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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

横浜 綱島(3)

2012年04月15日 14時30分00秒 | ◇神奈川
綱島探訪の最終項。

 
全面がトタンで覆われているものの、どことなく気になる雰囲気をただよわせている。
塀のすき間からのぞくと、建物の側面に、古風な和風建築を思わせる引き戸が見えた。


ホテルが建ち並ぶこのあたりも、かつては綱島温泉街の一角をなしていた。

 
割烹旅館「水明楼」の跡地。マンション名に旧来の名前が入っている。
角地に据えられている不思議な形の石は、割烹旅館時代のなごりだろうか。


イトーヨーカドーの敷地は、手前の駐輪場を含めて、当時の温泉旅館の3軒分。


道端の地図に、平成20年に閉業した、綱島最後の温泉旅館「浜京」の名が残っていた。
実際には、現地は駐車場になっており、旅館だったころの面影はすでにない。

 
旧温泉街から少し離れた場所にある「富士乃湯」。
この銭湯に関する資料は見つかっていないが、綱島温泉の流れを汲む一店舗だろう。


電柱のプレート。NTTが「温泉町」、東京電力が「温泉」とは。

綱島探訪もこれで終了。
なかば重箱の隅をつつくように、細かいところまで見て回ったつもりだったが、
それでも見落としてしまった遺構がいくつかあった。
それらの確認は、またいずれ。

横浜 綱島(2)

2012年04月15日 13時00分00秒 | ◇神奈川
綱島探訪のつづき。

 
昔日の面影を色濃く残す割烹温泉「入船」跡。門に施された装飾が印象的。


「入船」の裏手。近年まで門の上に看板があったはずだが、撤去されてしまったようだ。

 
新水パーキングセンター。「新水」の名は、かつて同所にあった割烹旅館の屋号と同一。
よく見ると、割烹旅館のなごりとおぼしき塀の一部がそのまま使われている。


いまの綱島温泉を代表する存在「東京園」。往時は宿泊可能な温泉旅館だった。
「東京園」の屋号は、そのころから変わっていない。


綱島街道沿いに現存するビジネス旅館。
温泉旅館から転業したケースのようで、「まつ代」の屋号は往年のものを継承している。

 
かなりの敷地の広さを持つ旅館「きよ水」。
本旅館の来歴は不明。昭和30年代の地図を見ても、この場所に旅館の形跡はなく、昭和
30年当時の旅館名簿にも、一致する屋号が見あたらない。新興の旅館なのだろうか。


看板こそ残っているものの、廃業から相当年月を経ていると思われる旅館「ことぶき」。
当時の屋号は看板と同じ。建物も変わっていないのかもしれない。

(3)へつづく。

横浜 綱島(1)

2012年04月15日 12時00分00秒 | ◇神奈川
温泉街→花街
一説によると、戦後は、RAA施設を経て、のちに芸娼妓の混在する花街になったらしい。
また、戦災で焼け出された青木町遊廓の遊女が、綱島の地に移ってきたという話もある。
これらの説について、はっきりした資料は得られていない。

何はともあれ、散策してみる。まずは鶴見川の南側から。

 
現役の「太平館」。綱島からはかなり離れているが、綱島温泉の一つに数えられている。

 
かつて樽町には、「菖蒲園」という観光地があった。昭和8年に開園するも、3年で閉園。
園自体はとうに見る影もないが、交差点とバス停に、いまもその名を見ることができる。


ラヂウム霊泉湧出記念碑。綱島街道の脇にひっそりとたたずんでいる。
大正3年に飲用水の井戸掘りで偶然温泉を発見。一大温泉街が築かれる契機となった。

 
玄関の造りが気になった和風建築。木々に囲まれ、建物の様子はあまり見えない。
この場所には昔、「長楽園」という温泉旅館があったが、その遺構だろうか。


鶴見川沿いのラブホテル。位置的には、温泉旅館が数軒あったあたりだが、関連は不明。

鶴見川の南側はここまで。
大綱橋を渡り、北側へ移動。いよいよ綱島駅(旧・綱島温泉駅)周辺である。


左右のマンションが建っている場所は、以前はどちらも「桐本」系列の割烹旅館だった。
右が「桐本本館」、左が「桐本別館」。

 
上記のマンションから二点。
[左]別館側の庭。石灯籠や庭石が置かれている。旅館の遺産と思いたいが、はたして。
[右]本館側の表札。マンション名が当時の屋号を受け継いでいる。