Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

simple is best

2011年05月20日 | 那覇、沖縄
 私の知人が第3回のピアノ・デュオリサイタルを沖縄で開催する。写真がそのチラシである。ちょっと見ただけでは何のチラシかわからないほどシンプルである。しかし、私は好きである。この二色刷りのチラシにそそられるのだ(ちなみに本物はフジの花のような色で印刷されているのだが、スキャナーで取り込むと、どうしても色が変わってしまう)。
 沖縄で開催される(たぶん日本中どこもそうなんだろうが)クラシックのリサイタルのチラシというのは、なんとなくステレオタイプで、タキシードやドレスを着た演奏者が「ドカン」と中央に写ることが多い。ピアニストの場合はそれに楽器(ピアノ)がくっついている。
 別にそれを否定するわけではないし、そんなチラシを見た瞬時に「これはクラシックのコンサートだ」と認識されるわけだから、チラシとしての役割を十二分に果たしているということになる。でも、たまには違うパターンがあってもいいんじゃないかと思うのである。
 こんなチラシを作る演奏者はいったいどんな演奏をするんだろう?そんな風に思った方、是非、このリサイタルに足と耳を運んでみるべし。ちなみに演目は裏に印刷してあるので(これもにくい演出である)、ここに書いておこう。

 第3回 山根貴志&大城伸悟ピアノデュオリサイタル
 
  日時 2011年6月25日(土) 19時開演
  場所 那覇市パレット市民劇場
  入場料:一般2000円、高校生以下1000円 (当日500円増) 

  プログラム
  F. プーランク:シテール島の船出
  R. アーン:ひもときし手紙のリボン
  S. ラフマニノフ:組曲 第2番 作品17

梅雨のいぬまに洗濯

2011年05月18日 | 那覇、沖縄
 雨続きだった沖縄の今日の空には、このところ見たこともないような青空が広がった。
 「梅雨の間の晴れ日って、何て言うんだっけ?」と私がかみさんに聞くと、彼女は少し考えてこう言った。
 「鬼のいぬまに洗濯?」
 「それ違うだろ。意味がぜんぜん違うよ。」
 確かに違うのである。これは「遠慮する人がいない間に羽を伸ばす」という意味であり、英語では「ネコがいない間にネズミは遊ぶ」とか言う諺がある(大学受験のときに予備校で覚えた)。
 しかしよく考えてみると、乾燥機がない家では、梅雨の合間の晴れ日には、確かに「洗濯」が大量にできるのである。毎日しぶとく降り続ける雨は、洗濯を妨害するわけで、主婦にとって梅雨は「鬼」みたいな存在なのだ。そう考えると「梅雨晴れ」を「鬼のいぬまに洗濯」と言うのも、また別の意味で合点がいくというものだ。
 ということで、ブログのタイトルは「鬼のいぬまに洗濯」としようと思ったのだが、やはり、常識的な方々に配慮して「梅雨のいぬまに洗濯」としたのである。
(写真は本日、午前11時頃の大学の中庭)

梅雨空の日は明るく!

2011年05月17日 | 大学
 ゴールデンウィークから沖縄は梅雨。毎日、毎日、よく降ってくれます。台風1号は来るし、昨日は大雨洪水警報の発令。学内の校舎間も移動したくない、そんな天気が続いています。
 そこでPは、研究室の暗い廊下をパッと盛り上げようと、研究室前ホワイトボードを派手なマグネットで精一杯飾ってみました。明るい、明るいぞ。なんだか楽しいぞ。研究室に来たくなるぞ!ついでに研究もしたくなるぞ。
 どうにか盛り上げては見たもののやっぱり研究室に入ると、大きな窓にはどんより曇った空が大きく広がっています。
「よし、気分を変えるために、研究室を出て、ホワイトボートを見よう!」
こうして梅雨空の一日、エンドレスな部屋の往復が繰り返されるのです。

