名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

2015年8月の寺だよりに掲載しました ゴミ

2016年10月27日 12時17分37秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 家の近くの道を歩いていると、20年前よりも道ばたに捨てられるゴミが多くなった気がする。実際、ゴミが増加したのかはわからないが、現在、道ばたには、たばこの吸い殻、ジュースのペットボトル、カップ麺の容器など多種多様なゴミが捨てられている。これらのゴミは、私たちの生活が豊かになったことを示している。同時に、このように物質的に豊かで恵まれていても、捨てられているゴミを見れば、精神的には貧しくなり、大切な物を捨ててきているようにも感じられる。
 他方で、そういったゴミを拾って片付けてくれている人もいる。学校活動の一環か、早朝、塩瀬中学校の生徒がJR西宮名塩駅付近を掃除をしているのを目にした。心から頭の下がる思いであった。もしかすると、今は「掃除させれている」のかもしれない生徒たち。しかし、いつか大人になったとき、ゴミを捨てない、捨てられているゴミは自然と片付けられる大人になってくれることを願う。また、大人は、そういった子供たちの模範となるよう、ウォーキングの際にゴミ袋を片手に歩くのもよいだろう。
「自分がだしたゴミでもないのに、なんで私がそんなこと」と面倒に思うかもしれない。しかし、そこで、ふと他人のゴミを拾うことができる我が身を喜べた時、そのゴミは恵みとなり、人間として精神的な豊かさを得られるのではないだろうか。 

新発意(後継者)釋尼瑶恵 述

2015年5月の寺だよりに掲載しました 坂村真民

2016年10月27日 12時15分37秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 坂村真民は熊本生まれの仏教詩人。戦後、朝鮮半島から引き揚げて愛媛県に移り住み、高校教師のかたわら、多くの詩を残した。2006年、97歳で逝去。
 彼の詩は、平易な言葉で綴られ解説を必要としない。例えば、こんな一節がある。「二度とないこの人生を/いかに生きいかに死するか、/耳をかたむけることもなく/うかうかとして、/老いたる人の/いかに多きことぞ。」
 特に難しい言葉も言い回しもないが、それでも、彼の言葉は人の心に届き難い。自分のことだとは思わない人が多いから。「オレにはオレの考えがある」と思っている人が多いから。
 実際には、優れた思想家、哲学者、宗教家と、書物を通じて交流を重ねて、自分なりの死生観を鍛えてきた人は少ない。大抵は、聞きかじりの知識に独りよがりの解釈を加えて、自分の考えだと思い込んでいる。そんなものは「考え」ではなくて単なる「思いつき」なのだが、それを言うと、これまた大抵の人は怒るから、狡い坊主はにこにこしながら黙って聞いている。
 まあ、その坊主からして、自分が癌で手術を受けるまでは、結構いい加減に生きてきたなあと思っているから、おあいこ。

2015年3月の寺だよりに掲載しました 榊と樒

2016年10月27日 12時13分39秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
一般には、神棚には榊(サカキ)、仏前には樒(シキミ、シキビ)と言い習わされているが、実際にはそれほど厳密な区別ではない。仏華にも榊を使う宗派がある。榊は、確かに古くから神事に使われてきたが、京都の愛宕神社では、今でも神事に樒を用いている。
 榊の語源は、人と神の境の木「境木」だといわれる。「栄木」「繁木」が語源だとする説もあるが、疑問視されている。
 樒は、葉、茎、根のすべてに毒があり、特に実には強い毒性がある。樒の語源が「悪しき実」だと言われるのはこのためである。
 樒は独特の香りを持つので、水に差して香水として供えたり、乾燥させて香として使われてきた。弘法大師は、インドの青蓮華の代わりに密教の修法の際に樒を使ったという記録がある。樒を木偏に蜜と書くのは、これが由来だとされる。 樒は比較的温暖な地に自生するので、東北などでは、あまり使われず、樒の代わりにヒサカキを墓前、仏前に供える。ヒサカキは榊に似ているが、葉にギザギザのあるのが特徴である。一説には、榊ではないので非榊と呼ばれるようになったとか。当寺でも、昔から、樒がなければヒサカキ(シャシャキと呼ぶ)を墓前に供えている。

2014年10月の寺だよりに掲載しました 地方創生

2016年10月27日 12時11分49秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 私は、岡山の受験校を経て東京の大学へ行った。多くの同級生も大都会の大学へ行き、その地で就職した。岡山では、卒業した大学に見合うだけの就職口が少ない。岡山に留まったのは、医者、公務員、家業の跡継ぎがほとんどだ。だから、高校の同窓会は、今も岡山本部と東京支部と関西支部で構成されている。
 このような状態は、岡山だけでなく、日本全国に共通しているはずだ。しかも、大学生に限らず、中央が地方の若者を集める仕組みは明治以来百年続いてきた。
 それでも、中央から地方へお金が配られていた時代には、人材を送り出す地方にもそれなりの利益があった。たとえ、土建屋経由の公共事業がほとんどでも、地方の経済は潤った。
 しかし、国の財政が逼迫して地方に回る金が減少すると、途端に地方は衰退し始めた。岡山に留まったり帰ってきたりして家業を継いだ同級生も、半分近くが会社や店をたたんだ。地方都市の商店街は、今やシャッター街と呼ばれている。
 ただ、悲観的になる必要はない。志ある者は、これまでも、そしてこれからも、自力で地方から中央へ攻め上ってくるだろう。新潟県柏崎市に生まれたブルボンは、その好例だ。今でも、デパートの地方物産展には、その地方の意欲的な商品が並んでいる。
 最近、地方の活性化に取り組んでいる建築家の安藤忠雄は、今、地方に足りないものは何かと問われて、人だと答えている。地方創生を言うならば、志を持つ若者が地方に留まれる仕組みを作ってもらいたいものだ。

2014年8月の寺だよりに掲載しました 戦争体験

2016年10月27日 12時10分15秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 私が寺を継いだ35年前には、まだ、明治生まれの人が健在だった。今にして思えば、あの人達から、先の戦争にまつわる多くの話を聞けたのは、とても幸せなことだった。
 もちろん、『戦争を知らない若造』扱いされて、不愉快な思いをしたこともある。しかし、そういう人は、自分の経験を元に話すだけで、先の大戦について、自分なりに戦後も学び考え続けてきたわけではなかった。むしろ、自分なりの結論を出せないから、若者に当たり散らしているようにしか見えなかった。
 明治の人達から聞いてきた話は、私にとって財産だが、今更、誰かに伝えようとは思わない。所詮は又聞き。伝聞でしかない。それよりも、虚心坦懐に一つでも多くの証拠に基づく事実を積み重ねて、戦争について知ることの方が大切だ。そうしなければ、明白な証拠もないまま、伝聞だけで、売国奴が怪しげな談話でウソを積み上げかねない。
 私に多くの話をしてくれた明治の人達も、ほとんどお浄土に旅立たれた。若い頃の話をすると昔話になってしまう。それだけ、私も歳をとったということなのだろう。