家の近くの道を歩いていると、20年前よりも道ばたに捨てられるゴミが多くなった気がする。実際、ゴミが増加したのかはわからないが、現在、道ばたには、たばこの吸い殻、ジュースのペットボトル、カップ麺の容器など多種多様なゴミが捨てられている。これらのゴミは、私たちの生活が豊かになったことを示している。同時に、このように物質的に豊かで恵まれていても、捨てられているゴミを見れば、精神的には貧しくなり、大切な物を捨ててきているようにも感じられる。
他方で、そういったゴミを拾って片付けてくれている人もいる。学校活動の一環か、早朝、塩瀬中学校の生徒がJR西宮名塩駅付近を掃除をしているのを目にした。心から頭の下がる思いであった。もしかすると、今は「掃除させれている」のかもしれない生徒たち。しかし、いつか大人になったとき、ゴミを捨てない、捨てられているゴミは自然と片付けられる大人になってくれることを願う。また、大人は、そういった子供たちの模範となるよう、ウォーキングの際にゴミ袋を片手に歩くのもよいだろう。
「自分がだしたゴミでもないのに、なんで私がそんなこと」と面倒に思うかもしれない。しかし、そこで、ふと他人のゴミを拾うことができる我が身を喜べた時、そのゴミは恵みとなり、人間として精神的な豊かさを得られるのではないだろうか。
新発意(後継者)釋尼瑶恵 述
他方で、そういったゴミを拾って片付けてくれている人もいる。学校活動の一環か、早朝、塩瀬中学校の生徒がJR西宮名塩駅付近を掃除をしているのを目にした。心から頭の下がる思いであった。もしかすると、今は「掃除させれている」のかもしれない生徒たち。しかし、いつか大人になったとき、ゴミを捨てない、捨てられているゴミは自然と片付けられる大人になってくれることを願う。また、大人は、そういった子供たちの模範となるよう、ウォーキングの際にゴミ袋を片手に歩くのもよいだろう。
「自分がだしたゴミでもないのに、なんで私がそんなこと」と面倒に思うかもしれない。しかし、そこで、ふと他人のゴミを拾うことができる我が身を喜べた時、そのゴミは恵みとなり、人間として精神的な豊かさを得られるのではないだろうか。
新発意(後継者)釋尼瑶恵 述