名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

お彼岸

2024年03月13日 09時37分58秒 | 教行寺について
今年の春のお彼岸についてです。

2024年3月20日(水)が春分の日、つまりお彼岸の中日(ちゅうにち)となります。
彼岸の入りは17日(日)、彼岸明けは23日(日)の一週間がお彼岸ウィークです。

花粉症の方は外出もつらい時期です。
季節の変わり目で心身が重く感じておられる方もいらっしゃるでしょうし、働いておられる方は年度末でとてもお忙しくお過ごしでしょう。

それでも、おかげさまに生かされている命です。
お彼岸の一週間は、今は亡きご縁ある方、ご恩のある方を思い、煩雑な日常から一日10分でも離れて心静かに「今」という時間をお過ごしいただければと思います。



仏事に関して何かございましたら、お気軽にご連絡ください。
勝手ながら、日中は電話に出られないことが多くございます。(これについて、現在検討中です)

夕方以降、夜のほうが住職が在宅しておりつながりやすいと思いますので、お電話は遅めの時間にご連絡いただければ幸いです。
大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。

南無阿弥陀仏

本堂の屋根を一部修繕中☆本堂を通じて思うこと

2024年03月04日 20時49分56秒 | 教行寺について
住職の娘です。

現在、本堂の屋根の一部修繕をおこなっております。
場所は、本堂向かって右手側の前の部分です。
色が変わっている部分です。
原因は雨漏りで、気がつけば木材が腐食しており、小さな木片が落ちてくる事態になっていました。

急遽、業者さんにお願いして工事をしていただいています。

本当に「職人さん!}という感じで、大変有り難いご縁です。
もう、「よろしくお願い致します」としか申し上げることはできません。


名塩教行寺の開基は、8代宗主蓮如上人の頃で、蓮如上人が息子の一人蓮芸に大阪の富田教行寺と名塩惣道場を兼帯させたことが始まりです。

蓮芸の没後、一時「広教寺」となりますが、江戸時代に「教行寺」に復号を許されます。
名塩村内で数度移転しました。
現在の地に移った後、本堂は江戸時代・宝暦11年(1761)に再建されたという記録が残されています。
内陣や屋根、柱など基本的な部分は、再建から263年間ずっとこの場所で同じすがたでした。

この本堂を建立するために苦心した当時の名塩教行寺第六代・寂幽(じゃくゆう)は、山口県まで勧進にまわりましたが赤間関で病に伏し志半ばで亡くなりました。
その遺体は船に乗せられ瀬戸内海を渡って、名塩に帰ってきたそうです。

その住職の院号は「往還(おうげん)院」。
その往還院釈寂幽の願い、名塩の地で阿弥陀如来のとお浄土を感じてほしいという願いは、息子である湛然(たんねん)が父の志を継ぎ、本堂再建という寂幽の願いは果たされました。
当時の教行寺の状況を推測するに、決して恵まれたばかりの人生ではなかったように思います。

しかし、如来のおはたらきの中で娑婆を生き、お浄土へ往生されたのちに、またわたしたちのもとに如来のお慈悲のおはたらきというものを届けてくださっているお方という意味でにおいて、確かに、寂幽は如来のおはたらき(往還)の院号にふさわしい方であるように感じます。

もちろん、現実の寂幽がどういった人柄か、何を思った人生だったかなど知り得ませんし、彼が仏のような人格者だったと夢見ているわけでもありません。
ただ、彼に真実如来のおはたらきがあったからこそ、また、名塩だけでなく西の国にも有縁の方々があったからこそ、いま本堂があってくれるのは事実です。

「浄土とは、如来とは、
そんなことは言葉で言い尽くせるものではない。
そうお経にもちゃんとかかれてある。
しかし、人間(わたし)に言い尽くすことができない、表現できない、想像もつかず見えないからといって、それがイコール「存在しない」「無である」ということではない。
感得していくものだ。」

そうやって話してくださる先生がおられます。

おはたらき、作用、パワー…科学的に測量できるものではないです。
まして、如来のおはたらきとは、超常的なマジカルパワーでもありません。
ただ、先生が仰ることの意味、往還院釈寂幽と彼が願った本堂を通じて、如来というものについて思いを致し自然と頭が下がりました。

南無阿弥陀仏











蔵のこと

2023年10月14日 12時18分00秒 | 教行寺について
住職の娘です。

最近、名塩は秋の気配が濃くなってきました。
暑さが和らいだことで、蔵の整理や片付けも少しずつ進めています。


この度、さまざまなご縁から、浄土真宗、特に歴史・史料研究を専門とされる先生に所蔵品の調査をお願いできることになりました。

少し長期的な計画となる予定です。

祖母をはじめ住職などにも、その意味や価値がわからないものが多く、年代もわからず、なぜ教行寺にあるのか不明な物品もあります。
そのため、今回の蔵の調査が決まったことは所蔵品を預かる身として大変有り難いことであり、その安堵感は言い表すことはできません。

