あまりにも殺し殺されるということ、それが如何に惨いことであり悲惨極まりないか、そういうことを実感させることの重要性を痛感するのですが。 きれいごとではないということを実感することがきわめて大切ではないかと思います。
わたしなんかは血を見ると貧血を起こしてしまう方なので、とてもじゃないけど大量の出血をしている現場なんか見られませんし、作られた映画であってもアップにされた生々しい殺人や傷害の場面はまともに見られません。今は少し耐性ができたようですが、かっては動物が狩猟のため槍で刺されて血を流している場面も見られませんでした。
そんなニンゲンが言うのもなんですが、殺人、人殺しその極みの戦争での殺し合いがいかに無惨であるか、、もはや人間ではないそういうことをもっときちんと教えていかないければならないと思います。
太平洋戦争でのめちゃくちゃな万歳突撃の結果の累々とした日本兵の死体の写真等は見たくなくても見るようにしてきましたし、オキナワでの集団自決の惨たらしさ、ヒロシマやナガサキでの原爆による死傷者、近くではベトナム戦争でのいわゆるべトコン兵に対するとくに惨たらしい殺人等を現実に見せられてきました。またナパーム弾に焼かれた人々の悲惨さも目にしてきました。いかにニンゲンがニンゲンでなくなるか少なくとも頭の中では理解しているつもりです。
でも今の青少年はどうなのでしょうか?子どもたちによる子どもたちの殺人事件、殺し方を見るとこれでいいのかと思ってしまいます。
1970年11月25日のショックからもう45年が経過したのです。 本当に才能がもったいないなんて思うのは凡人だからでしょうか。
同じアサヒグラフに、評論家の村上一郎が「或るひきうたー好敵手・三島氏の屍にー」という長文を寄稿しています。その中から。
「戦後殺すだけに値する権力者はほとんど現れていない。三島氏は、それを憂憤すること深かった。」
「男が、男でなくてはできぬのは、革命と反革命と戦争と惨殺とだけである。」
「強い敵と切り結ぶこともできずに、自ら腹を切るほかなかった両氏は、まことに己より夭(わか)い人びとのなかでは、わが最大の好敵であった。」
「わたしは、安ものながら日本刀を愛し、国に志ある者のひとりとして、三島氏、森田氏らの屍をふみこえて、日本の真の革命、とりわけ日本人の精神の革命のために、生死することを誓う。」
45年前こういうことを言う人がいたのです。皆さんはどう思いますか。
最後に、三島由紀夫の辞世の句です。
「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」
「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花の小夜嵐」 (世は、正しくは十に廿の上下の字)