goo blog サービス終了のお知らせ 

志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

沖縄を代表する演出家・幸喜良秀さん「芝居口調を共通語としてのウチナーグチがあっていいと思う!」

2014-03-28 10:50:30 | 言語

           (名護で撮影したでいごの樹、花が咲く前の様子だが、シュールな雰囲気だね!有名な名護のがじゅまるの近くにて★)

幸喜良秀さんの発言は、意義深かった!真喜志康忠さんにその場にいてほしかった!時代の逆転を直に感じてほしかったね。それも危機状況の分水嶺なのかもしれないが、そこから次への流れは微妙な段階でもあるのかもしれない。日本の教育体系の中にあって独自のカリキュラムを持てない政治システムである限り、ウチナーグチを身体化することは、祭祀芸能や民俗芸能、民族芸能(組踊、沖縄芝居、琉球音楽、琉球舞踊)の中だけにあり、日常は母語としての日本語を生きる未来なのかもしれない。

日本語、琉球諸語を自在に話していけるバイリンガル体制になっていくのかもしれない。それに英語や中国語、韓国語、スペイン語も登場する多言語社会になっていく可能性も大だね。

生活言語、心情表現としてのウチナーグチだと小説家の大城貞俊さんはお話しした。それも一つの捉え方なのだろう。つまり琉球語の共通語化の道筋は決して容易ではないということかもしれない。書き言葉の表記の問題だ。琉球諸語でどう表記するか、が問われている。例えば目取真 俊の『眼の奥の森』の小説の中で盛治が語る場面がある、日本語にすべてウチナーグチのルビが振られているが、そこは泣かせる独白になっている。盛治の思いがどれだけ、日本語圏内に生きる人々の感性に訴えることができるだろうか、それを目取真さんはウチナーグチ(今帰仁言葉)のルビを振るという形で表現している。いいね。それは例えば、詩人吉増剛造さんの詩編を思い出させる。吉増さんの詩はルビだらけである。『現代詩手帖』も吉増さんの詩編を特別扱いしているような雰囲気に見える。もしそれが可能なら、目取真さんが実験的に表出した手法が、もっと生かされてもいい。

逆にすべてウチナーグチで書かれた小説がすべて日本語のルビを振るとか、ただ物語の散文は日本語で、語り言葉をウチナーグチにする方法は以前から為されている。生活言語だと大城貞俊さんは話した。心情や思いをウチナーグチで語る。

所で、演出家幸喜さんは言い切った。「ウチナーグチを自在に話せる演劇に向けてのスタート」だとー。美しいウチナーグチの舞台を、と。

自分たちのことばを回復する未来を目指している!外国演劇、日本の新劇を学びながら、沖縄の現在へのコミットメントを強烈に主張してきた劇団「創造」は1961年から53年を迎えた。彼らの沖縄を変革する意思(志)は変わっていない。そして今、演劇集団「創造」は、ウチナーグチに回帰した。そこからどこへ向かうのだろうか?

母のことば、芝居のことば、舞踊のことばに無頓着にきた自らの反省のもとに「沖縄芝居実験劇場」を通して借り物ではない沖縄の身体言語に表象に挑戦していくという宣言だったと言えるのだろう。

司会の崎山律子さんはフリーアナウンサーで司会としてモテモテな方だが、彼女の声音≪きれいな日本語≫はプラスチックに聞こえてくる。女性に対して、「小柄で見えないけれど」とか、「小さいので」とか、相手≪女性≫の身体にあえて言及するのが、なぜか、わからない。プラスチックな声から生身の人間の声を聞かせてほしい。そのためにウチナーグチの司会の場面に遭遇したい。

愛すべき由井晶子さんのお話しは貴重な証言に満ちていた。その中身をすべてメモしたので、きちんと文字化したいのだが、今、やりたいと思いつつ、他の要件がありできない。50年代から現代にいたる東京で由井さんが体験された舞台経験をすべてお聞きしたいと切に思った。彼女の生身の声はほっとさせた。謝!

できれば『眼の奥の森』を脚本化し、舞台にのせるのはどうだろう。長くなるかもしれないが、小説の主要な物語の筋(記憶)を炙り出せたらいいね。映像化もいいに違いない。戦争の記憶について、これほど追求した現代沖縄小説は他にない!

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。