既に、地域史に重要な文書について、兵庫県が大規模な調査を実施しており、教行寺もその対象でした。

昭和50年代から平成にかけて『兵庫県史』が刊行されています。 
その『兵庫県史 第三巻』には蓮如上人の布教と浄土真宗の教線拡大に関する記述があり、名塩教行寺のことも古い写真とともに記載があります。(P.468-469)
また、『兵庫県史 史料編中世四』には「教行寺縁起」(P.6-9)が、『兵庫県史 史料編中世一』には「教行寺文書」(P.475-496)の翻刻が掲載されています。
調査は非常に時間と労力をかけた大規模なものですが、それは兵庫県という地域と歴史に主軸をおいた公的な調査です。

対して、今回の調査は「名塩教行寺の史料」に焦点を当てたものです。
現在わかっている「真宗の歴史」の中に当寺の史料を落とし込むことで、教行寺と所蔵する物品の意義について教えていただくチャンスです。

振り返ってみると、蔵とその所蔵品については、祖父が亡くなった後、どこかでずっと心にかかっていたことでした。

「若いときにだいぶ調べたけど、ここまでが限度やった。
住職はこういうの興味ないから、守るんはお前しかおらんからな。
蔵と書斎のことまかすわな」

「お寺の大事なものについてわかる範囲で調べたノートや資料一式はここに全部置いてあるから、わからんで困ったときは探すんやで」

「わしのことはええから、おばあちゃんのこと頼むで」

がんで余命数ヶ月となった頃の祖父の言葉です。
自分の死後のことについては、それくらいしか言い遺しませんでした。
どれも大仕事で、大学(宗門校ではない)をでてすぐの身には難しいことばかりでしたが…笑

そして、祖父が亡くなり十年以上。
ご縁をいただいた先生は、真宗史がご専門で調査と史料研究において非常に高名な研究者の方ですし、この件に関わってくださる先生方も信頼できる方々です。

このご縁に感謝しながら、所蔵品の内容やその意義を学ばせていただき、蔵の管理や史料の保管方法などご指導いただくことで、今後、これらを預かる者としてその責任を果たしたいと思います。

畑違い故、祖父が最大限努力しても完遂できなかったこと。
時をこえて、ご縁に恵まれ、祖父の願いは叶うのかもしれません。

南無阿弥陀仏


追記
長らく体調不良が続いていた祖母が、今月16日に入院致しました。
祖父が尽力した蔵の整理について非常に気にかけていましたが、今は長々と話をする体力もない状態です。
祖母の回復を願いつつ、蔵のこと、それぞれ疎かにせず大切に時間を過ごしたいと思います。



蔵の整理 写真も動画もない時代

2023年09月09日 11時53分26秒 | 教行寺について
住職の娘です。

夏の暑さもピークを越えたようで、朝晩の風に秋の気配を感じる今日この頃です。

暑さがおさまってきたのを機に、蔵の整理と片付けをしています。
私のような素人には難しいことですから、専門家の方からご助言やお手伝いをいただきながら、手をつけ始めたばかりです。

正直、今まで何から手をつけたら良いのかわからずお手上げの状態でした。
上の世代のおかげで、掃除もままならない状態でして…
しかし、この度、おかげさまをもちまして、その方向性が見えてきた上、具体的なことが始められました。
(専門家の先生曰く。ダンボールや茶封筒は酸性のものが多いので、史料を劣化させるらしいです!祖父は知らずに、茶封筒やダンボールに詰め込んでます…汗)

やることがわかってきたら、あとは労働あるのみです。
私ひとりですと1日できることはわずかですが、少しずつ頑張ります!という現状です。

貧乏が長い寺ですので、大抵、世俗的価値の高い物品は失っています。
ですから、私自身、蔵の中身はただ「捨てるに捨てられない物」の保管場所と思っていました。
所謂「ご先祖様」というのでしょうけど、寺で生まれ育った私自身、あまり自分に繋がっている実感がわきません。
もしかすると、物心つく頃から父に
「おまえ、橋のたもとで拾ってきてんで。知らんかったん?」
と何度も言われてきたせいかもしれませんね(笑)

そういう意味では、自坊の蔵に関しても精神的にどこか隔絶された感覚があって、寺院として受け継いできた物品(しかも大したことない)を、今度は私が預かっていくのだという義務感でしかありませんでした。
掃除くらいはしたいので、なんとか一度整理したいという心持ちです。

しかし、歴史や聖教に詳しい方と一緒に蔵の中を見れば、そこには善くも悪くも、真宗の教えのなかで人生をまっとうした人々がいたのだと気がつかされます。

たとえば、昨日、一昨日と連日、開いたこともない木箱を開けて、誰が写したかも不明な『御文章』の写本を見ました。
古びた表紙も奥付もないような写本は、世間的には何の値打ちも無い物だと思います。
しかし、その写本を開いてじっと眺めていると、文字を書ける誰かがこの1文字1文字を筆で写しとった事実があり、その後、その写本を誰かが拝読し、それを耳にしていた人がいた。
そんな記録にも残らない、何気ない日々の営みがあったはずだと思うようになりました。
お念仏に生きた方々の息吹を、ふっと感じるような気がします。

