県立博物館・美術館講堂で、朝10時から夕方5時過ぎまでの長いシンポジウム・研究発表に参加した!
<<沖縄から女性美術を考える2>>「なぜ、女性たちは織に向かったのか」
まず基調講演は豊見山愛さんの「戦争・沖縄・女性ーー表現の位相」
コメンテーターは喜納育江さんと平良次子さん
戦後の荒廃の中からなぜ女性たちが織に向かったか、貧困の中で生活の縁として織に向かった多くの女性たち、それが琉球王府、そして近代の歴史的スパンから語られなかったのは欠点に思えたが、戦後の二つの流れを生活のため、そしてアートとしての織の二面から語った。「西くむい」の住人だった山本文子や大城志津子(1931-1989)を中心に論を展開した。
豊見山さんのことばの中で「女たちの水脈をたどる」ということばと【伝統と創造】が印象に残った。また「伝統は革新である」とは、平良次子さんのコメントの中に出た専門家のことばの紹介だったが、伝統は尽きせぬ創造/想像の泉であるに違いないね。
喜納さんの文学と織の比較の話も良かった。Text, Textile、テキスト(本文)と織のテキスタイル(織物、布地、織物の原料など)のつながりの指摘から始まって興趣を惹いた。Textは、織られた物が原義だということなど、ことばが意味を持ち、それらが織られて物語になる。糸が織られて布になる行為との類似など面白い。
おそらくこの長いプログラムの中で布と女の関係性、文化やアイデンティティー、歴史・政治・思潮(キリスト教・植民地主義・反/脱ポストコロニアル)を含めて統立的ビジョンを提示したのは、フィリッピン大学芸術学科のノーマ・レスピシオさんの話である。文化継承の過程が女性を通して営まれてきた背景、それが【織物の模様(パターン)】の中からあぶりだされていた。キリスト教や植民地主義の弊害から除外されたフィリッピン独自のパターンがワニなどの爬虫類などの表象などであるという事実など、それぞれの風土に根づいてきたものが何なのか、そこに真象のアイデンティティーを見たいノーマさんの意志が感じられた。パターンの類似化もある。日本や沖縄のパターンにも広がるもの、それが普遍的な感性、アジア的なものなのかもしれない。アジアとは何か?アジア的普遍性は何か?もまた課題として浮かび上がってくる。
金谷美和の「インドの染織と女性」は、以前インドに行った時インドの女性のサリーに魅力された経験があり、興味深かった。絞り染の背景が社会風俗を伴って迫ってきた。布と女、織り物、と階層社会インド、宗教と織物の違い、階層による違いなど、職能集団(職能階層)としての染織の世界など、伝統と制度について考えさせられた。つまりカーストがあって伝統が維持されてきているという事実もある。職能と伝統と現代のありよう、そこでの女たちの位置など、考えさせられた。インドの女性たちのライフサイクルを見ると夫に守られる女(妻)の宗教的力は吉で、夫なき女の位置は凶である。女が既婚か未婚かは大きな壁があるようだ。このサイクルからすると未婚女性は兇・凶であり、危険ということになる。
シンポジウムに登壇する女性たちのステイタス(独身性)と学問研究にやはり差異があるのだろうか?Sexualityとジェンダーが両輪にあると思うゆえに、人間の豊饒さ、感性・知性・共生・想像・創造などの空間がある面人間性(自然性)を疎外された中であり続けるのか?女の属性のもつ可能性や狭量なコンテキストなど、気になっている。
ビデオは大城志津子を上原美智子と新垣幸子が語った。真喜志民子もまた自らの創作の根を語っていた。女たちの寡黙さの中の熱情はどこにあるのだろうか?上原が表現として何回か演劇に言及したことばが耳に心地よく響いていた。上里和美の顔が浮かんだ。いつか和美さんに語ってもらうフォーラムでも持ちたいなー。
ところで、織は生活にかなり結びついていて、そのせいか、このシンポジウムの後半から参加者が増えていった。女たちの熱気に包まれていたのは確かである。大城志津子さんへの関心の高さがそうさせたのかもしれない。織は生活であり、女たちのアートだった。思いが、愛がこもっていたのである。商業ペースに入っていくファブリック、大量消費社会の中にあって命や魂を織ることの意味が問われているようだ。織るこころは愛・情だと言いたい。商業ー労働の対価としての商品、機械化される織、自ら機織りする織・布・衣服がある。アートとしての織と商品としての織がある。生活商品とア―ト(芸術)の分離をどう捉えるか?
