大変長期にわたって更新が滞ってしまい、ご覧いただいている方々には弁解のしようもございません。
また、これからもこのような状態が起こる可能性もありますので、そのつもりで見ていただけるとありがたく思います。
ちなみに1級試験を受けていたためではありませんので、念のため。
*************
さて、7月の終わり頃のことになるが、矢島周平氏の退転について「御意見番」さんよりご意見をいただいた。
さらに様々な角度から検証を行われ、根拠を示していただいた。
ただ、申し訳ない話だが、そのことによって私は「矢島氏非退転」の確証を得たように感じたのである。
まず大前提となる「非退転」という言葉だが、整理する意味でその内容を確認しておきたい。
私が「矢島氏非退転」というとき、それは「非転向」を指す。
どういうことかというと、戦時中に思想犯として逮捕された人々は、その思想を捨てることを条件として釈放される。つまり「思想を捨てる」ことを「転向」というのである。
創価学会(正確には創価教育学会)において「転向」とは、「棄教」のことになる。
①人数の数え方が矢島氏退転の根拠とならないことについて
ここで、7/31の御意見番さんのコメントを引用する。
『大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名までが退転したのである。
会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。』
これは、どのように読んでも「矢島氏非転向」を示していると思われる。確かに計算は合わないが、転向してしまった者を「踏みとどまった」と表現されることはないと思うからである。
続いて、8/6のコメントより引用する。
『そのときの同志、幹部十九名、ことごとく退転して、退転しなかったのは、この私一人であります。』
コメントにはないが、このあとはこう続く。
「そのうちの二人はさておき、あとの十六名は、いまは見るかげもない生活です。次の日の生活にすら困り、借金は山とできて、じつに、私の前へは、一人として出てくる勇気もないのであります。」
すると、妙なことになる。
19名の幹部が退転した。そのうち2人はともかく16人は…と続くのだが、2+16は18だからまたもや計算が合わないのである。
さらには、同じ戸田城聖全集第4巻283ページには、こういう記述もある。
「投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人であります。」
以上のことから判るように、人数と計算が一定しないのである。
そこから出てくる結論は、《21-19=2だから、その2は牧口先生と戸田先生》という論法は成立しないということだ。
となると、数字を根拠にして「矢島周平も退転(転向)していた」と証明するのは不可能ということになる。
②文章をそのまま読むことについて
さらには、御意見番さんの8/7のコメントにはこうある。
最初に戸田先生の文章を引用されている。
『「そのほかの幹部は、一人となく退転し、強く広宣流布を誓った自分ながら、空爆のあとの焼け野原に立って孤独を感ずるのみであった。いま、蘇生した矢島周平君ですら、手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった。」
すなわち、「そのほかの幹部は、一人となく退転し」の文脈で「矢島周平君ですら」となっていることや、「「手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった」と示されていた矢島の姿と考え合わせると、まさしく、この文章は「矢島も退転者」の文証と解する以外のなにものでもないわけです。』
この部分を「矢島も退転者」と読むことができる御意見番さんが、「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである」と明確に書かれている部分をどうしてそのまま読まないのだろうか。私には不思議に思える。
さらに、8/15の御意見番さんのコメントを引用する。
最初の部分は、池田先生の書かれたものを引用されている。
『「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。
大聖人は「おご(傲)れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり(御書九五七ページ)と仰せである。
傲慢、虚勢、見栄っ張りは、大難に遭うや無様な姿をさらけ出すのが常である。
ゆえに、戸田先生は、弟子たちに厳しく言われた。
「傲慢になるな。裏切り者になるな。また、裏切り者は断じて許すな!」
先生は、出獄するや、自分が逮捕されてから、誰が、いかなる態度、行動をとったかを、克明に奥様に聞かれたという。
峻厳な先生であられた。
------------------------------------
特に
