思うところあって、岩波文庫の坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』上・中・下(「妙法蓮華経」本文及び読み下し・サンスクリット語和訳を並列して収録)を読み進めている。
その中で非常に興味深かったのが、「常不軽菩薩品第二十」である。
そのサンスクリット語でのタイトルを見て驚いた。
「常に軽蔑された男」とあったからである。
羅什訳『妙法蓮華経』の品名を見る限りでは「常に軽んじなかった」という意味にとれるが、原典では異なる意味となる(ちなみに竺法護訳『正法華経』では「常被軽慢品」といい、サンスクリット語の通りの意味である)。
内容を読めば、どちらも正解となるように思う。
常に軽蔑された男(いわゆる常不軽)は、どのような迫害・軽蔑を受けようとも、誰に対しても怒りや悪意を持つ事なく、「あなたを軽蔑しません」と言い続けたからである(羅什訳では「礼拝を行ずる」となる)。
ただ、大事な点は「どれだけ迫害・軽蔑を受けようとも」という部分であるように思う。
忘れてはならない姿勢ではないだろうか。
その中で非常に興味深かったのが、「常不軽菩薩品第二十」である。
そのサンスクリット語でのタイトルを見て驚いた。
「常に軽蔑された男」とあったからである。
羅什訳『妙法蓮華経』の品名を見る限りでは「常に軽んじなかった」という意味にとれるが、原典では異なる意味となる(ちなみに竺法護訳『正法華経』では「常被軽慢品」といい、サンスクリット語の通りの意味である)。
内容を読めば、どちらも正解となるように思う。
常に軽蔑された男(いわゆる常不軽)は、どのような迫害・軽蔑を受けようとも、誰に対しても怒りや悪意を持つ事なく、「あなたを軽蔑しません」と言い続けたからである(羅什訳では「礼拝を行ずる」となる)。
ただ、大事な点は「どれだけ迫害・軽蔑を受けようとも」という部分であるように思う。
忘れてはならない姿勢ではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/19891220/p1
1989年(平成元年)の、非常に重みを感じる指導だと思いました。
いつも勉強させていただいております。
大変ありがとうございます。