名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

蔵の整理 写真も動画もない時代

2023年09月09日 11時53分26秒 | 教行寺について
住職の娘です。

夏の暑さもピークを越えたようで、朝晩の風に秋の気配を感じる今日この頃です。

暑さがおさまってきたのを機に、蔵の整理と片付けをしています。
私のような素人には難しいことですから、専門家の方からご助言やお手伝いをいただきながら、手をつけ始めたばかりです。

正直、今まで何から手をつけたら良いのかわからずお手上げの状態でした。
上の世代のおかげで、掃除もままならない状態でして…
しかし、この度、おかげさまをもちまして、その方向性が見えてきた上、具体的なことが始められました。
(専門家の先生曰く。ダンボールや茶封筒は酸性のものが多いので、史料を劣化させるらしいです!祖父は知らずに、茶封筒やダンボールに詰め込んでます…汗)

やることがわかってきたら、あとは労働あるのみです。
私ひとりですと1日できることはわずかですが、少しずつ頑張ります!という現状です。

貧乏が長い寺ですので、大抵、世俗的価値の高い物品は失っています。
ですから、私自身、蔵の中身はただ「捨てるに捨てられない物」の保管場所と思っていました。
所謂「ご先祖様」というのでしょうけど、寺で生まれ育った私自身、あまり自分に繋がっている実感がわきません。
もしかすると、物心つく頃から父に
「おまえ、橋のたもとで拾ってきてんで。知らんかったん?」
と何度も言われてきたせいかもしれませんね(笑)

そういう意味では、自坊の蔵に関しても精神的にどこか隔絶された感覚があって、寺院として受け継いできた物品(しかも大したことない)を、今度は私が預かっていくのだという義務感でしかありませんでした。
掃除くらいはしたいので、なんとか一度整理したいという心持ちです。

しかし、歴史や聖教に詳しい方と一緒に蔵の中を見れば、そこには善くも悪くも、真宗の教えのなかで人生をまっとうした人々がいたのだと気がつかされます。

たとえば、昨日、一昨日と連日、開いたこともない木箱を開けて、誰が写したかも不明な『御文章』の写本を見ました。
古びた表紙も奥付もないような写本は、世間的には何の値打ちも無い物だと思います。
しかし、その写本を開いてじっと眺めていると、文字を書ける誰かがこの1文字1文字を筆で写しとった事実があり、その後、その写本を誰かが拝読し、それを耳にしていた人がいた。
そんな記録にも残らない、何気ない日々の営みがあったはずだと思うようになりました。
お念仏に生きた方々の息吹を、ふっと感じるような気がします。

相変わらず、自身には繋がらず、隔たりを感じますが…こうして少しずつ見方を変えて知っていくことで、いつかはご先祖様との繋がりを感じられる日が来るかもしれないと少し期待しています。

この蔵の整理は、写真も動画もない時代との時を超えた「出会い」です。
権威の象徴であるご本山と煌びやかな京の都、そこを起点とした付き合いのあるお寺や僧侶方、そして名塩の村の人々。
そういうさまざまな娑婆のご縁によって生かされた、歴代住職と家族の微かな足跡。
それこそが、当寺の蔵に遺っているもののすべてなのだと思います。

しばらくは祖父の書庫の整理をしつつ、蔵の整理を優先させる日々が続きそうです。

南無阿弥陀仏


住職加筆
「おまえ、橋のたもとで拾ってきてんで。知らんかったん?」
これ、実は私の歪んだ愛情表現でした。未熟児ではなかったけれど、生後しばらく保育器に入っていた娘に、健やかな未来あれと願ったのです。

WIKIに曰く
  • 捨て子はよく育つ - 親の厄年に生まれた子や体の弱い子が誕生した時、形式的にいったん捨てて、すぐ拾うと丈夫に育つという言い伝えがある[12]。この迷信を信じて、豊臣秀吉は子供達の幼名に「捨」「拾」などの名前を与えた。徳川家康の子松平忠輝も捨てられ家臣に拾われた。徳川吉宗も、この迷信から捨てられ刺田比古神社が拾い育てた。

濃すぎる1日 「領解文勉強会」と「阿弥陀経を読む」

2023年09月03日 23時03分49秒 | 仏教・宗門関連
住職の娘です。

2023年8月28日(月)
築地本願寺さんで行われた勉強会に参加しました。

講師・井上見淳(けんじゅん)和上
浄土真宗本願寺派 司教(しきょう)
龍谷大学准教授

◯午前10時〜午後1時
領解文(りょうげもん)勉強会
(主催 東京聞薫会)

