前回の、「全国遊郭案内」繋がりです。
龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。
青空文庫に収められた樋口一葉の「たけくらべ」の最後です。
私がこの小説を最初に読んだのは、高校生の時でした。京都大学出身の非常勤講師が現代国語の教材として選んだのがこの物語でした。生意気盛りの私は、「これのどこが現代国語やねん!!」とツッコミを入れましたが、完全に無視されました。
主人公の信如と美登利は、14歳くらいで、高等小学校の同級生。信如は寺の跡取り息子、美登利は吉原遊郭で働く姉を持つ娘。二人は、お互いに惹かれながら、幼さゆえに自分の気持ちに正直になれず、小さな行き違いのまま別れます。青春の入り口に立った男女の淡い恋物語の最後が、上の引用文です。勝手に現代語に訳すとこんなものでしょうか。
龍華寺(りゅうげじ)の信如が、自分の宗旨の修行に出るという噂さえ、美登利は聞かなかった。意地をそのまま封じ込めて、ここしばらくの怪しい様に、自分を自分とも思えず、ただ何事も恥かしく感じていた。そんな日々を送っていたある霜の立つ朝、水仙の造花を格子門からさし入れて置いた者があった。誰の仕業か知るよしもなかったけれど、美登利はなぜか懐かしい思いがして、違い棚の一輪挿しに入れて、淋しく清らかな姿をめでた。自然に耳に入ってきた話では、その日の明け方は、信如がどこかの学林で修行僧になる当日だったとか。
今となってはどうでもいい話ですが、私がこの小説に心動かされたのは、中学生の時、本当に好きな人がいたからです。信如同様、自分の気持ちを伝えられないまま卒業し、別々の高校に進学してからは文通をしていました。文通ですよ、文通。今のように格安の携帯もスマホもネットもない時代、親に内緒で公衆電話で山と貯め込んだ10円玉を入れながら、僅かな時間、話をするくらいしかなかった時代でした。
寺の跡取りの信如に感情移入し易かったのかもしれません。相手の女の子が抱えている事情も、うすうす感じていましたし。アハハ。
とにかく、私が遊郭に興味を持ったのは、「たけくらべ」を読んだせいです。変な高校生でしたねえ。