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歴史から見るコンゴ民主共和国・大統領選挙2018の行方(1)〜2006年、初の民主的選挙

2018-09-18 07:30:00 | アフリカ情勢
12月23日、とうとうコンゴ民主共和国の大統領選挙が行われる。

「とうとう」と表現したのは、大統領選挙実施への内外の圧力を前に、当局がイヤイヤ選挙を受け入れざるを得なくなり、いよいよそのXデーがやってきてしまう。そんな風な構図に写るからだ。

今回の選挙のコンテクストを理解する上で、内戦以降のコンゴの大統領選挙がどのように推移してきたのかを知ることは極めて重要だと思う。コンゴの選挙の話題は、これまでも繰り返しこのブログで述べてきたが、今回の選挙のコンテクストにあわせて、再び書き下ろしてみることにした。


ジョセフ・カビラ大統領は、「コンゴ戦争」最中の2001年、実父にあたるローラン・デジレ・カビラ大統領(当時)の暗殺を受け、この地位を継承した。その後コンゴは幾多の和平合意と、銃撃戦などを繰り返しながら、国際社会の管理と監視のもと、どうにか2006年の大統領選挙にこぎつけた。

コンゴにとっては、独立後初の民主的な大統領選挙を迎えたことになる。アフリカで唯一となる時差を抱えた広大な国。それほどバカでかい国に、国土を貫く道路も、鉄道もなかった。選挙は低いガバナンスと紛争の混乱、そして広大な国土との戦いでもあった。

決選投票を戦ったのは、当時のジョセフ・カビラ暫定大統領(PPRD:大統領与党)と、四人の副大統領の一人で、主要野党MLCの指導者、ジャン・ピエール・ベンバ候補(※今次大統領選挙への立候補を棄却された)だった。

この国は様々なことが東西で二分されるが、この選挙では東側ではカビラ候補が、西ではベンバ候補が広く支持を集める趨勢であった。カビラ陣営は、西での票を得なければ政権維持が難しいばかりか、選挙後の政権が行き詰まることが明白であった。そのため、ルムンビスト統一党(PALU)のアントワーヌ・ギゼンガと、赤道出身のモブツ・ンザンガと手を組み、選挙戦に臨んだ。PALUという政党は、国家の英雄パトリス・ルムンバの名が冠されているが、実態は西部最大面積を擁するバンドゥンドゥ州の代弁政党である。そしてモブツ・ンザンガ候補は、かの悪名名高き独裁者、ザイール時代のモブツ大統領の実子である。そして同氏の出身は赤道州、同郷のベンバ候補と票を分かつこととなる。

ちなみにンザンガ候補の父、独裁者モブツ大統領は、ジョセフ・カビラの父、ローラン・デジレ・カビラがクーデターで転覆し、亡命に追いやった。モブツ大統領は亡命先のモロッコで翌年逝去した。親の関係をよそに、子は手をつないで連立である。


その大統領選挙決選投票後、独立選挙管理委員会はカビラ大統領の勝利を発表した。大きな混乱と多数の不公正、不透明さがつきまどったが、国際社会は発表された結果を支持した。国際的選挙監視団や国連PKO(MONUC)による監視と管理に信頼を置いたこともあるが、本音としてはもう一度この大変な選挙をやる体力も資金もなかった。そしてなにより、コンゴが紛争に戻るよりはよかった、というところにあったように回想する。

(2006年大統領選挙の結果と政権勢力図)



コンゴでは武器回収や軍統合よりも前に選挙が実施された。したがって選挙終了後も軍閥同士のにらみ合いが続くことになる。そして新政権発足直後の2007年3月には、「勝てば官軍」となった大統領警護隊と、「負けて賊軍」の扱いを受けたベンバの私兵が、キンシャサ市のど真ん中で対峙。大銃撃戦が繰り広げられ、多数の犠牲者を生んだ。ベンバ氏は捕捉を逃れ、コンゴ川河畔の南ア大使館に亡命。そして最終的にはベルギーに脱出した。その後、病気療養先のポルトガルで国際刑事裁判所(CPI)の身柄拘束を受け、ハーグの法廷で公判を受ける身となるのであった。

かくして、PALUなどとの連立による大統領与党PPRDの「第一次カビラ政権」がスタートした。

(つづく)


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