「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」
ここは、「歴史と確信」に記述されていた矢島周平の有様に、用語・内容とも一致してますよね。
あ、「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と解釈するのは無理でしょうし』
ここでも「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と読まないとのこと。普通に読めば非退転としか読めないのだが。
では、ここで池田先生が言われている「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」とはどういうことなのか。
推測になるが、ここでのヒントは「矢島氏の出獄が4月である」ということだと思う。
つまり、補足して書き直せば「戸田先生が7月に出獄した時も、辛うじて退転せずに4月に出獄していた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという(学会の再建を目指して立ち上がってはいなかった)。」という解釈が妥当なのではないだろうか。
すると、この元となった戸田先生の文章も同じ解釈が成り立つ。そのゆえに、やはり矢島氏は獄中では退転していないと思われるのである。牧口先生・戸田先生の非退転と同列でないにせよ、非退転には変わりないのである。
③結語
以上、御意見番さんのご意見を批判するような形になってしまい申し訳なく思うが、私はやはり矢島氏は獄中で退転していないと結論付けたい。
ただ、これはあくまで「事実関係」のことであり、大事なのは「それをどのように教訓とするのか」ということだと思う。
私の意見は2009年3月3日付け「矢島問題の教訓」で書いた。ご一読いただきたい。
そのコメント欄に、御意見番さんの精査なさった内容が書き込まれているので、そちらもご覧いただくとよく判るかと思う。
また、これからもこのような状態が起こる可能性もありますので、そのつもりで見ていただけるとありがたく思います。
ちなみに1級試験を受けていたためではありませんので、念のため。
*************
さて、7月の終わり頃のことになるが、矢島周平氏の退転について「御意見番」さんよりご意見をいただいた。
さらに様々な角度から検証を行われ、根拠を示していただいた。
ただ、申し訳ない話だが、そのことによって私は「矢島氏非退転」の確証を得たように感じたのである。
まず大前提となる「非退転」という言葉だが、整理する意味でその内容を確認しておきたい。
私が「矢島氏非退転」というとき、それは「非転向」を指す。
どういうことかというと、戦時中に思想犯として逮捕された人々は、その思想を捨てることを条件として釈放される。つまり「思想を捨てる」ことを「転向」というのである。
創価学会(正確には創価教育学会)において「転向」とは、「棄教」のことになる。
①人数の数え方が矢島氏退転の根拠とならないことについて
ここで、7/31の御意見番さんのコメントを引用する。
『大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名までが退転したのである。
会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。』
これは、どのように読んでも「矢島氏非転向」を示していると思われる。確かに計算は合わないが、転向してしまった者を「踏みとどまった」と表現されることはないと思うからである。
続いて、8/6のコメントより引用する。
『そのときの同志、幹部十九名、ことごとく退転して、退転しなかったのは、この私一人であります。』
コメントにはないが、このあとはこう続く。
「そのうちの二人はさておき、あとの十六名は、いまは見るかげもない生活です。次の日の生活にすら困り、借金は山とできて、じつに、私の前へは、一人として出てくる勇気もないのであります。」
すると、妙なことになる。
19名の幹部が退転した。そのうち2人はともかく16人は…と続くのだが、2+16は18だからまたもや計算が合わないのである。
さらには、同じ戸田城聖全集第4巻283ページには、こういう記述もある。
「投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人であります。」
以上のことから判るように、人数と計算が一定しないのである。
そこから出てくる結論は、《21-19=2だから、その2は牧口先生と戸田先生》という論法は成立しないということだ。
となると、数字を根拠にして「矢島周平も退転(転向)していた」と証明するのは不可能ということになる。
②文章をそのまま読むことについて
さらには、御意見番さんの8/7のコメントにはこうある。
最初に戸田先生の文章を引用されている。
