住職の娘です。
現在、本堂の屋根の一部修繕をおこなっております。
場所は、本堂向かって右手側の前の部分です。
色が変わっている部分です。
原因は雨漏りで、気がつけば木材が腐食しており、小さな木片が落ちてくる事態になっていました。
急遽、業者さんにお願いして工事をしていただいています。
本当に「職人さん!}という感じで、大変有り難いご縁です。
もう、「よろしくお願い致します」としか申し上げることはできません。
名塩教行寺の開基は、8代宗主蓮如上人の頃で、蓮如上人が息子の一人蓮芸に大阪の富田教行寺と名塩惣道場を兼帯させたことが始まりです。
蓮芸の没後、一時「広教寺」となりますが、江戸時代に「教行寺」に復号を許されます。
名塩村内で数度移転しました。
現在の地に移った後、本堂は江戸時代・宝暦11年(1761)に再建されたという記録が残されています。
内陣や屋根、柱など基本的な部分は、再建から263年間ずっとこの場所で同じすがたでした。
この本堂を建立するために苦心した当時の名塩教行寺第六代・寂幽(じゃくゆう)は、山口県まで勧進にまわりましたが赤間関で病に伏し志半ばで亡くなりました。
その遺体は船に乗せられ瀬戸内海を渡って、名塩に帰ってきたそうです。
その住職の院号は「往還(おうげん)院」。
その往還院釈寂幽の願い、名塩の地で阿弥陀如来のとお浄土を感じてほしいという願いは、息子である湛然(たんねん)が父の志を継ぎ、本堂再建という寂幽の願いは果たされました。
当時の教行寺の状況を推測するに、決して恵まれたばかりの人生ではなかったように思います。
しかし、如来のおはたらきの中で娑婆を生き、お浄土へ往生されたのちに、またわたしたちのもとに如来のお慈悲のおはたらきというものを届けてくださっているお方という意味でにおいて、確かに、寂幽は如来のおはたらき(往還)の院号にふさわしい方であるように感じます。
もちろん、現実の寂幽がどういった人柄か、何を思った人生だったかなど知り得ませんし、彼が仏のような人格者だったと夢見ているわけでもありません。
ただ、彼に真実如来のおはたらきがあったからこそ、また、名塩だけでなく西の国にも有縁の方々があったからこそ、いま本堂があってくれるのは事実です。
「浄土とは、如来とは、
そんなことは言葉で言い尽くせるものではない。
そうお経にもちゃんとかかれてある。
しかし、人間(わたし)に言い尽くすことができない、表現できない、想像もつかず見えないからといって、それがイコール「存在しない」「無である」ということではない。
感得していくものだ。」
そうやって話してくださる先生がおられます。
おはたらき、作用、パワー…科学的に測量できるものではないです。
まして、如来のおはたらきとは、超常的なマジカルパワーでもありません。
ただ、先生が仰ることの意味、往還院釈寂幽と彼が願った本堂を通じて、如来というものについて思いを致し自然と頭が下がりました。
南無阿弥陀仏