坂村真民は熊本生まれの仏教詩人。戦後、朝鮮半島から引き揚げて愛媛県に移り住み、高校教師のかたわら、多くの詩を残した。2006年、97歳で逝去。
彼の詩は、平易な言葉で綴られ解説を必要としない。例えば、こんな一節がある。「二度とないこの人生を/いかに生きいかに死するか、/耳をかたむけることもなく/うかうかとして、/老いたる人の/いかに多きことぞ。」
特に難しい言葉も言い回しもないが、それでも、彼の言葉は人の心に届き難い。自分のことだとは思わない人が多いから。「オレにはオレの考えがある」と思っている人が多いから。
実際には、優れた思想家、哲学者、宗教家と、書物を通じて交流を重ねて、自分なりの死生観を鍛えてきた人は少ない。大抵は、聞きかじりの知識に独りよがりの解釈を加えて、自分の考えだと思い込んでいる。そんなものは「考え」ではなくて単なる「思いつき」なのだが、それを言うと、これまた大抵の人は怒るから、狡い坊主はにこにこしながら黙って聞いている。
まあ、その坊主からして、自分が癌で手術を受けるまでは、結構いい加減に生きてきたなあと思っているから、おあいこ。
彼の詩は、平易な言葉で綴られ解説を必要としない。例えば、こんな一節がある。「二度とないこの人生を/いかに生きいかに死するか、/耳をかたむけることもなく/うかうかとして、/老いたる人の/いかに多きことぞ。」
特に難しい言葉も言い回しもないが、それでも、彼の言葉は人の心に届き難い。自分のことだとは思わない人が多いから。「オレにはオレの考えがある」と思っている人が多いから。
実際には、優れた思想家、哲学者、宗教家と、書物を通じて交流を重ねて、自分なりの死生観を鍛えてきた人は少ない。大抵は、聞きかじりの知識に独りよがりの解釈を加えて、自分の考えだと思い込んでいる。そんなものは「考え」ではなくて単なる「思いつき」なのだが、それを言うと、これまた大抵の人は怒るから、狡い坊主はにこにこしながら黙って聞いている。
まあ、その坊主からして、自分が癌で手術を受けるまでは、結構いい加減に生きてきたなあと思っているから、おあいこ。
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