ぼくは12歳

2011年05月16日 | 
 高校生から大学生にかけて、よく読んだ詩集の一つが岡正也『ぼくは12歳』だった。著者は私と同じ1962年生まれで、中学1年の7月、自らの命を絶った。同じ時代を生きたということ、ビートルズを熱心に聞いていたということ、そんなことが身近に感じられたことをよく覚えている。
 彼の詩には美しく着飾った一切の言葉がない。俳句や短歌とも違い、ストレートに自分の気持ちを吐露する数行に、心を打つ何かがある。しかし幼児の絵みられるような「無垢なる抽象画」にある種の感動を覚えるのは違う。彼は詩を自分なりに理解した上で、短い言葉に息吹を与えている。そこには聴覚、味覚、視覚、触覚に訴えかける何かがある。
 私は数日前から彼の詩が読みたくなって、週末、東京に帰った折、実家の書庫の隅に眠っていた文庫本を探し出した。もう20年以上、この詩集から遠ざかっていた気がする。最初からゆっくり読み返しているうちに、なんだか自分に対してすっかりつらくなって、悲しくなって、何度も天井を見上げた。
「君が生きていれば、今、私と同じ歳だ。君は、知らない同級生たちに、すっかり大人に慣れてしまった同級生たちに、子どもが見えなくなってしまった同級生たちに、この詩を通して今なおこうしてやさしく語りかけているのかい?」

 ぼくの心
 
  からしをぬったよ
  体に
  そうしたら
  ふつうになったんだ
  よっぽど
  甘かったネ
  ぼくの心って
         岡正也『ぼくは12歳』(角川書店、1982年、112頁)

羽田国際線ターミナルにて

2011年05月15日 | 東京
 ちょっと移動に時間があったので、那覇から国内線に到着した後、連絡バスで国際線に移動した。国際線のターミナルは開港当初は見物人で大混雑だったが、そんな時期を過ぎた今、午後5時前後は、気が早い深夜便の乗客がポツリポツリと集まり始めている程度で、国内線と比べれば閑散としていて、ゆっくり過ごすには気持ちのいい場所である。
 京都の手ぬぐいを売るRAAKを眺めたあと、国際線の手続きカウンターを一望できる、がらんとしたカフェに寄る。階下にはまだ係員が一人もいないカウンターが並ぶ。カウンターの上のボードには、何の表示をされていない。静まりかえった階下は、まるで開港していない空港のようだ。国際空港お決まりのアナウンスもほとんど流れない。カフェの若い女性の店員の話声だけが断続的に耳に届く。
 それにしても国際線ターミナルを眺めていると、自分が海外に行くわけでもないのに、ちょっとワクワクしてしまうのだ。「今晩、シンガポールに発って、3泊したあと、次はジャカルタで2泊、今回はバリに行かなくてもいいかな」なんて空想旅行がたやすくできる。空想するにもその場所が重要だ。目をつむらなくても、ここは国際空港なのだから。
 ちょっと疲れたら、大好きな海外旅行を思い描くのに最適な場所がこの羽田国際線ターミナル。自分にやさしい時間が過ごせる場所。まだ約束の時間まで40分残っているし、次はどこに行こうかなと、訪れたことのない国々に思いを馳せる。 

台湾お菓子のホームラン王

2011年05月14日 | 台湾
 沖縄に住んでいると、結構、台湾のおみやげをもらうことが多い。その中でもっとも多いのが鳳梨酥とよばれるパイナップルケーキ。家にあれば美味しく食べるのであるが、うちの家族からは「今回、お菓子はいらない」と言われて台湾に出発した。
 家にお菓子は買わなくても、ゼミのお菓子やらガムランのお菓子は必要である。行天宮のそばの鳳梨酥が美味しいといわれる店に行き、買い物をしたのであるが、そのときに試食で出されたお菓子の一つをつまんだとき、「えっ、これは……」とその味に感動してしまったお菓子があった。おもわず食べた瞬時に「これを下さい」と言ってしまったほど、その味は私にとって「台湾のお菓子のホームラン王」だったのである。
 「翡翠 緑豆羹」なるお菓子である。これは、この店で売られるお菓子の固有名詞なのか、それともこの手のお菓子の名称なのかはよくわからない。要冷蔵のお菓子で半生のようなやわらかさがある。中華風ではなく、この味はまさに「洋風」に近い。
 「そんなに旨いって言うなら、なんで買ってこなかったんだ?」といわれそうだが、実はすでに40個も鳳梨酥を買った後の出来事だったのである。それに要冷蔵だし。次に行く機会があれば必ず買ってこようぞ!(でも空港の免税店にはこの手のお菓子を発見できなかったのは、私の観察不足なのだろうか?)

