鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

沖縄戦・集団自決について

2007-12-27 23:39:40 | お知らせ

 沖縄戦での悲劇「集団自決」について、昨日26日一応の決着が着いたようです。

 朝日新聞によると、「『日本軍が強制した』という直接的な記述は避けつつ、『軍の関与』や『戦中の軍の教育』などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読めるないようになった。」ということです。

 

 これなんかは常識的に考えれば、当たり前のことなのに、当時の首相、戦後最低の無責任、破廉恥きわまる安倍の史観が反映されたために、記述がおかしくなったものと考えます。事実を事実として認めることを潔しとしない、何とかして美化しようという意識が働いたためと思います。

 

 それはそれとして、今日紹介するのは、沖縄守備隊第32軍の司令官だった牛島満中将の孫に当たる小学校の先生の考えです。

 ”世界2008-1臨時増刊「沖縄戦と集団自決」”に掲載されていたものです。牛島貞満さん、1953年生まれです。同じ孫でも、東条英機の孫のおばはんとは完璧に異なる立派な孫です。

 

 彼はきちんと自分の立場と言うものを自覚した上で、東京と沖縄で平和教育をしているという、素晴らしい教員です。

 祖父の二つの命令が沖縄住民に多大な犠牲を強いたと述べています。

 一つは、首里から南部への撤退命令であり、もう一つは自決時の命令、「各部隊は生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、もって悠久の大義に生くべし」だそうです。

 

 つまり、5月22日の作戦会議後、司令部は軍を、首里から南部に移動させることにしたため、南部一体は、軍隊と住民の混在する戦場となり、壕からの追い出し、住民虐殺や、それと表裏一体の関係にある集団死がおきてしまった。

 また、6月22日未明に牛島司令官が自決したために、戦闘を終了させることの出来る司令官が、最後の一兵まで闘えと言う命令を出して自決してしまったために、沖縄戦は終わりなき戦争になってしまった。

 そのため沖縄では組織的なゲリラ戦に変更されて、戦闘行為は継続され、8月15日以降も戦闘は続いた。軍の規律では、上部からの武装解除の命令がない限り、投降は「敵前逃亡」にあたり、正式には9月7日の嘉手納での南西諸島司令官による調印によって沖縄戦は終了したのだそうです。(沖縄での終戦は8月15日ではなく、9月7日だということは前にこのブログでも書きました。思い出されるのは元日本兵の横井正一(庄一)さんや小野田少尉です。小野田少尉は武装解除の命令がないと投降できないといって、現地で投降の儀式を行ったじゃないですか。)

 

 そしてこういっています。「集団死をめぐって軍命の有無が取りざたされていますが、当時は軍政下にあったのですから、県全体では32軍の司令官である牛島中将が最高の権限を持っており、そこでおきたことには責任を有しています。離島においては、そこで起きた事象についての責任は、そこの日本軍の部隊長にあることは当然だと思います。第32軍は、『防諜』を徹底指導し、住民にも投降を認めていませんでした。逃げ場のない離島に米軍が上陸してきたとき、軍から手榴弾が渡されれば、それが意味することは明白です。」と。

 

 そして、最後に、祖父は非情な人だったとは思われないし、国際法規にも通じていて、軍が南部に撤退すれば住民が犠牲になることは分かっていたはずなのに、なぜ首里で戦争を終わらせなかったのか、なぜその道を選ばなかったのか、永遠のテーマといっています。(硫黄島の守備隊長栗林中将も徹底抗戦、安易な死、万歳突撃を許さず、最後の一兵まで闘うように命令していましたが、硫黄島と沖縄では事情が違います。)

 

 なんにしても、いえることは『軍隊は住民を守らなかった』ということです。沖縄戦は、本土決戦のための時間稼ぎあり、本土防衛の防波堤であったからです。

 今回のことを肝に銘じ、我々はもう一度沖縄に思いを馳せ、沖縄のことを知ろうと努力しようではありませんか。そういう義務があると思います。

 

コメント (1)
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