相変わらず、自身には繋がらず、隔たりを感じますが…こうして少しずつ見方を変えて知っていくことで、いつかはご先祖様との繋がりを感じられる日が来るかもしれないと少し期待しています。

この蔵の整理は、写真も動画もない時代との時を超えた「出会い」です。
権威の象徴であるご本山と煌びやかな京の都、そこを起点とした付き合いのあるお寺や僧侶方、そして名塩の村の人々。
そういうさまざまな娑婆のご縁によって生かされた、歴代住職と家族の微かな足跡。
それこそが、当寺の蔵に遺っているもののすべてなのだと思います。

しばらくは祖父の書庫の整理をしつつ、蔵の整理を優先させる日々が続きそうです。

南無阿弥陀仏


住職加筆
「おまえ、橋のたもとで拾ってきてんで。知らんかったん?」
これ、実は私の歪んだ愛情表現でした。未熟児ではなかったけれど、生後しばらく保育器に入っていた娘に、健やかな未来あれと願ったのです。

WIKIに曰く
  • 捨て子はよく育つ - 親の厄年に生まれた子や体の弱い子が誕生した時、形式的にいったん捨てて、すぐ拾うと丈夫に育つという言い伝えがある[12]。この迷信を信じて、豊臣秀吉は子供達の幼名に「捨」「拾」などの名前を与えた。徳川家康の子松平忠輝も捨てられ家臣に拾われた。徳川吉宗も、この迷信から捨てられ刺田比古神社が拾い育てた。

【ご報告】保護樹木クロマツ伐採

2022年10月15日 08時38分00秒 | 教行寺について

住職の娘です。

私事で恐縮ですが、9月18日に北見の義父が亡くなりました。
その為、なかなか更新できない日が続いております。
申し訳ありません。

そんな中ですが、今日はご報告です。

境内にあった西宮市指定保護樹木クロマツが枯れた為、先日、根元から伐採しました。

過去の関連記事はこちら↓

2021年9月7日 保護樹木クロマツとイチョウの大規模剪定

2022年9月6日 保護樹木クロマツが枯れました

 

枝は大なり小なりどこまでも中心部が空洞になっていて、今年の梅雨を過ぎた頃には幹にまでキノコが生えている状態でした。

残念ながら、回復は見込めません。

これほど大きく立派な松に育つまで、人の一生何人分だろうかと思います。

そして、そんな長い時を生きて、たくさんの人に見上げられてきたクロマツですが、先日の伐採により切り株を残すのみとなりました。

樹木にこのように虚ができて、折れて、枯れていくのは自然の摂理ですが、安全のために人間の都合で「終わり」をきめることには、やはり抵抗があり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

ただ、幸いなことに、低く綺麗に切ってもらったおかげで、保育園のためにはよかったようです。

主任保育士さん(私が30数年前の保育園時代にお世話になった先生)にお話を伺ったところ、「死角が減り、園児の安全に関してリスクが減った」とのこと。

そして、この切り株を、天然の「テーブル」に利用できることです。

クロマツの命の終わりは悲しい。

しかし、その大きな切り株のもとで、これから成長していく子どもさんたちが給食を食べたり、元気に生活してくれている様子を主任保育士の先生と拝見したときには、こうしてたくさんの命の営みが続いていくのだと感じて心からうれしく思いました。

切り株テーブルとして使いやすく、また、より良く保存するため、このクロマツを伐採してくれた職人さんに切り株の追加加工を依頼しています。

 

 

おそらく本堂が建った250年以上前に植えられたと思われるクロマツ。

もう少しの間、私たちを見守ってもらいたいと思います。

合掌

 

 

追記

以下は、伐採の時の写真です。

ギリギリ雨が降らない天候での作業でした。

高所作業1人、クレーン操縦1人、整理運搬作業1人の3人。

片付けまで含めて、9時-5時で仕事を終えてくださいました。




↑クレーンが見えた!
旧国道176号線のマイショップ名塩店横から撮影

↑次に折れる危険性が1番高かったと思われる

↑ここだけなら良い材木のように見える



↑クレーンで吊るしながらでないと刃が入らない幹



↑半分以上土みたい…危険!
そこで違うマツが自生

↑スッキリしました
 


丁寧なお仕事、ありがとうございました!
 
 

テーブルになる予定の切り株
 
追記

 今回、投稿に関して、当方が確認を怠り大変なご迷惑をおかけしてしまいました。関係者の方々に心よりお詫び申し上げます。今後、このようなことが無いようチェック体制を確認して、適切なブログ運営に努めてまいります。誠に申し訳ございませんでした。

2022/11/07