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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

磐田 中泉

2012年04月01日 13時30分00秒 | ◇静岡
遊廓→RAA施設→赤線
明治15年、業者数7、娼妓数13
昭和5年ごろ、業者数6、娼妓数35


遊廓のあったあたり。いまは駐車場や新築の家屋になっており、昔日の面影はない。
奥に見える林は、旧中泉公園。遊廓だったあたりも明治初期ごろは公園だったらしい。

 
旧中泉公園。料亭を思わせる塀と門が、単なる公園ではなかったことを物語っている。

 
園内は、地元の有志の方々によって、現在も日本庭園然とした景観が保たれている。
建物こそ残っていないものの、かつて公園の周囲には、料亭や劇場もあったという。


横たわっているのは当時の妓楼の門柱。現在はベンチとして再利用されている。

 
門柱のほかにも、往時を偲ばせるいくつかの物品が残存している。
左は石灯籠、右は瓦の残骸。これらが妓楼の遺産なのか、料亭のそれなのかは不明。


中泉遊廓は、以前は公園だったその土地柄から、「公園」という通称がつけられた。
電柱のプレートに「公園」の文字が。これは中泉公園から取られた可能性が高いか。

それにしても、「公園」といい、見付の「田んぼ」といい、磐田の遊里の通称はユニークだ。
「今日はみんなで公園に行こう」
「行こう行こう」
「このあいだは田んぼで遊んだから次は公園だよな」
会話だけ聞くと小学生である。

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