名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

思い出すこと

2023年11月06日 20時49分48秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
娘のお許しが出た寺だよりの原稿

私が「ちえ」に再会したのは、高校生の時だった。1960年代の終わり、彼女はスーパーマーケットのレジで袋詰めの補助をしていた。まだ少し麻痺の残る手で、かいがいしく働いていた。彼女とは、幼稚園で同じクラスだった。かけっこをすると、男子のビリは生来デブの私、女子は運動麻痺のある「ちえ」だった。幼稚園の頃に比べると、彼女の麻痺はかなり軽くなっていた。リハビリという言葉も障害者雇用も一般的でなかった時代、彼女が働くということは、今よりはるかに大変だったに違いない。

もちろん、私もそれなりに一生懸命生きていた。小学校6年生で50mを11.7秒で走っていた私は、中学に入学して柔道部に入り、高校に進学してからは、柔道部の部長になった。しかし、ひねくれたデブの期間が長かった私は、その後、あらぬ方向へ進む。
70年安保闘争の余波は地方の県庁所在地にまで及び、世間はささくれだった雰囲気に包まれていた。岡山大学の学生が、高校の正門でビラを配り、校内に入り込んでアジ演説をしていた。彼ら左翼を投げ飛ばして職員会議にかけられ、チンピラと喧嘩をして、岡山県警の柔道部の先輩に処分保留で助けられたり。

あの頃の私は、青春の隘路に迷い込んで、暗い目をしてさまよっている凶暴な若者だった。そもそも、スーパーマーケットで支払った金も、良からぬ方法で手に入れたものだった。しかし、あの時、スーパーマーケットを出た私は、ほんの少しだけ明るい目をしていたような気がする。

娘にボツにされた寺だよりの原稿

2023年10月08日 09時42分00秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
今夜の海は穏やかです。
で始まるマシューアーノルドの「ドーバービーチ」という詩がある。この詩は、1867年に出版された。
進化論や地質学によって、聖書の記述が疑われるようになったビクトリア朝時代である。
自身と西欧社会の信仰が揺らぐ中、アーノルドは、キリスト教よりはるか以前、ギリシャの作家ソフォクレスを語る。たとえ不安な時代が来ようとも、ギリシャ時代同様に、人と人の関係、愛があれば良いと。

ところ変わって、1877年の日本。東京大学に招聘された米国の動物学者モースは、ダーウィンの進化論を講義した。
モースの日記には、「聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ 、そして 、米国でよくあったような 、宗教的の偏見に衝突することなしに 、 ダーウインの理論を説明できて愉快だった」こと、「教授数名 、 彼等の夫人 、 並びに500人から600人の学生が聴講し、講演を終った瞬間に 、素晴しい 拍手が起り 、私は煩の熱するのを覚えた。」と記されている。キリスト教とその文化を持たない日本人には、揺らぐような信仰はなかったのである。

今年、LGBT理解増進法が制定された。法案成立前には、こともあろうに、アメリカ大使までが「日本社会が発展途上」だのと提灯持ちをしていた。日本と西欧の違いも判らぬバカ大使と噂する者もいた。
日本には、室町時代から男色衆道の習慣があり、江戸時代には陰間(かげま)茶屋が乱立し、平賀源内が『江戸男色細見』、『男色評判記』というガイドブックを書くほど賑わっていた。キリスト教の負の遺産である同性愛に対する偏見など、初手からなかったのである。