『「そのほかの幹部は、一人となく退転し、強く広宣流布を誓った自分ながら、空爆のあとの焼け野原に立って孤独を感ずるのみであった。いま、蘇生した矢島周平君ですら、手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった。」
すなわち、「そのほかの幹部は、一人となく退転し」の文脈で「矢島周平君ですら」となっていることや、「「手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく穴居しているのであった」と示されていた矢島の姿と考え合わせると、まさしく、この文章は「矢島も退転者」の文証と解する以外のなにものでもないわけです。』
この部分を「矢島も退転者」と読むことができる御意見番さんが、「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである」と明確に書かれている部分をどうしてそのまま読まないのだろうか。私には不思議に思える。
さらに、8/15の御意見番さんのコメントを引用する。
最初の部分は、池田先生の書かれたものを引用されている。
『「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。
大聖人は「おご(傲)れる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり(御書九五七ページ)と仰せである。
傲慢、虚勢、見栄っ張りは、大難に遭うや無様な姿をさらけ出すのが常である。
ゆえに、戸田先生は、弟子たちに厳しく言われた。
「傲慢になるな。裏切り者になるな。また、裏切り者は断じて許すな!」
先生は、出獄するや、自分が逮捕されてから、誰が、いかなる態度、行動をとったかを、克明に奥様に聞かれたという。
峻厳な先生であられた。
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特に
「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」
ここは、「歴史と確信」に記述されていた矢島周平の有様に、用語・内容とも一致してますよね。
あ、「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と解釈するのは無理でしょうし』
ここでも「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と読まないとのこと。普通に読めば非退転としか読めないのだが。
では、ここで池田先生が言われている「戸田先生が出獄した時も、辛うじて退転せずにいた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという。」とはどういうことなのか。
推測になるが、ここでのヒントは「矢島氏の出獄が4月である」ということだと思う。
つまり、補足して書き直せば「戸田先生が7月に出獄した時も、辛うじて退転せずに4月に出獄していた幹部は怯え抜いて、病めるウサギのごとく穴居している状態であったという(学会の再建を目指して立ち上がってはいなかった)。」という解釈が妥当なのではないだろうか。
すると、この元となった戸田先生の文章も同じ解釈が成り立つ。そのゆえに、やはり矢島氏は獄中では退転していないと思われるのである。牧口先生・戸田先生の非退転と同列でないにせよ、非退転には変わりないのである。
③結語
以上、御意見番さんのご意見を批判するような形になってしまい申し訳なく思うが、私はやはり矢島氏は獄中で退転していないと結論付けたい。
ただ、これはあくまで「事実関係」のことであり、大事なのは「それをどのように教訓とするのか」ということだと思う。
私の意見は2009年3月3日付け「矢島問題の教訓」で書いた。ご一読いただきたい。
そのコメント欄に、御意見番さんの精査なさった内容が書き込まれているので、そちらもご覧いただくとよく判るかと思う。
>整理する意味でその内容を確認しておきたい。
>私が「矢島氏非退転」というとき、それは「非転向」を指す。
先日の私の発言では「転向」という言葉は使用しませんでしたが、
なるほど、こういう使い方があったんだ。
そうなると「転向」「非転向」「退転」「非退転」の使い分けを
厳密にしないと、やりとりが混乱する可能性がありますね。
まず、「転向」と「退転」の意味について
てん‐こう【転向】
2 政治的、思想的立場を変えること。特に、共産主義者・社会主義者が、
弾圧によってその思想を放棄すること。
たい‐てん【退転】
1 仏語。修行を怠り、一度得た悟りを失って低いほうに落ちること。
(いずれも「大辞泉」より)
例えば、かつてバリバリに頑張ってたY幹部が、官憲によって弾圧逮捕され、
厳しい取調に「非転向」は何とか貫いたものの、獄中で苦しみ続けたことによって
信心を劣化させ、出獄後は「病めるウサギのごとく穴居」の状態になった場合、
それを「牢獄に入ったことを要因とする退転」として評価するのは、如何なもの
でしょうか?
