志情(しなさき)の海へ

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〈芸能〉真境名由康の「人盗人」、神谷武史の演技に迫力と軽快なリズム感があったが、特に目を引いたのは子役のきびきびした動きと歌唱!

2019-04-07 10:45:25 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
音楽と舞踊のリズム感、子役(知念美意子)の痛々しいしかし明瞭な唱えと所作が目を引いた。神谷さんの演技〈所作)も見所だった。この「人盗人」は、題名通り、前半が面白い!「女物狂」は後半が少し長いが、この作品は逆になっている。

七目付けはよく登場するが、この十万目付けはまた面白い!しかし1719年に、朝薫が首里の北殿の仮説舞台で、冊封使の面前で組踊を上演されたとされるが、「女物狂」は当時、子供をさらい売り飛ばす琉球国でもあったことを彷彿させる。士族の貧困も垣間見える。子供をさらって寺や遊里に売ることが実際ありえたのだろうと想像させる。

人さらいの悪人がこっけいに描かれてもいるのだが、勧善懲悪で子供を失いさ迷う母親と子供は再会することになる物語で、めでたしで幕である。「女物狂」では子供たちが狂った悩める母親をからかいやゆする場面が挿入されている。そして寺の僧侶もまた揶揄するのである。仏教があまり普及されていなかったように見える当時の世相で、座主が品徳のある人物には描かれていない。そのことに対して以前なぜかと疑問に思っていた。寺は遊里と同じく子供を買う所でもあったのである。聖なる空域の卑属の部分が世間に滲み出ていたことを意味するのだろう。

今回舞台を見ていて、疑問に思ったのは、寺に身柄を助けられた子供が狂ったように座り込んでいる母親をすぐ母と見分けがつかないようで、組踊の様式のせいか、即座に母親に近づかなかったことだ。最初に互いを認識したのは母親だったようだが、こどもの認識力の弱さというわけでもないようだ。様式ゆえのタイミングの問題かー。

児童役は女童である。知念美意子さんの今後が楽しみだ、高い澄んだ声音は「孝行の巻」でも児童の役を演じることが可能だ。

「女物狂」と「人盗人」の地謡の歌の差異については『華風』2019年3月号に岡田輝雄が解説しているので、ここに備忘録として添付しておきたい。

参照としていいと思う。


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