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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

富士 吉原

2012年04月01日 18時00分00秒 | 日記・雑記
掛川の次は、藤枝を訪れる予定だったが、足が痛く、泣く泣く断念。
帰りの電車の中で悶々としていると、電車はやがて吉原駅に到着した。
「静岡の吉原か。そういえば、ここにも宿場由来の遊里があったな」
恥ずかしながら、この記事を書いた時には、ないと勘違いしていた。
遊里が存在したとなると、歩いてみたくなってくる。駅の周辺くらいなら足も大丈夫だろう。
「いや、しかしなあ」
なんの下調べもしていないのは厳しい。適当に歩き回って、偶然見つかるとも思えない。
「やっぱり、今日はやめておこう」
と思ったその時、建物と建物のあいだから、気になる和風建築が目に入った。
即座に立ち上がり、電車を降りる。迷っていたら電車は出発していただろう。


正面が当の物件。駅の南側。電車内からはもっと隠れたかたちで見えていた。

 
駅周辺のビジネスホテル。やはりこのあたりに宿場があったのでは、と期待が高まる。


夕焼けを一枚。太陽はすでに山の向こうで、あまりのんびりしていられない。

 
目的の物件に到着。残念ながら、これは違ったようだ。
駅から見た時は、もっと道路に近接した建物を想像していた。

 
あてが外れたので、代償を求めて適当にシャッターを押す。


振り向くと富士山が。そういえば、富士山の周辺にもいくつか遊里跡がある。


黒露墓と書かれている。墓というより供養塔のような雰囲気。

 
古い和風建築が現れた。以前は旅館だったのかもしれない。

後で調べたら、吉原の遊里は、吉原駅から北西へ2キロほどの吉原本町にあったらしい。
今回歩いたのは、まったく見当違いの場所だったことになる。
とはいえ、ぶらぶらしながら適当に写真を撮っていたら、案外それがおもしろくなってきて、
藤枝へ行けなかった不満は徐々に薄らいでいった。
そういう意味では、下車して正解だったといえる。

掛川 十九首

2012年04月01日 15時00分00秒 | ◇静岡
遊廓→赤線
明治12年、業者数6、娼妓数15
昭和5年ごろ、業者数5、娼妓数25


十九首は現存する地名だが、遊里跡は、十九首から旧東海道を渡った小鷹町にある。
昔は小鷹町の側も、十九首という印象的な名前にひっくるめられていたのかもしれない。


妓楼が並んでいた通り。一部舗装されていないのは、何か理由があるのだろうか。


近年まで写真のあたりに「すずもと」という旅館があったはずだが、訪問が遅かった。
すでに新しい住宅が建ち並んでおり、往時の痕跡は何一つ残っていない。


ありし日の面影をいまに伝える唯一の遺構。現在は物置として使われている様子。
もはや倒壊寸前だが、木造建築はこうなってからが強い場合もある。末長く残ってほしい。

 
上記遺構から二点。色のついた壁や凝った窓など、注目のディティールがあちこちに。

 
当時を想像させる路地。この小道は意外に長く伸びており、旧東海道までつづいている。
ひょっとすると、周辺の道路よりもずっと古くから存在している道なのかもしれない。


かつてはこの空き地にも妓楼が建っていたのだろうか。

磐田 中泉

2012年04月01日 13時30分00秒 | ◇静岡
遊廓→RAA施設→赤線
明治15年、業者数7、娼妓数13
昭和5年ごろ、業者数6、娼妓数35


遊廓のあったあたり。いまは駐車場や新築の家屋になっており、昔日の面影はない。
奥に見える林は、旧中泉公園。遊廓だったあたりも明治初期ごろは公園だったらしい。

 
旧中泉公園。料亭を思わせる塀と門が、単なる公園ではなかったことを物語っている。

 
園内は、地元の有志の方々によって、現在も日本庭園然とした景観が保たれている。
建物こそ残っていないものの、かつて公園の周囲には、料亭や劇場もあったという。


横たわっているのは当時の妓楼の門柱。現在はベンチとして再利用されている。

 
門柱のほかにも、往時を偲ばせるいくつかの物品が残存している。
左は石灯籠、右は瓦の残骸。これらが妓楼の遺産なのか、料亭のそれなのかは不明。


中泉遊廓は、以前は公園だったその土地柄から、「公園」という通称がつけられた。
電柱のプレートに「公園」の文字が。これは中泉公園から取られた可能性が高いか。

それにしても、「公園」といい、見付の「田んぼ」といい、磐田の遊里の通称はユニークだ。
「今日はみんなで公園に行こう」
「行こう行こう」
「このあいだは田んぼで遊んだから次は公園だよな」
会話だけ聞くと小学生である。

