わが国は世界一の長寿国として、世界中から羨まれている。
でも、長生きはそんなに良いことなのだろうか?
せんだって、どこかの女医さんが生命維持装置を外したとして、殺人罪に問われた。もうじき死ぬ人の生命維持装置を家族の懇願にそって外すと、殺人罪になるのがわが国である。
とても尋常な判断とは思えない。
死んだら「無」になると、いつぞや述べた。「無」とは無いことさえ分からない絶対的な「無」である。「無」にとっては宇宙があるとかないとかも問題にならない。
数学的論理も「無」に対しては無効である。どんなに立派な定理も数学論理も「無」に対しては意味がない。
数学的論理は、生きていて「自我」がある人に対してのみ有効である。まず「自我」の存在が前提である。
その「自我」がないところに対して、数学的厳密さとか宇宙の存在を語っても無意味である。
人間は究極のところ、みな平等である。3歳で死んでも、50歳で死んでも、100歳で死んでも同じことである。みんな「無」に帰す。それまであった「自我」なんて、何百年生きたって、死ねばご破算である。
では、医療はなんのためにあるのか?ひとことで言えば、苦しみを除くためである。つまり、生きていて「自我」がある者の苦痛を取るためである。それだけのことである。
医療は決して寿命を延ばすためにあるのではない。そこらへんのことが、最近あいまいになっている。
医療はとりあえず「自我」の苦痛を取るためにあるのであって、長生きさせるためにあるのではないことを、再度確認しておきたい。
でも、長生きはそんなに良いことなのだろうか?
せんだって、どこかの女医さんが生命維持装置を外したとして、殺人罪に問われた。もうじき死ぬ人の生命維持装置を家族の懇願にそって外すと、殺人罪になるのがわが国である。
とても尋常な判断とは思えない。
死んだら「無」になると、いつぞや述べた。「無」とは無いことさえ分からない絶対的な「無」である。「無」にとっては宇宙があるとかないとかも問題にならない。
数学的論理も「無」に対しては無効である。どんなに立派な定理も数学論理も「無」に対しては意味がない。
数学的論理は、生きていて「自我」がある人に対してのみ有効である。まず「自我」の存在が前提である。
その「自我」がないところに対して、数学的厳密さとか宇宙の存在を語っても無意味である。
人間は究極のところ、みな平等である。3歳で死んでも、50歳で死んでも、100歳で死んでも同じことである。みんな「無」に帰す。それまであった「自我」なんて、何百年生きたって、死ねばご破算である。
では、医療はなんのためにあるのか?ひとことで言えば、苦しみを除くためである。つまり、生きていて「自我」がある者の苦痛を取るためである。それだけのことである。
医療は決して寿命を延ばすためにあるのではない。そこらへんのことが、最近あいまいになっている。
医療はとりあえず「自我」の苦痛を取るためにあるのであって、長生きさせるためにあるのではないことを、再度確認しておきたい。