特に、矢島問題を語る上において、最大の重要証人とも言える戸田先生は、
学会の法難史を語る場面においては「退転」「退転しなかった」という言葉で
表現しているわけですから、資料を考察する場合においても、そこのところを
留意すべきかと思います。
>①人数の数え方が矢島氏退転の根拠とならないことについて
>『大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、
>二十一名のうち十九名までが退転したのである。
>会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやく
>その位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いもので
>あろうか。』
>これは、どのように読んでも「矢島氏非転向」を示していると思われる。
>確かに計算は合わないが、転向してしまった者を「踏みとどまった」と
>表現されることはないと思うからである。
「踏みとどまった」が「非転向」については、おそらく、戸田先生の認識も
同様かと思います。
で、前半の十九名に「矢島が含まれる」と解するならば「非転向の退転」
「非転向かつ退転」という論理になるものと思われます。
>『そのときの同志、幹部十九名、ことごとく退転して、退転しなかったのは、
>この私一人であります。』
>「そのうちの二人はさておき、あとの十六名は、いまは見るかげもない生活です。
>次の日の生活にすら困り、借金は山とできて、じつに、私の前へは、一人として
>出てくる勇気もないのであります。」
>19名の幹部が退転した。そのうち2人はともかく16人は…と続くのだが、
>2+16は18だからまたもや計算が合わないのである。
「そのときの同志、幹部十九名、ことごとく退転」は、昭和18年~20年に投獄された
当時のことを語っている箇所であり、「そのうちの二人~」以降は
「そのときの同志、幹部」の「その後」について、発言があった昭和30年当時の
状況を語った箇所ですよね。
1名少ない理由について考察すると、断定は出来ませんが、おそらく、
話題の対象にしている時期が「10年離れている」ことが要因になっているものと
思われます。
すなわち、「二人」と「十六名」の現況(昭和30年当時)について、戸田先生は
把握していたけど、把握が不十分な1名については、戸田先生の見えない所で
「悠々自適の生活」なのか「見るかげもない生活」なのか、わからなかったので、
話題に取り上げなかった、の可能性も考えられます。
ちなみに、戸田城聖全集第二巻・質問会編の235ページにこんな話が載って
おります。
「私と同じに、牧口門下の高弟として、いっしょに牢へも行った男であります
けれども、その後、退転して、どうやって金ができたか、私にはその事情は
わかりませんが、ちょっとりっぱな文化住宅というようなものをこしらえて、
おととい死にました。その家に入れないで死にました。そして胃袋をとって
死にました。その間、十三年かかっております。
結論からみれば、どう解釈してよいか。解釈の仕様がありません。」
「十三年かかっております」の話からすると、堺支部幹部会の後のことであると
推察できますし「私にはその事情はわかりませんが」と言ってることからすると
状況を十分に把握出来なかった「足りない1名」の可能性も考えられますが、
「2名」「16名」に含まれる可能性も否定できないので、ここでは「参考資料」と
いうことにしておきます。
>「投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人で
>あります。」
ここでは「二十数人」の曖昧な表現にはなってますが、「歴史と確信」及び
「富士宗学要集」の「21人」と矛盾はしませんよね。
北村氏みたいに、別件で拘留された学会員が頭をよぎったため「二十数人」の
曖昧な表現になったのかどうかはわかりませんが、ここの記述については
「人数と計算が一定しない」の論拠にはなりませんね。
>そこから出てくる結論は、《21-19=2だから、その2は牧口先生と戸田先生》という
>論法は成立しないということだ。
>となると、数字を根拠にして「矢島周平も退転(転向)していた」と証明するのは
>不可能ということになる。
「21名」は「歴史と確信」「富士宗学要集」という文証がありますし、
「19名」は「歴史と確信」及び「退転しなかったのは私一人」と相対する形で
退転者の数字を示した「堺支部幹部会」で、変わってないわけですよね。
要は「推理式指導算術」の著者でもあった戸田先生が、学会法難史に登場する
重要な数字について「具体的人物をひとりひとり念頭に置いて言ってるのか」
「テキトーなことを言ってるのか」のどちらなのかということです。
最初の箇所に下記の挨拶文を入れ損ねました(汗)
---------------------
矢島問題は難易度が高いのと、論証が複雑で長文になりそうなので、
時間が空いた折に、随時、こちらからもコメントさせていただきます。
ただ、どうも問題を複雑になさっているように見受けられますので…。