武漢肺炎

2020年03月17日 22時02分10秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載

2020年春彼岸の寺だよりに掲載しました。最近、責任逃れのつもりか、中共が自国で発生したのでは無いともとれる発言をしているので、あえて、武漢肺炎と呼びます。

 仏教に「煩悩具足(ボンノウグソク)(ぼんのうぐそく)」という言葉がある。煩悩は、むさぼり、怒り、愚かさなど。それが十分にそなわっていることを煩悩具足という。鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞聖人がよく使われた言葉である。今般の武漢肺炎であぶり出された人間達を観ていると、人間は800年前からあまり立派になっていなことを痛感する。
 厚生官僚は、官邸の鼻息をうかがってWHOに従おうとした。そのWHOは、中国の金ほしさに周近平の意向に沿って、緊急事態宣言を出し遅れた。政府与党は、習近平を国賓として迎えるために中国におもねった。更に、中国と取引のある財界の意向や観光客収入の減少を恐れて、入国禁止で後れをとった。野党は、武漢肺炎の深刻さに気づかず、相変わらず桜祭りに興じた。マスコミは、話が大きいほどおもしろいとばかりに、クルーズ船の感染者まで加えて患者数を水増しし、馬鹿なコメンテーターにあれこれしゃべらせて国民をあおった。それにも関わらず、日本は、一時は中国に次いで2位だった患者数が9位(出稿した時点の順位 令和2年3月17日(火)の時点では17位)まで後退した。これは、偉い人の努力の結果だけではなく、国民一人一人の高い倫理意識と衛生観念のたまものである。買い占めや悪しき噂に振り回されながらも、煩悩具足なりに日本人は頑張っている。

 


お地蔵さんとバッタ

2019年10月23日 21時48分09秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載

10月の寺だよりに掲載しました。

 昔、あるところに片足を失ったバッタがいた。バッタは、なくした足を探し回ったがどうしても見つからない。そこで、村はずれに立っているお地蔵さんに尋ねてみた。「私の足がどこにあるか知りませんか」と。
 お地蔵さんは、「それならこの山を二つ越えた原っぱにあるぞ」と答えた。これを聞いたバッタは喜んで、お地蔵さんに言われたところまで歩いて行った。片足のバッタに山越えは大変だったが、それでもバッタは頑張った。
 お地蔵さんに教えられた原っぱにようやくたどり着いて、バッタは自分のなくした足を探し回ったが、どうしても見つからない。「くそお、地蔵にだまされた」バッタは腹を立てながらお地蔵さんの元へ帰ってきた。
 バッタはお地蔵さんに言った。「あんたの教えてくれたところまで、大変な思いをしながら行ってみたが、私の足は見つからなかったぞ」バッタが文句を言うとお地蔵さんが答えた。
「なくした足は見つからなかったかもしれないが、おまえは、片足で立派に山二つを越えて往復できたじゃないか。一度なくしたら、二度とは得られないものもある。それならば、なくしたものをいつまでも探し回るのではなく、ないものはないと覚悟を決めて生きていくしかないだろう。」

 今となっては、この話を、いつ、どのようにして知ったのかさえ定かではないし、話の詳細までは正確に覚えていない。ただ、「あるがままに物事を受け止める(如実知見=にょじつちけん)」という仏教の根本の教えに近いものがあるので、今も心に残っているのだろう。


折り込みの寺だよりのこと

2019年08月13日 08時38分37秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 今から40年以上前、寺だよりを発行し始めた頃は、蝋引きの原紙に鉄筆で字を書いて、謄写版でわら半紙に印刷していた。当時は折込にするお金がなく、自分で各戸に配布していた。
 今の若い人はわら半紙など知らないだろう。最初は、藁や木綿の繊維を材料にして作られたので、この名前がある。土地によっては、ざら紙と言う。後に、木材チップで作られるようになってからは、少し色のついた低質紙を指すようになった。この寺だよりも、ざら紙である。40年ほど前には、わら半紙の方が上質紙より安かったのだが、現在では上質紙の方が安くなってしまった。印刷機やコピー機の普及によって、紙送りをするゴムローラーを汚すわら半紙の需要が激減したからだ。謄写版(トウシャバン)も、学校などでは当たり前の印刷道具だったが、今では見かけることもあるまい。興味があれば、ネットで調べてみてほしい。コピー機しか知らない若い人はのけぞるかもしれない。
 今では、PCで原稿を作り、印刷屋にメールで送り、折込で入れて、ずいぶん楽ができるようになった。しかし、新しい時代になって、別の問題が出てきた。新聞の発行部数が減っているのだ。日本新聞協会によれば、2018年の発行部数は約3990万部で、2017年に比べると223万部減少している。
 若い人が紙の新聞を読まなくなったせいだという。さて、折込の寺だよりはいつまで続けられるのだろう。ブログを開設して、新しい時代にも対応しようとしてはいるのだが。