遊廓→RAA施設→赤線
明治15年、業者数7、娼妓数13
昭和5年ごろ、業者数6、娼妓数35
遊廓のあったあたり。いまは駐車場や新築の家屋になっており、昔日の面影はない。
奥に見える林は、旧中泉公園。遊廓だったあたりも明治初期ごろは公園だったらしい。
旧中泉公園。料亭を思わせる塀と門が、単なる公園ではなかったことを物語っている。
園内は、地元の有志の方々によって、現在も日本庭園然とした景観が保たれている。
建物こそ残っていないものの、かつて公園の周囲には、料亭や劇場もあったという。
横たわっているのは当時の妓楼の門柱。現在はベンチとして再利用されている。
門柱のほかにも、往時を偲ばせるいくつかの物品が残存している。
左は石灯籠、右は瓦の残骸。これらが妓楼の遺産なのか、料亭のそれなのかは不明。
中泉遊廓は、以前は公園だったその土地柄から、「公園」という通称がつけられた。
電柱のプレートに「公園」の文字が。これは中泉公園から取られた可能性が高いか。
それにしても、「公園」といい、見付の「田んぼ」といい、磐田の遊里の通称はユニークだ。
「今日はみんなで公園に行こう」
「行こう行こう」
「このあいだは田んぼで遊んだから次は公園だよな」
会話だけ聞くと小学生である。
明治15年、業者数7、娼妓数13
昭和5年ごろ、業者数6、娼妓数35
遊廓のあったあたり。いまは駐車場や新築の家屋になっており、昔日の面影はない。
奥に見える林は、旧中泉公園。遊廓だったあたりも明治初期ごろは公園だったらしい。
旧中泉公園。料亭を思わせる塀と門が、単なる公園ではなかったことを物語っている。
園内は、地元の有志の方々によって、現在も日本庭園然とした景観が保たれている。
建物こそ残っていないものの、かつて公園の周囲には、料亭や劇場もあったという。
横たわっているのは当時の妓楼の門柱。現在はベンチとして再利用されている。
門柱のほかにも、往時を偲ばせるいくつかの物品が残存している。
左は石灯籠、右は瓦の残骸。これらが妓楼の遺産なのか、料亭のそれなのかは不明。
中泉遊廓は、以前は公園だったその土地柄から、「公園」という通称がつけられた。
電柱のプレートに「公園」の文字が。これは中泉公園から取られた可能性が高いか。
それにしても、「公園」といい、見付の「田んぼ」といい、磐田の遊里の通称はユニークだ。
「今日はみんなで公園に行こう」
「行こう行こう」
「このあいだは田んぼで遊んだから次は公園だよな」
会話だけ聞くと小学生である。
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