
(新作沖縄芝居が見たい!)
母の日は「沖縄芝居」、そして「闘牛の日」でもある。闘牛はまだ直に見たことがないが、一度は見てみたい。
場面の類似が見られることと、歌唱力がないことが致命的な芝居役者が主役を演じると、舞台すべてが笑劇のようなレベルに落ちてしまいかねない。
若かりし頃料亭で働き、金持連中の夜の相手をしながら生計を支えてきた女性たちの姿は、芝居役者の姿にも投影される。料亭が戦前の辻や仲島などの遊里のお座敷につらなるものだということがわかる。変わらない眩暈のような現実がある。おあそびと息抜きの場で、女性たちが子育てしながら生き抜いてきた貧しい沖縄の戦後の姿は実は今も変わらないのだという事実に驚くわけではない。
遊びはビジネスである。浪費は命のせんたくで、異文化接触(コンタクトゾーン)で、未来が微笑む(?)だろうか。
きちんと稽古をして舞台が成り立つには、あまりに粗雑な沖縄芝居の現場がある。「沖縄芝居実験劇場」は、もはや再生しないのだろうか?あたらしい沖縄芝居が登場しなくなった昨今である。組踊と歌劇が合体したような新作組踊が、斬新ということになる。
新作組踊は次々創作されるが、新作沖縄芝居は登場しない昨今の戯作者の堕落が見られる。大正から昭和にかけて辻の妓楼を中心とした作品を創作したい、あるいは終戦間際までの沖縄を舞台にしてもいい。沢山の物語があり、その結晶は可能なのだ。戦後の料亭乱立があり、そしてアメリカ世のAサインバーの時代もあるね。
手堅い舞台を見せる『劇団うない』に演じてもらう戯作を纏めてみたい。
昨今は沖縄の言語をよくわからない研究者が沖縄演劇について紹介する時代でもある。沖縄の独自性やアジア性、世界を目指した舞台の質も問われているようだ。