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ベナン共和国ケレクー元大統領が逝去~過ぎ行く一つのアフリカ史

2015-10-19 07:30:12 | アフリカ情勢
去る10月14日、アフリカからの訃報が飛び込んできた。ベナンの元大統領、マシュー・ケレクー氏が逝去した。

「カメレオン」の異名をもつ大統領。ベナンの歴史において、あまりに大きな存在であることは間違えない。逝去はヤイ・ボニ大統領自らが発表。その日から一週間、喪に服すことが宣言され、国中に半旗が掲げられた。

(Honoré Nahumウェブサイトより)


1972年から1990年、そして1996年から2006年の2度にわたり大統領を務めた。軍人の出身でマリ、セネガルで軍事教育を受け仏軍に従事、ベナンがダホメー共和国として独立すると共和国軍に従事した。

1976年10月26日、当時少佐の階級にあったケレクーは、クーデターにより政権を奪取。2年後の1974年にはマルクス・レーニン主義を標榜し、翌年に国名をダホメー共和国からベナン人民共和国に変更した。

当時、フランスはジスカール・デスタン大統領の時勢。1977年1月16日、いわゆる「戦争の犬」と言われる仏軍傭兵の鉄砲玉、フランソワ・ボブ・ベルナールが暗躍するクーデター未遂事件が発生するも、北朝鮮の軍事訓練と武器を持つケレクー自ら率いる精鋭軍の前に失敗。社会主義政権転覆のシナリオは砕かれた。この日は今でも顕彰の日となっている。

(1983年、フランソワ・ミッテラン仏大統領を迎えて。bowoulankro.comウェブサイトより)



のちに政体は暴政的な専制(dictature féroce)に変質。多くの野党支持者や知識人は国を後にすることとなった。計画経済、企業の国有化などの社会主義経済政策を進めるが、1980年代には行き詰まり、国民は困窮の中に置かれる。

80年代後半、社会主義が終焉を迎えようとする中、ケレクーは民衆の大きな抵抗を受ける。冷戦の終結とともに一党制を廃止。1990年2月に「国民主権会議」を招集し、野党側の要求をほとんど受け入れた。翌年に初めて複数政党制による普通選挙が実施され、国民はニセフォール・ソグロ大統領を選出。ケレクーは下野し、キリスト教の牧師となった。この円滑な民主化のプロセスは複数政党制への移行なモデルと評された。

しかしケレクーは選挙を通じて1996年に返り咲き、2001年の再選と合わせ、2期10年の任期を全うする。国民世論と国際社会の圧力の中、三戦に向けた立候補を潔く断念。マンデートが終了すると出身地であるベナン北西部、ナティティングに退き、余生を送った。ベナン北西部は、現ヤイ・ボニ大統領と同じ出身地である。

独裁と民主主義、社会主義革命と市場経済化、軍人・政治家としての激しい半生と余生。異なる顔を見せた「カメレオン」の逝去は、ベナン国民には何色に写っているのだろうか。


昨日、たまたま別の行事でご一緒した在京ベナン大使館のゾマホン大使によれば、準備が整い次第、今日から三日間の予定で弔問を受け付ける予定とのこと。

一つのアフリカの歴史が幕を閉じようとしている。アフリカの歴史を偲んで、ンボテも弔問に訪れようと思う。

(おわり)

追伸:
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そしてあれから10年、ベナンでは来年大統領選挙がある。すでに戦いの火蓋は切って落とされている。近いうちにベナン選挙特集という、マニアックなのをやりたいと思っている。

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