7月末に出版された安部櫻子『インド櫻子ひとり旅――芸術の大地』(木犀社)を読む。この本は著者が1990年前半から3年間にわたってヒンディー語を学ぶために留学した間に、絵画や入れ墨に興味をもって、少数民族の村を旅した紀行である。
私は、著者が最初に興味をもったミティラー画についても、インド北部の少数民族の生活やその生活と切り離すことのできない入れ墨のこともまったく知らずにこの本を読み始めたのだが、正直なところ、そうした民族誌的な記述よりも、女性が一人でインドの少数民族の文化を学ぶことの困難さと、そんな状況においても好奇心を失わずに出会いを求め続ける姿にある種の感動を覚えた。そして少数民族である「かれら」の語りを著者が解釈して表現する手法ではなく、彼らの語りを直接話法で記していく「語り口」に惹き込まれた。
外国人が現地であたたかく迎えられるわけではないということも「かれら」の台詞の中から生々しく伝わってくる。たとえば著者に対して、入れ墨を入れられながら涙を流す少女が「写真を撮っているあんた、そんなに知りたいなら、あんたも入れ墨彫ればいい。(後略)」というくだりは、文化人類学者が読むと、自分にも心当たりがあるようなできごとではなかろうか。
著者の体験は、バリ島を調査する私にとって考えも及ばないほどハードなものである。この本にはさほど触れられてはいないのだが、私はこの旅、あるいはインドの生活の中で、著者が日本にいたときとは比べものにならないほどの凝縮した「喜怒哀楽」を経験してきたのだと想像する。これだけの生活や旅をすれば当然のことだろう。著者は旅の後半、カルカッタへ向かう車窓で「心に残された旅の破片をいつまでも反芻する」という表現を用いている。この文章は、旅人の心模様について、的を得た表現だと感心してしまうのだが、旅人である私もまた常に経験していることなのだ。しかし旅人が反芻するのは、旅をした長い時間に経験してきたさまざまな感情、たとえば嬉しかったことや悲しかったことなどであり、風景や情景はそうした感情が呼び覚ますものなのではないかと、私はいつも考えるのである。この本に著者の体験した風景や状況が鮮やかに描き出されているのは、それだけこの旅の中で旅人が言葉では言い尽くしがたい喜怒哀楽を経験しているからこそだと思うのだ。帰国しても常に反芻し続けている著者のさまざまなフィールドでの感情の記憶が、それに連動して鮮明な光景としてよみがえってきているような気がしてならないのである。
私は、著者が最初に興味をもったミティラー画についても、インド北部の少数民族の生活やその生活と切り離すことのできない入れ墨のこともまったく知らずにこの本を読み始めたのだが、正直なところ、そうした民族誌的な記述よりも、女性が一人でインドの少数民族の文化を学ぶことの困難さと、そんな状況においても好奇心を失わずに出会いを求め続ける姿にある種の感動を覚えた。そして少数民族である「かれら」の語りを著者が解釈して表現する手法ではなく、彼らの語りを直接話法で記していく「語り口」に惹き込まれた。
外国人が現地であたたかく迎えられるわけではないということも「かれら」の台詞の中から生々しく伝わってくる。たとえば著者に対して、入れ墨を入れられながら涙を流す少女が「写真を撮っているあんた、そんなに知りたいなら、あんたも入れ墨彫ればいい。(後略)」というくだりは、文化人類学者が読むと、自分にも心当たりがあるようなできごとではなかろうか。
著者の体験は、バリ島を調査する私にとって考えも及ばないほどハードなものである。この本にはさほど触れられてはいないのだが、私はこの旅、あるいはインドの生活の中で、著者が日本にいたときとは比べものにならないほどの凝縮した「喜怒哀楽」を経験してきたのだと想像する。これだけの生活や旅をすれば当然のことだろう。著者は旅の後半、カルカッタへ向かう車窓で「心に残された旅の破片をいつまでも反芻する」という表現を用いている。この文章は、旅人の心模様について、的を得た表現だと感心してしまうのだが、旅人である私もまた常に経験していることなのだ。しかし旅人が反芻するのは、旅をした長い時間に経験してきたさまざまな感情、たとえば嬉しかったことや悲しかったことなどであり、風景や情景はそうした感情が呼び覚ますものなのではないかと、私はいつも考えるのである。この本に著者の体験した風景や状況が鮮やかに描き出されているのは、それだけこの旅の中で旅人が言葉では言い尽くしがたい喜怒哀楽を経験しているからこそだと思うのだ。帰国しても常に反芻し続けている著者のさまざまなフィールドでの感情の記憶が、それに連動して鮮明な光景としてよみがえってきているような気がしてならないのである。