「諦」という字は、元来、「つまびらかにする、あきらかにする」という意味である。「思いを絶つ」という意味はなかった。
明治十八年の国語辞典には、「あきらむ」という語が、ふたつ収録されている。一方は、あきらかに究めるという意味で、「明」の字を当てる。他方は、思いを絶つという意味で、漢字表記はない。
この二語が、語源を同じくするや否やについて、定説はない。暇な人は、高橋某に問うが良かろう。ただ、真実が明らかになれば、誤った思い(執着心)は薄れるから、「あきらめる」ことができるのだという解釈が、一般的である。
明治三十五年に発行された漢和辞典にも、「諦」に、「思いを絶つ」という意味はない。ところが、昭和に刊行された漢和辞典には、「諦」に「思いを絶つ」という意味が登場する。
つまり、明治の初めに存在した「あきらむ」という二つの言葉が、一方は、「明らかになる」方へ変化し、他方が「あきらめる」方へ変化したと言えそうである。そして、その間に、両者が混同されて、「明らかにする」という意味の「諦」の字が、「思いを捨てる」という意味で、使われるようになったらしい。
古い辞書を眺めているだけでも、結構、暇つぶしはできるものである。
明治十八年の国語辞典には、「あきらむ」という語が、ふたつ収録されている。一方は、あきらかに究めるという意味で、「明」の字を当てる。他方は、思いを絶つという意味で、漢字表記はない。
この二語が、語源を同じくするや否やについて、定説はない。暇な人は、高橋某に問うが良かろう。ただ、真実が明らかになれば、誤った思い(執着心)は薄れるから、「あきらめる」ことができるのだという解釈が、一般的である。
明治三十五年に発行された漢和辞典にも、「諦」に、「思いを絶つ」という意味はない。ところが、昭和に刊行された漢和辞典には、「諦」に「思いを絶つ」という意味が登場する。
つまり、明治の初めに存在した「あきらむ」という二つの言葉が、一方は、「明らかになる」方へ変化し、他方が「あきらめる」方へ変化したと言えそうである。そして、その間に、両者が混同されて、「明らかにする」という意味の「諦」の字が、「思いを捨てる」という意味で、使われるようになったらしい。
古い辞書を眺めているだけでも、結構、暇つぶしはできるものである。
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