志情(しなさき)の海へ

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雫境(だけい)さんの「舞踏」と仲嶺絵里奈さんの琉舞「諸屯(しゅどぅん)」のコラボ、稀有なひと時☆

2013-07-14 23:15:41 | 表象文化/表象文化研究会

雫境(だけい)さんにインタビューをした時、氏が耳が不自由な方だとわかって、ハットした。音楽は環境音楽で、氏が場所の空気を光を闇を心で感じながら踊っていたということ、紅型衣装の鮮やかな琉球舞踊の女踊をどう内面化し、対象化したのか、静と動、同化と異化、驚き、反発、脅威、白と黒の醸し出す身体の造形が穏やかな温かい米須の空気を飲み込んで、彼女の踊る女の内面に忍び込んでいく風情である。

仲嶺さんの女踊諸屯(しゅどぅん)、歌三線が流れているわけではない。抽象的な環境音楽(大山健治選曲)が流れる中、仲嶺さんはまたキャンプ・タルガニーの中庭の空気をそこに集った人々の呼吸を眼差しを浴びながらどこか遠くを見据えるような悲しげなイメージで踊っていた。(仲嶺さんは悲しい思いはないわよ、とおっしゃるかもしれない。一人寝のつらい思いを恋(愛)する里之子を思いながら踊るゆえ、先入観がありそう思ってしまうのかもしれない。ただそこに寂寥感が漂っている。二人ではなく一人の寂寥感☆)

白と黒の存在が自らの影のように寄り添う、その陰のような存在を意識しているのか、いないのか、ただひたすら内にひたひたとしみいる思いを、ありし日の恋の悦楽を思い出すように、それがすでにかなたの虚構として、認識せざるをえないような悲しみを踊る。内に内にと押し込められる思いが固い芯となって針になり突き刺すような痛みがあるのか、耐えなけらばならない刹那の悲しみが溢れ、風に吹かれ、影の己自身を見据えているのでもない。存在そのものの悲哀と束の間の喜び、振り返る女の姿、そこに愛する者の影が確かに漂っていたのかもしれないのだ。そして立ち去らなければならない。

雫境(だけい)さんは存在の震え、風であり光であり、水、土、闇、昼と夜そのものの全存在の表象なのか。存在そのものの怯えそのものが感じられた。

 

 


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