磐田 見付

2012年04月01日 12時30分00秒 | ◇静岡
飯盛旅籠→遊廓→RAA施設→赤線
明治8年ごろ、散在していた娼家を一ヶ所に集める
昭和5年ごろ、業者数3、娼妓数25

道の片側に妓楼が並び、その周囲には水田が広がっていたという。
そのことから、遊客たちには「田んぼ」と呼ばれた。


このあたりに遊廓があったらしい。残念ながら、いまは旧妓楼も田んぼも残っていない。


古風な門が現れた。しかし、おそらく関係ないだろう。


唯一これはと注目した石灯籠。後ろの建物は新築だが、灯籠はかなり古そうだ。
ここの家主の方が、せめて灯籠だけでも、と保存したのではないか、と夢を見てしまう。


売物件の更地。ことによると、つい最近までここに遺構が残っていたのかもしれない。

 
更地の奥側から。この敷地に経っていたのが一軒屋なら、相当な規模だったことになる。
脇には気になる小路が。かつての裏道と考えるのは、さすがに妄想が過ぎるか。


更地の奥の建物。古そうなたたずまいに惹かれ、一枚撮影。


通りの東側から。左側には田んぼが広がっていたと思われる。

桑名 長島

2012年04月01日 08時30分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
明治5年ごろ、業者数5、娼妓数26
昭和5年ごろ、業者数13、娼妓数103
赤線時代は「水郷園」と呼ばれていた。

残念ながら、これはと思える決定的な遺構は見つけられなかった。
手ぶらで帰るのも寂しいので、目についた古そうな建物を恣意的に撮影していく。


長島町のゲート。小さく「水郷公園」と書かれている。「水郷」の名を残す一つだろうか。


古そうな建物。妓楼にも商店にも見えないものの、気になる造りではある。

 
三つの入口に、出格子を備えた平屋建て。もともとはなんの建物だったのか興味深い。

 
小道を歩いていたら、風流な建物が現れた。玄関まわりに華やかな雰囲気がただよう。

 
窓におもしろい趣向が見られたので撮影。とはいえ、このたたずまいは一般住宅だろう。


元商店といった風情。遊里がこのあたりにあったのか、だんだん自信がなくなってきた。


遺構の可能性があるとすれば、この建物か。サイディング前の様子を見てみたい。

四日市 住吉町(2)

2012年04月01日 06時30分00秒 | ◆東海
ひきつづき住吉町を探索。


カフェー建築というには無骨な造作だが、古そうな外観に惹かれてカメラを向けた。
鏡映しのような二階に対し、一階のほうは微妙に装いが異なっているのがおもしろい。

 
横に長い建物で、右奥まで連続している。
色あせてしまっている赤い壁も、かつては鮮やかな色彩で人目を引いたことだろう。

 
格子窓が美しい和風建築。二階の軒下に照明の跡が確認できる。
玄関まわりはタイル張りだが、これは昔からのものではなく、最近のリフォームのようだ。


築年数は相当と思われるものの、いま一つピンと来ない一軒。
妓楼や料亭といった種類の建物ではないのかもしれない。


親子格子や下見板など、木造部分が見どころ。
ただし、一階の木材は、二階の色具合と比べてみると、新しく交換されたものらしい。

 
廃屋然としたたたずまい。軒下の電球が往年の形状をとどめている。
門もかなり古そうな印象を受けるが、華奢な造りで、とても長持ちするようには見えない。

 
左右で印象の異なる物件。右奥の白い部分もつながっており、見た目以上に大きい。
入口の唐破風は凝った造り。照明の上部に何か書かれているようだが、なんだろう。

四日市 住吉町(1)

2012年04月01日 06時00分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
詳しいなりたちは不明だが、運河に囲まれたその独特な地形から、
計画的に設置された遊里であることが想像できる。

 
煤けた木材と大きな丸窓が目を引く和風建築。小ぶりな料亭といったたたずまい。
入口の上部には、料理店のプレートが残っていた。


朝明楼。住吉町から運河を隔てた対岸に位置する現役の料理旅館。
場所は遊里から外れているが、その立地から考えて、遊里と無関係ではなかっただろう。

 
建物は小さいながらも、入口を二つ備えた構え。
かなり直されているものの、かろうじて欄間の造作に特徴が残っている。


こちらも入口が二つ。親子式の出格子を除けばシンプルな外観といえる。

 
工場のようなコンクリート造りにカラフルなタイル張り。不思議な建物だ。
よく観察すると、銭湯のような構造だと気づいたが、煙突がなく、確証は得られない。


料亭と思われる店構え。屋根の上から、恵比寿天と大黒天が通りを見下ろしていた。

 
相当の奥行きを持つ和風建築。壁の色や玄関の装飾に、往時の華やかさがうかがえる。
現在はお茶屋(待合ではない意味の茶店)として営業しているようだ。