私が問題にしたいのは、「矢島周平氏が退転(転向・棄教)して出獄したのかどうか」という点です。
学会の歴史を残す上では正確な記述が必要だということを、2009年2~3月の矢島氏関連の記事で書いたつもりです。
ゆえに、「その時の矢島氏の信心が退転状態であったかどうか」は、関係ないことといえます。
どうかその点を留意された上で議論をいただければと思いますので、よろしくお願いいたします。
>私が問題にしたいのは、「矢島周平氏が退転(転向・棄教)して出獄したのかどうか」
>という点です。
私が「転向」と「退転」を立て分けることで、問題を複雑にしていると
捉えられてしまったのであるなら、遺憾なところです。
>学会の歴史を残す上では正確な記述が必要だということを、
>2009年2~3月の矢島氏関連の記事で書いたつもりです。
正確な記述が必要であるのもさることながら、特に当時の記録について、
正確に理解することも必要かと思います。
(私が偉そうに言える立場にないけど:苦笑)
で、今回は前回の続き
>②文章をそのまま読むことについて
>『「そのほかの幹部は、一人となく退転し、
>矢島周平君ですら、手のほどこすところなく、
>病めるウサギのごとく穴居しているのであった。」
>「会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、
>ようやくその位置に踏みとどまったのである」と明確に書かれている部分を
>どうしてそのまま読まないのだろうか。私には不思議に思える。
「一人となく"退転"し」は「退転」を"明記"した箇所、
「その位置に踏みとどまった」は「非転向」を"示唆"した箇所、
私は「踏みとどまった」の前の「19名"退転"」に矢島氏が含まれるという
趣旨の説明をしてたはずです。
>ここでも「辛うじて退転せずにいた」を「非退転」と読まないとのこと。
>普通に読めば非退転としか読めないのだが。
その幹部が、「歴史と確信」の「19名退転」に含まれずに
「その位置に踏みとどまった」のであるならば、
「辛うじて退転せずにいた」ではなく「退転しなかった」の
表現になるでしょうし、
「その位置に踏みとどまった」に入らずに「19名退転」に含まれているならば、
「辛うじて退転せずにいた」ではなく「退転した」の表現になるはずでしょう。
いわば「辛うじて退転せずにいた」は、「歴史と確信」の「19名退転」かつ
「その位置に踏みとどまった」
すなわち「非転向の退転」に対する池田名誉会長の評価の言葉ということですか。
>つまり、補足して書き直せば「戸田先生が7月に出獄した時も、
>辛うじて退転せずに4月に出獄していた幹部は怯え抜いて、
>病めるウサギのごとく穴居している状態であったという
>(学会の再建を目指して立ち上がってはいなかった)。」という
>解釈が妥当なのではないだろうか。
学会の再建より、自分の裁判と特高の目が気になって怯え抜いていた
同志を見て「官憲の弾圧に屈した姿」と戸田先生が認識評価したとしても、
不思議でも何でもないでしょう。
>牧口先生・戸田先生の非退転と同列でないにせよ、非退転には変わりないのである。
「同列ではない」ことをはっきり認めた点は、理解が一歩前進というところ
でしょうか。
この那由他さんの表現を借りるなら、
「他の18人と同列でないにせよ、退転には変わりないのである」
ということでしょうか。
基本的に、矢島氏に対しての評価は那由他さんと同意見です。すでに過去の人物である彼を、今日においてなお執拗に“叩く”ことは、さほど意味あることとも思えません。引用文が長くなってしまい恐縮ですが、過去の機関紙連載記事を参考にしながら述べます。(【 】内が引用です)
(牧口の折伏によって)【矢島は学会員となった。
それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。
共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」
矢島は教員をしていた。
教育県の長野では共産思想にかたよった教員らが数百人も検挙され、多くが教職を追放された。この「教員赤化事件」と呼ばれる騒動に連座していた。
わざわざ警視庁と内務省にあいさつしたのは、そうした背景のためと思われる。
思想犯のレッテルを貼られ、闇から闇へ逃げるしかなかった矢島。それを、ここまで牧口が治安当局のトップと話をつけ、日の当たる場所に戻してもらったのだから、ありがたい話である。
しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。
そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は、戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。
これだけ変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。
学会の青年部にも、彼なりの計算で取り入っていたようである。
そのころを知る人物。「人に取り入るのが、うまかった。青年部は、よく相談していた。戸田先生は、おっかないから、矢島のほうが話しやすかったのだろう」
