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マラボーの異変〜西サハラをめぐるガチな話

2016-11-25 14:30:56 | アフリカ情勢
11月23日、赤道ギニアの首都マラボーでは第四回アラブ・アフリカサミットが開催された。

議場にはアフリカ各国代表団と、八カ国のアラブ諸国代表団がマラボーに集まった。しかし本会議が始まる段になって、モロッコと、六つのアラブの国が一斉に参加を辞退する、異例の事態となってしまった。その原因は・・・「サハラ・アラブ民主共和国」代表団の存在。いわゆる西サハラのボリサリオ政権が代表団として出席していたことであった。

モロッコはサブサハラのアフリカで極めてプレゼンスのある国だ。第一に王室外交。第二に旺盛なビジネス展開。第三にモロッコ王室航空のネットワーク。少なくとも西アフリカではとても人気のある国だ。そしてアラブのいわゆる湾岸諸国とも強い結びつきを持つ。

そのモロッコと六カ国のアラブ諸国が退席してしまったのだから、会議は成り立たない。

アラブ諸国のうち、モロッコのボイコットに同調したのはサウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン・スルタン国、ヨルダン、イエメン、ソマリアの八カ国。逆に席に止まったのはエジプトとクウェートの二カ国である。

なぜこんなことになったのか?


いわゆる西サハラ、面積約26.5万㎢、人口55万人。


1886年にスペイン領となり、長く統治される。のち、1975年のマドリード協定により、スペインが領有権を放棄すると、モーリタニアとモロッコが分割統治を開始する。

これに対し、西サハラの独立を主張する「サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線(Frente Popular de Liberación de Saguía el Hamra y Río de Oro: POLISARIO)、いわゆる「ポリサリオ戦線」が蜂起し、激しい戦闘に発展。背後にはアルジェリアの支援があった。ポリサリオは1976年、アルジェリアで亡命政権「サハラ・アラブ民主共和国」の樹立を宣言した。

西サハラ領では激しい戦闘に発展した。ポリサリオはまずモーリタニアの支配を排除。1979年に和平合意が成立するが、すぐさまモロッコがその地域を支配、戦闘は継続した。西サハラ地域は、その後、モロッコの実効支配地域と、ポリサリオの支配地域に分断される。モロッコはポリサリオ支配地域を隔てる「砂の壁」を2000キロにわたり建設。壁と地雷で西サハラを分断している。

(西サハラ領と砂の壁、Wikidédia.frより)


1991年、国連の仲裁でモロッコ政府とポリサリオは停戦合意。西サハラの帰属を住民投票で決定することとされたが、実現に至っていない。そしてモロッコの実効支配の既成事実化が進行しつつある。


サハラ・アラブ民主共和国は約80カ国から国家承認を受けている。国連には加盟していない。上述のとおり、住民投票により帰属が検討されるとの立場からだ。他方、アフリカ連合(AU)には1982年、前身であるアフリカ統一機構(OAU)に加盟。またアラブ連盟には正式加盟していない。

モロッコは西サハラのOAU加盟に強く反発し、1984年、これを自ら脱退。現在までAUにも参加していない。2016年7月のAU総会で、モロッコのAU復帰の方針が表明されたが、西サハラ問題の具体的扱いについては具体的には解決されていない。

第27回アフリカ連合総会、ここがポイント!(1)〜またまた話題満載のサミット


アフリカ・アラブサミットでは、アラブ・アフリカ災害準備ファンドの設立、移民問題の協議、テロ対策、投資促進などが議論される予定だったという。アラブ側はクウェートとエジプトのみの参加でセッションが進められたが、禍根の残るサミットとなってしまった。

西サハラ問題、モロッコの喉元の骨であり、アフリカとアラブ連帯の大きなネック。今後もその趨勢が大きな意味を持つ。

(おわり)

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