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歴史から見るコンゴ民主共和国・大統領選挙2018の行方(2)〜2011年、象牙ショックに揺れた選挙

2018-09-20 07:30:13 | アフリカ情勢
12月23日に近づくコンゴ民主共和国の大統領選挙。様々な政局の中で動いてきた今回の選挙戦、現状のコンテクストを理解する上で、過去のおさらいが必須である。少なくともこれまでリアルタイムに観察してきたンボテとしては、そのように感じられてならない。

ということで、昨日よりコンゴ民主共和国・大統領選挙史を振り返り概観している。前回は2006年大統領選挙までの流れを概観した。
第一話 2006年、初の民主的選挙


ではさっそく2006年の選挙以降の続編を。

第一次カビラ政権は2006年から5年間の任期、2011年までであった。大統領政党PPRDと西部バンドゥンドゥ州で勢力の強いPALUなどの政党からなる、連立与党により政府が組織された。カビラ政権は、政権基盤の薄い西部キンシャサにおいて、「薄氷を踏む」ような政権運営を常に迫られた。特に西のリンガラ語圏では、東の出身のスワヒロフォンのカビラ人気は極めて低く、それは首都キンシャサ、リンガラ語圏の本拠である赤道州ばかりでなく、政治的に独自のコンテクストを持ち、扱いの極めて難しいコンゴ川河口に位置するバ・コンゴ州でも然りであった。

その点でPPRDにとって、西部最大の州、バンドゥンドゥの代弁政党であるルムンビスト統一党(PALU)との連立は不可欠であった。選挙協力の合意に基づき、首相の地位はPALUから選出することとされ、初代のアントワーヌ・ギゼンガ首相の地位は、2008年にアドルフ・ムジト(※今次大統領候補の一人)に引き継がれる。

政権はガバナンスや民主主義などの点から、常に強く批判されてきた。その政策の一つが、中国との開発・借款契約、いわゆるコントラ・シノワ問題だ。この問題を批判したことで2009年、国民議会議長が罷免された。これがヴィタル・カメレ氏(※今次大統領候補の一人、東部のキブ州出身)だ。



大統領選挙を控えた2011年、カビラ政権を揺るがす大事件が西アフリカで発生した。2010年12月、コートジボワールの「選挙後危機」(Crise Post−électorale)である。内戦・政治危機後に進められてきた和平プロセスの最終段階で行われた大統領選挙。決戦投票の結果を巡り、現職バグボ大統領と、対抗するワタラ候補の両者が当選を主張。二人の大統領候補が誕生し、激しい内戦にまで発展してしまったのだ。

これを見たコンゴ側では、同年に行われる予定であった大統領選挙に、二つの大きな恐怖心を抱くこととなる。一つは選挙後に、同じような内戦が発生するようなことになるのではないかということ。そしてもう一つは、決選投票を行なったばかりに、選挙結果がひっくり返ることがありうるのではないかということである。特に後者はカビラ政権と側近に大きな警戒心を抱かせた。

コートジボワールの大統領選挙では、事前のメディアの世論調査ではバグボ大統領が過半数を得票し、一回目投票で選出されるとの結果が報じられていた。実際、第一回投票では、予想どおりバグボ候補がトップとなったが、過半数には届かなかった。そして決選投票を戦うこととなった。

決選投票においては、ワタラ候補と(第3位につけた)ベディエ候補(元大統領)の間で、あらかじめ次点となった方を統一候補とする旨の密約が交わされていた。そして、実際の決選投票において、第三位につけたベディエ候補陣営はワタラ候補を支持。開票の結果、独立選挙管理委員会はワタラ候補の当選を発表した。

これに対しバグボ候補は、投票では北部において大規模に不正が行われたとしてこれを認めず。憲法裁判所も相当数の北部票が無効であったとして、バグボ候補当選を発表。前述のとおり2人の大統領が誕生し、最後には内戦に発展した。


コンゴに話を戻そう。当時、コンゴの野党勢力は割れていた。有力野党であったMLCは、ジャン・ピエール・ベンバ党首が国際刑事裁判所で公判を受け、ベンバ待望派と、新リーダーのフランソワ・ムワンバ派に分裂。他方、キンシャサで根強い人気を誇り、2006年の選挙をボイコットしたもう一つの有力野党勢力、UDPSのエチエン・チセケディが選挙戦を戦う姿勢を見せ始めていた。与党陣営は、決選投票となれば、一方が広く野党支持票をまとめ、票が拮抗するリスクを予期した。

そのような背景の中、2011年1月、国民議会は憲法改正を発議。憲法上の不可変条項とされた大統領選挙に関する規定を修正、「決選投票」の制度を廃止してしまったのだ。大統領選挙は一回のみの投票で決定され、そこで最多票を集めた候補が勝利することとされた。情報操作をしやすく、現職大統領が候補となることが明白な与党に圧倒的に有利なやり方である。


2011年の選挙ではシナリオどおり、野党は統一候補の擁立に失敗。UDPSのチセケディと、赤道州地盤の毛ケンゴ・ワ・ドンド上院議長、東部キブ州出身のヴィタル・カメレなどが票を分け合った。結局、カビラ大統領はトップの得票で当選することとなったが、得票率は過半数に満たなかった。過半数の国民の信任を得るとの憲法の趣旨は、ここで潰えることとなるのだった。

(つづく)


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