供物

2011年05月13日 | 台湾
 台湾からの帰国日、先方の芸術大学のコーディネーターは、仕事ずくめの私たちに気を使ってか、空港への帰途、台北市内の観光スポットの一つ、行天宮とよばれる関帝廟へ案内してくれた。
 観光スポットとはいえ、ここは現地の人々の信仰の場。土曜日のせいか、多くの人々が廟を訪れて賑わっている。なんとなく信仰の場を異教徒の私が、興味本位で覗くことに抵抗を感じてしまう。そそくさと手を合わせてなるべく邪魔にならない場所に移動した。
 ちょうどそこに並んでいたのが供物の数々。バリで供物は見慣れているが、台湾の供物も独特である。よく見てみると、供物を置いて祈りを捧げた後、再び自分が置いた供物の場所に戻って、それを持ち帰っている。これまたバリと同じである。
 こういう光景を見てしまうと好奇心が爆発。コーディネーターに供物の種類や意味について事細かに質問してしまうが、相手も困って廟の人々に一つ一つ聞いている。廟・供物、祈りの場は、文化人類学を学んできた私にとっては、観光地ではなく、すでにフィールドワークの場になってしまうのだ。結局、撮影した写真を見てみると、廟の写真ではなく供物の写真ばかりなのであった。

スクーター

2011年05月12日 | 台湾
 台湾のバイクはほぼ100パーセント二人乗りバイクなのだが、驚いたことに、ほぼギアなしのスクーターである。インドネシアも徐々にホンダやヤマハのギア付きのカブが減りつつあり、韓国や中国で製造されたスクーターへと移行しつつあるのだが、台湾のスクーター化の方が一歩も二歩も進んでいる。原付がないだけで、日本とほとんどかわらない。
 街中では東京と同様にたくさんの車が走るのだが、それらの車を二人乗り、三人乗りでスクーターがすりぬけて行く光景は、沖縄には見られないなんとなく「アジア」な光景である。東南アジアと沖縄、東京の風景と深く関わる私にとって、沖縄に近い台北は、また新しい風景を見せてくれる。沖縄らしくもあり、東南アジアのようでもある不思議な街。カブ派の私が、スクーターに乗ってみてもいいかしら、とふと思ってしまう街。


街で

2011年05月11日 | 台湾
 1980年代、インドネシアには華人が山のようにいたはずなのに、漢字で書かれた看板が一枚もないのが不思議だった。後になって、「漢字」の公的な使用が禁止されていたことを知った。すべては共産党とのつながりを絶つための手段だった。
今のインドネシアに漢字は珍しくない。それまで自らのアイデンティティを表出できなかった華人はスハルト政権以降の改革の中で、自文化を表現することが許された。インドネシア語には不自由しないのだが、それでも不思議とバリの街中で漢字を見ると安心する。
 当たり前だが、台湾は漢字文化圏である。しかも漢字は中国大陸の極限まで省略した簡体字と違って、日本の旧字体の漢字が用いられる。私自身は戦後世代であるにせよ。そんな文字を見ると、ある種の懐かしさすら感じるものだ。だからなのだろうか、不思議と外国に来たという実感がいつまでたってもわかないのは……。

やっぱりここでも

2011年05月10日 | 台湾
 台湾に来てもやっぱりガムラン。芸術大学ではガムラン・アンクルンを所蔵して、授業に使用している。ただおもしろいのはゴング。バリのゴングではなく、台湾で作ったゴング。それでもしっかりバリのゴングの音がした。
 東京から沖縄、アムステルダム。そして台北。ガムランを演奏する場所が世界に広がっていく。私がたどるガムランでつなぐ道は、次にどこに向かうのだろう?