志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

何かを追求するするということの夢幻・無限なるもの、そして終幕もくる、繰り返しの波間でー!

2012-07-12 16:28:45 | グローカルな文化現象

     (今朝、車を運転している時大きなオオゴマダラがゆらりとゆっくり飛んでいるのをみた。ゆっくりとゆったりと、そのオオゴマダラが巣立ったのではないと思う蛹がひっそりぶら下がっている!古巣に戻ってまた卵を産んだと思ったのだが、幼虫の影も見えない。)

真実を愛を死を孤独を暴力をセクシュアリティーをジェンダーを場所を、空間を、演劇を、家族を想像を創造を政治状況を戦争を詩を俳句を小説を論文を言語を女を男を人間を民族を民俗を歴史を文化を国家をコミュニティーを科学を技術を宇宙を原発を核を国際関係を人間関係を音楽を、夢をアジアを琉球・沖縄をアメリカを世界を地球を存在を実存を追求すること、追求すればするほど罠にハマったようにさらにその罠にはまっていく。限りある時の波間で何を思うのかー。

限り有るということが脅迫観念になってしまわないような時の流れに身をまかせて、テーマを追求し、納得のいく答えをまとめて次に進みたい。きりがないのだ。ポケットはいくつかあってそのポケットを埋めたいと思いつつここまで来てしまった。何がポケットに埋まったのだろうか?疑問と自己嫌悪の中でたゆたうものがあり、そのたゆたう時がすべて水の泡のごときものではなかったのだと思いたい時にのってここまできた。そしていま格闘しているテーマに向き合う波にのってまたゆらりゆらゆら生きている。限りある命をゆらりとゆれていることにこれでいいのかも、なんともいえず、ただ明日を夢見ているのは確かでーー、救いのない沼に生きているという思いは常にあり、この沼からいつ抜け出ることができるかと考えているが、人はどうしょうもなく一度入った沼から這い上がれない仕掛けを生き生かされている。一つの沼から抜け出る方途を求めて生きている。

集合的知の記憶がある。文化パターンのようなもの、積み重ねられた歴史や文化の中で蓄積されたもの、その痕跡を生きているのはそれぞれの密かな隠れたミームのようなもの、それが無意識に意識としてせり出すことがある。そのミームを核として細胞が増殖するように人の遺伝子もまた命令系統を肉体の細胞や脳の思考を携わる機能に保持しているのかもしれない。

「想像の中の沖縄」への一体感という言辞はなるほどで、共同体の桎梏がゆるやかになっていった反面で海外のウチナーンチュも含めて想像の中の沖縄が実態として身をせり出しているのも事実なのだろう。

想像の中の沖縄、そして沖縄ナショナリズム、多元であることの豊かさがあり混沌があり、そしてかつ共有するイメージがある。その共有するイメージとは何か?それは鍵になるのかもしれない。アフリカが南アメリカが共有する共同体として一つにまとまる時、そのコアがあるのである、細胞の核になるもの、それがインディオの涙かもしれない。アフリカだと奴隷にされ収奪された植民地体験の痛みなのかもしれない。

そして沖縄?痛みの共有とかつて王国であった誇り、踏みつけられても歌三線を奏でる鷹揚さであり空手で鍛えた護身の型かもしれない。他者を傷つけることのない型の奥義のようなもの、手を抜いたら相手が死ぬそれゆえに手を抜かない律儀さ、倫理概念、人の命を尊ぶ亜熱帯の空気の緩やかさなのかもしれない。

そしていま、真肝に、嘘のない時、語りの時、そこにあった安らぎの時に向く。

君の目はそこにあったのだー。

梅雨明けでもまだ蒸し暑い。7月もやがて半、草木が生い茂る庭


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