名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

2006年10月の寺だよりに掲載しました

2016年10月26日 22時23分26秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 于武陵(うぶりょう)は晩唐の詩人。唐代の公務員試験である進士に合格しながら官職に就かず、諸国を放浪したという。彼の詩に「勧酒」という五言絶句がある。

 勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離

 君(きみ)に勧(すす)む 金屈卮(きんくつし)
 満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
 花(はな)発(ひら)いて 風雨(ふうう)多(おお)し
 人生(じんせい) 別離(べつり)足(た)る

 君に、曲がった取っ手の附いた黄金の杯(の酒)を勧める。杯にいっぱいにつがれた酒を、辞退しないでくれ。花が咲けば、風や雨が多く襲ってくるように、人も生きていれば、多くの別離があるものだ。

 作家井伏鱒二は、「厄よけ詩集」で、この詩を次のように訳した。

コノ杯ヲ受ケテクレ ドウゾナミナミ注ガシテオクレ 花ニ嵐ノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 一時、「厄よけ詩集」は、潜魚庵こと中島魚坊の訳を引き継いだと騒がれたが、こと「勧酒」については、井伏の訳が数段優れている。
「サヨナラ」だけが人生だ。50歳を過ぎて、この一句が心にしみる。

2006年10月の寺だよりに掲載する予定でした 絵葉書

2016年10月26日 22時16分24秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 古い大阪の絵葉書を集め始めた。最初は、上方落語の舞台になった場所を、自分で撮影して回っていた。しかし、ファインダーに映る大阪の風景は、空襲後の近代建築ばかり。もはや、上方落語の風情を感じさせてはくれなかった。
 そこで、古い大阪の写真を集めようと考えたのだが、戦前、個人で写真を撮る人は希だったから、ほとんど残っていない。そういうわけで、やむなく絵葉書を集め始めたのである。
 さて、数が集まると、同じ戦前の風景写真でも、撮影された年代が違うことに気づくようになる。そうなると、今度は、撮影年代が気になる。上方落語の世界は、すでに意識から遠ざかってしまっている。
 道頓堀の芝居小屋には、俳優の名前を記した幡(はた)や幟(のぼり)があるので、俳優の生没年から年代が特定できる場合がある。通天閣の周辺、千日前あたりの映画館の写真なら、映画の題名から撮影年代が特定できる。先代の通天閣なら、ライオン歯磨きの広告の有無と、遊園地(ルナパーク)の有無で、ある程度、撮影年代が特定できる等々。
 道頓堀にダンスホールがある写真は、大正時代に限られる。大正天皇がご臨終の時、大阪のダンスホールでは、クリスマスパーティが行われていた。後に、これが不謹慎ということで、大阪では、以後、昭和20年まで、ダンスホールの営業が禁止された。つまり、大阪には、昭和のダンスホールは存在しないのである。

2006年8月の寺だよりに掲載しました 同窓会

2016年10月26日 22時00分11秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 幼稚園から高校を卒業するまで、西日本の小都市に住んでいた。高校卒業後、多くの同級生が大都会の大学を目指した。わずかに地元国立大学に進学した者だけが、地方都市に残った。大学卒業後、出身地に戻ったのは、地元中小企業の跡取りばかり。多くは、大都会でそのまま就職した。
 その結果、同窓会は、中学も高校も、帰省する者の多い盆と正月と決まっている。いずれにせよ、坊主が寺を離れられない時ばかり。おかげで私は、寺を継いでからは、同窓会にほとんど出席していない。
 同窓会に出席しても、間近に迫った定年退職と健康診断の話題が多いらしいが、それでも、会ってみたい人はいる。わざわざ個人的に会うのは不自然でも、同窓会でなら会える人もいる。会ったところで、あの頃に戻れるはずもないけれど、忘れてしまった何かを思い出せるかもしれない。そんな事を考えながら、同窓会の案内メールに、今年も欠席の返事を書いた。
  師も友も 遠き地にあり 孟蘭盆会

2006年5月の寺だよりに掲載しました 格差

2016年10月26日 21時58分05秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 斉藤健は、1959年、東京の小さな写真屋の息子として生まれた。東大経済学部を卒業後、旧通産省に入省。ハーバード大学で修士課程を修了し、通産大臣秘書官を経て、2004年、埼玉県副知事になる。今年47歳。
 大田和美は、1979年、千葉の産業廃棄物処理業者(現在は建設リース会社も経営)の娘として生まれた。高校卒業後、キャバクラ嬢などを経て、父親の会社の役員になり、千葉県会議員になる。今年27歳。
 二人は、先の衆議院千葉補欠選挙で戦い、大田和美が僅差で当選した。有権者の意思を尊重するのは当然だが、それでも、疑問は残る。本当に、これで良かったのだろうか。一方は、40年近く努力を重ねて副知事になった男。他方は、明らかに親の力を借りて県会議員になった女。
 格差の拡大は世界的な潮流だから、逆らえないかもしれない。しかし、格差が広がったとしても、格差が固定しない社会を目指すことは、ある程度可能だろう。格差が広がりつつある時代だからこそ、斉藤に勝ってもらいたかったと思う私は、変人なのだろうか。

2006年3月の寺だよりに掲載しました おはぎ

2016年10月26日 21時53分56秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 最近は少なくなったが、昔、彼岸には、おはぎを供えたものである。粳米(うるちまい)と餅米(もちごめ)を混ぜて炊き、米粒が残る程度につき、一口か二口程度に丸めて餡(あん)をまぶす。小豆餡(あずきあん)の他にも、黄粉(きなこ)や胡麻(ごま)、ずんだ等を塗(まぶ)した。ずんだは、茹(ゆ)でた枝豆を潰して砂糖を加えたもので、「豆打(ずだ)」が訛ってずんだになったと言われている。仙台には、今もずんだ餅という名物が残っている。
 おはぎの語源は、萩の餅で、昔は、秋に供えるものだったらしい。これに対して、春の彼岸に供えるのがぼた餅だった。ぼた餅は、牡丹餅が語源である。
 ところが、このような分け方は、いつの間にか廃れて、次第におはぎとぼた餅の違いが定かでなくなりつつある。菓子屋の店頭でも、両者の区別は曖昧である。地方によっても、おはぎとぼた餅の違いがある。
 漉(こ)し餡ならぼた餅、粒餡ならおはぎという地方もある。彼岸に物騒な話だが、半殺しならおはぎ、皆殺しならぼた餅という地方もある。もっとも、この場合の半殺し・皆殺しは、炊いた米のつき方の話で、米粒が残る程度についたのを半殺し、粒が無くなるまでついたのを皆殺しと呼んでいるだけのことではあるが。