伝統工芸としての織の価値、魂や記憶を編み込まれた布!がある。
<<沖縄から女性美術を考える2>>「なぜ、女性たちは織に向かったのか」
まず基調講演は豊見山愛さんの「戦争・沖縄・女性ーー表現の位相」
コメンテーターは喜納育江さんと平良次子さん
戦後の荒廃の中からなぜ女性たちが織に向かったか、貧困の中で生活の縁として織に向かった多くの女性たち、それが琉球王府、そして近代の歴史的スパンから語られなかったのは欠点に思えたが、戦後の二つの流れを生活のため、そしてアートとしての織の二面から語った。「西くむい」の住人だった山本文子や大城志津子(1931-1989)を中心に論を展開した。
豊見山さんのことばの中で「女たちの水脈をたどる」ということばと【伝統と創造】が印象に残った。また「伝統は革新である」とは、平良次子さんのコメントの中に出た専門家のことばの紹介だったが、伝統は尽きせぬ創造/想像の泉であるに違いないね。
喜納さんの文学と織の比較の話も良かった。Text, Textile、テキスト(本文)と織のテキスタイル(織物、布地、織物の原料など)のつながりの指摘から始まって興趣を惹いた。Textは、織られた物が原義だということなど、ことばが意味を持ち、それらが織られて物語になる。糸が織られて布になる行為との類似など面白い。
おそらくこの長いプログラムの中で布と女の関係性、文化やアイデンティティー、歴史・政治・思潮(キリスト教・植民地主義・反/脱ポストコロニアル)を含めて統立的ビジョンを提示したのは、フィリッピン大学芸術学科のノーマ・レスピシオさんの話である。文化継承の過程が女性を通して営まれてきた背景、それが【織物の模様(パターン)】の中からあぶりだされていた。キリスト教や植民地主義の弊害から除外されたフィリッピン独自のパターンがワニなどの爬虫類などの表象などであるという事実など、それぞれの風土に根づいてきたものが何なのか、そこに真象のアイデンティティーを見たいノーマさんの意志が感じられた。パターンの類似化もある。日本や沖縄のパターンにも広がるもの、それが普遍的な感性、アジア的なものなのかもしれない。アジアとは何か?アジア的普遍性は何か?もまた課題として浮かび上がってくる。
金谷美和の「インドの染織と女性」は、以前インドに行った時インドの女性のサリーに魅力された経験があり、興味深かった。絞り染の背景が社会風俗を伴って迫ってきた。布と女、織り物、と階層社会インド、宗教と織物の違い、階層による違いなど、職能集団(職能階層)としての染織の世界など、伝統と制度について考えさせられた。つまりカーストがあって伝統が維持されてきているという事実もある。職能と伝統と現代のありよう、そこでの女たちの位置など、考えさせられた。インドの女性たちのライフサイクルを見ると夫に守られる女(妻)の宗教的力は吉で、夫なき女の位置は凶である。女が既婚か未婚かは大きな壁があるようだ。このサイクルからすると未婚女性は兇・凶であり、危険ということになる。
シンポジウムに登壇する女性たちのステイタス(独身性)と学問研究にやはり差異があるのだろうか?Sexualityとジェンダーが両輪にあると思うゆえに、人間の豊饒さ、感性・知性・共生・想像・創造などの空間がある面人間性(自然性)を疎外された中であり続けるのか?女の属性のもつ可能性や狭量なコンテキストなど、気になっている。
ビデオは大城志津子を上原美智子と新垣幸子が語った。真喜志民子もまた自らの創作の根を語っていた。女たちの寡黙さの中の熱情はどこにあるのだろうか?上原が表現として何回か演劇に言及したことばが耳に心地よく響いていた。上里和美の顔が浮かんだ。いつか和美さんに語ってもらうフォーラムでも持ちたいなー。
ところで、織は生活にかなり結びついていて、そのせいか、このシンポジウムの後半から参加者が増えていった。女たちの熱気に包まれていたのは確かである。大城志津子さんへの関心の高さがそうさせたのかもしれない。織は生活であり、女たちのアートだった。思いが、愛がこもっていたのである。商業ペースに入っていくファブリック、大量消費社会の中にあって命や魂を織ることの意味が問われているようだ。織るこころは愛・情だと言いたい。商業ー労働の対価としての商品、機械化される織、自ら機織りする織・布・衣服がある。アートとしての織と商品としての織がある。生活商品とア―ト(芸術)の分離をどう捉えるか?
伝統工芸としての織の価値、魂や記憶を編み込まれた布!がある。