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マリ危機の元凶、クーデター首謀者・アマドゥト・サノゴ元大尉の公判始まる

2016-11-17 07:30:00 | アフリカ情勢
国家再統合、北部統治、中部の治安悪化、地方選挙・・・課題満積のマリ。去る11月11日、マリの検察当局は、2012年のクーデター首謀者、アマドゥ・サノゴ元大尉の公判を11月30日にも開始する、と発表した。

罪状は殺害と逮捕・監禁。いわゆる「レッド・ベレー」、つまりアマドゥ・トゥナミ・トゥーレ前大統領の親衛隊に対して行われた行為だ。2013年12月、陸軍空挺部隊に所属する20名の精鋭の遺体がバマコ郊外のカチ近傍で発見されたのだ。カチといえば、アマドゥ・サノゴの司令部が置かれた軍事基地の所在地だった。

アマドゥ・サノゴ元大尉は、2012年3月22日にクーデターを敢行。上記のレッド・ベレー部隊が拘束されたのはこのクーデターから1ヶ月後の2014年4月、政権奪回のためのカウンター・クーデターの失敗によるものだった。

(フランス国際ラジオ放送ウェブサイトより)


マリの危機についてはこのブログでも重ねて書かせていただいてきた。その危機はアラブの春、リビア・カダフィ体制の崩壊、トゥアレグ系傭兵のマリ北部帰還、マリ国内問題の再燃、散発的戦闘の内戦化、、、と辿ってきた。

しかしその後のマリ、南北が実質上分断され、北部がイスラム武装勢力の実効支配に置かれるような重大な事態に至り、今日の深刻な危機事態を招いた根源的な出来事は何か、と問われれば、ンボテは間違えなくこのアマドゥ・ サノゴによるクーデターを挙げる。

当時のマリ、上述のようにトゥアレグ勢力の強硬派とバマコ政権との間で散発的な衝突が相次ぎ、実質内戦的状況に発展しつつあった。時折しも、任期満了によるアマドゥ・トゥナミ・トゥーレ大統領の後任を選ぶ大統領選挙キャンペーンに突入していた。ひとたび選挙が行われれば、新しい「南政権」の代表が、トゥアレグとの交渉を進めるシナリオにあったと思われる。

その矢先に起きたクーデター。当時の報道では、方針も志も半ばの騒乱兵士たちが大統領府を襲ったら、あっさりクルバ宮を占領。政権がひっくり返ってしまった。そんな「クーデターごっこ」の温度感覚が感じられた。

その証拠に、サノゴ暫定政権は憲法を停止し、暫定軍事評議会を組織したものの、しかしその政権には全く明確な当地意思も戦略もなく、マリは国家機能が全て麻痺する事態となった。

国軍はトゥアレグ勢力との作戦遂行機能を実質失う。機に乗じたイスラム武装勢力がマリ北部に侵入。治安、人道上の危機が深刻化した。

他方、国際社会は支援国はマリに支援を与えたくても、与えられないジレンマに陥る。なぜなら「トレランス・ゼロ」の原則があるからだ。クーデターがとどまるところを知らないアフリカ諸国。クーデター政権は民政移管まで、国際社会からは退場なのだ。マリからは支援が引き上げられ、経済的制裁が加えられた。直撃を受けたのはマリの国民だ。困窮、混迷が深まっていった。

この国家機能麻痺期間がなければ、状況はまだマシであっただろう。少なくとも新政権がトゥアレグ勢力との対話を模索し、国際社会はこれを直接間接に支援し、そしてテロ勢力が侵入するような「力の真空」を許すことはなかったと回想する。


マリのクーデターは旧大統領親衛隊(レッド・ベレー)と、サノゴ派(グリーン・ベレー)のライバリティの側面が否めない。政策や政権より、軍内抗争の様相が強かったと記憶している。今回の訴追で検察側は極刑を求刑するとみられる。マリには死刑制度が残存している。

ンボテによれば、サノゴによる政変はマリ情勢を決定的にクリティカルにする要因であったと振り返る。量刑のほどは別にして、そんな勝手な話がマリ国家、そして地域全体を不安定化する元凶だったとすれば許させるべき話ではない。

(おわり)

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