物わかりのいい顔をして、若手の歓心を買う。いずこの組織にも、ありがちな先輩である。
……
…… 一会員が証言してくれた。
「矢島? すごい理屈っぽい人。横柄で攻撃的だった。もちろん人気なんかなかった。とうてい信頼できる人じゃない。みな、これから、どうなっていくんだろうと心配だった」
本人は、有頂天で多数派工作に熱中するものの、人望がともなわない。
さりとて、矢島の増長をたしなめ、その暴走を食いとめる者もない。当時の学会首脳は、遠巻きにして洞ヶ峠を決めこむばかりである。】
(「池田大作――その行動と軌跡」第5回 2009-01-10掲載)
このシリーズを書いたとされる編集局長のT氏、および同次長のO氏は、よほど「左翼」がお嫌いとみえ、連載の第5回では、のっけから「共産主義にかぶれ、ずっと貧乏ぐらしの男」と矢島氏のことを揶揄し、賤しめています。当時、軍国主義一辺倒の国家体制に異議を唱えるような目覚めた人間であれば、左翼思想に傾くことは大いにありうることでしょう。しかし、機関紙編集の要職にある執筆者は、そのように考える度量は持ち合わせていないようです。
【第二代会長が誕生した昭和二十六年五月に、矢島は理事長を更迭され、指導監査部長に転じた。さらに九月には、自ら申し出て、この役職も辞している。
この手の男には、あまり追跡リポートがないものだが、翌二十七年四月の聖教新聞に消息が掲載された。
「指導方針が真実の大聖人様の教えからはずれたため、大きな錯誤を学会員の指導及び自己の生活に暴露した」
幾多の証言と一致する。「教えからはずれた」何かがあったようである。
昭和二十八年六月の続報。
「会長推戴の前後より事業に失敗し、以後しばらく学会より離れていたが、昨年一度再起せんとして果さず」
事業に失敗し、そのまま立ち直れなかった。その後、戸田会長の情けで出家し、学会が寄進した寺におさまるが、反省の色は見えなかった。
戦前は自分を拾ってくれた牧口会長を捨て、戦後は戸田会長を裏切った。やはり一度、裏切った男は何回でも繰り返すものと言えようか。】
(同第7回 01/14)
なぜここまで悪意を込めて書かねばならないのか。矢島氏を弁護するつもりはありませんが、彼が折伏の師である「牧口をも捨て去った」というのは、何を指してそういうのか。戸田を裏切ったと断定するなら、なぜ戸田はそのような人物を後継理事長に指名し、また、のちの出家の面倒までみたのか。そういった細部にまで踏み込んで描かなければ、戸田には人をみる目がなかったということにもなりかねません。
1973年発行の『牧口常三郎』(聖教新聞社編)には、出家後の矢島氏の書いた追想文が掲載されていますが、ごく常識的な文章であり、そこに、取り立てて「反逆性」をイメージさせるものはありません。
仏法(法華経)は、あらゆる人間に対して開かれたもの。日蓮の表した曼荼羅には、第六天の魔王も提婆達多も認められています。すでに故人となっている人間の言動をあげつらい、つまらぬレッテル貼りをするのは、万人のために説かれた法を貶めることにもつながるでしょう。
うがった見方をすれば、三代までの「永遠の指導者性」を際立たせるために、過去の行状に少しでも瑕疵ある幹部については、容赦ない総括がはじまっているのかもしれません。となれば、四代以降に名を連ねた人物にもいずれその矛先は向けられるでしょう。
当時、感情論ばかりが先走るようなこの連載記事を読んでいて、編集局長の肩書きを持つほどの人物が、これほど冷静さを欠く文章を公にすることに非常な不安感を覚えたものです。おそらくそう感じる読者が少なくなかったために、わずか18回で唐突に連載は打ち切られたのでしょうか。
日蓮系教団に限らず、信仰者の転向(退転)については、日蓮の没後50年経って「時の貫首為りと雖も…」と、第二祖の日興が喝破した「遺誡」に尽きていると考えます。たとえ先師の指名した後継リーダーであっても、師の説いた法を軽んじて己義を構えることがありうるのだということ。だからこその「依法不依人」という戒めもあるのでしょう。
近年の、「永遠の指導者」に対する「個人崇拝」とも受け取れるような、さまざまな言説に接するたびに、わが教団はあらぬ方向に進みつつあるのではと懸念されてなりません。そして、先の引用記事にあるような、「真実の大聖人様の教え」とは何なのかを、改めて考えざるをえないというのが、私自身の偽らざる心境です。(文中敬称略)
長々と失礼いたしました。
(参照サイト:http://www.iizuka.org/i/koudou-to-kiseki/koudou-to-kiseki_index.html)
①矢島氏は、非転向で出獄した。
②しかし、信心は退転状態だった。
③ゆえに、「19人が退転」と書いてある部分については、非転向かどうかではなく「(信心について)退転した」というふうに、文底で読むべきである。
様々な角度から論じられる問題かとは思いますが、我々の立場からすれば「過去の教訓をいかに未来に役立てるか」という点しかないと思います。
その視点をはずれて単なる過去の評価になってしまっては、「歴史に学ぶ」という姿勢はなくなってしまうのではないかと危惧しています。