領解文勉強会の中で、江戸時代におきた真宗の教義に関する論争の一つ、三業惑乱(さんごうわくらん)の話がありました。

江戸時代中期、西本願寺内で、当時の宗門教学のトップが誤った親鸞聖人の教えを広めたことによって、全国の僧侶や門徒まで巻き込んだ大騒動を「三業惑乱(さんごうわくらん)」と呼びます。
この「三業(さんごう)」とは、身(しん)・口(く)・意(い)のことで、私たち人間のおこないをさします。

少し説明すると、浄土真宗は阿弥陀仏の信心によって浄土に生まれさせていただき救われるという、親鸞聖人の教えをうける宗派です。

しかし、当時の西本願寺教学トップが、身口意(しんくい)の三業、つまり、身では礼拝し、「たすけたまえ」と口にして、心から浄土往生を願って帰依することで救われるという、自らの行いを必要とする説を主張したことが問題の発端となりました。

この教学トップの主張とそれを正そうとする学僧たちの論争は激化し、全国の僧侶・門徒を巻き込み、最終的には幕府の寺社奉行に裁定を委ねざるを得ない事態となります。
そして、当時の教学トップとそれを正そうとする学僧たちに対論させた結果、当時の教学トップの説が誤りであるという裁定が下りました。

門主はその裁定を追認する形で全国に通達を出し、長く続いた三業惑乱は決着します。

この三業惑乱において、当時の教学トップを見事に論破し、事態収束に尽力したひとりが安芸(広島)の大瀛(だいえい)様という学僧です。

講義の話しぶりから、井上和上が大瀛様を大変尊敬しておられるのを感じました。

↑写真は三浦真証著『真宗教学の歴史を貫くもの 江戸時代の三大法論入門』の表紙です。

京都や江戸の寺社奉行所へ出向くため、病身に鞭打って広島の山奥から命をかけて旅をした大瀛様。

親鸞聖人が伝えてくださったお念仏の教えを守るという大役を果たされた後、老母をのこした国許・広島に帰還することなく、今の築地の地にて40代半ばで往生されました。

今、築地本願寺の境内には、その大瀛様のお墓と碑があります。

下記は井上和上が講義の最後に語ってくださった言葉です。
内容は、大瀛様が最後に書かれた国許の母への書簡でした。

『身の行はあしくとも、
 心ざまはあしくとも、
 称名は浮かばずとも、
 ありがたく思ふ心はおこらずとも、
 これでは往生いかがとうたがふべからず。
 この者を助けんとありて、厚くご苦労まします本願よと、
 安堵の思ひに住して御入候へ』


◯午後2時30分〜午後6時
【伝道部公開講座】
「お経の中身をイチから学ぶ ~『阿弥陀経』を読む~」最終回
(主催 東京教区青年僧侶協議会 伝道部)

全4回の公開講座でした。

講義内容としては、註釈版聖典を持ち、浄土三部経の簡単な基礎知識と『仏説阿弥陀経』に慣れ親しんだ方を対象にしたものだったと思います。

私自身、ネットでこの講座を知って申し込み、2回目からオンラインで参加していました。
1回目を逃したようですが、「最終回だけはリアルで受けたい」と願って講座が開講されている築地本願寺に行きました。
やはりナマはすごかったです。

デジタルの小さな画面越しにはない、ピンと糸が張ったような空気感と言葉が響いてきました。

ただ、少し気になったのは…
私たち参加者は座ったままで、講師である和上様が立ちっぱなしということ。
45〜50分講義、その後10分休憩という連続講義でした。

講義中、井上和上(たしか47歳とお聞きしました笑)の気迫に圧倒されつつ、
正直、恥ずかしいような申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

「如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳(おんどく)は 
 身を粉(こ)にしても報ずべし
 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も
 骨を砕きても謝(しゃ)すべし」

そんな恩徳讃の歌声が聞こえてくるような1日でした。

娑婆生活には、誰しもさまざまな制限や優先順位があります。
同時に、切迫した「今しかない」ということもあるでしょう。
そのような中で、こうして二ヶ月連続で築地本願寺に参拝できたことは、私にとって「今しかない」得がたいご法縁でした。

南無阿弥陀仏


✳︎↓領解文勉強会の最後に拝読しました(配布資料の一部)