東北の片田舎の県立けせもい高校でピッチャーだったTは卒業と同時に上京し、大洋ホエールズの入団テストに合格して念願のプロ野球選手になった。
とはいえ、甲子園を経験しているわけでもなければ、天賦の才能の持ち主でもない。
二軍のグラウンドで毎日白球が夜の闇で見えなくなるまで練習に明け暮れる生活だった。
翌年、二十歳になった年の夏、成人を迎えた各界の若者たちの対談企画が、とある新聞社から球団に持ち込まれ、なぜかTに白羽の矢が立った。
彼の相手は売出し中の女性歌手だった。
着慣れない背広姿で会場に入って行くと、相手はもう到着していた。
椅子から軽やかに立ち上がった様子は、夏らしい薄手のワンピースから足がすらりと伸びていて、きれいなひとだな、というのが第一印象だった。
彼女のマネージャーは、ウチの大事なタレントを待たせるなんて生意気な、と聞こえよがしに文句を言った。
どちらも多弁な方ではなかったが、かろうじて記事一本分の量がとれ、ちょうど予定の時刻に対談は終了した。
歌手はこれからラジオの収録があるとのことで、マネージャーに急き立てられるようにして退室して行った。
ふと見やると、テーブルの下にTの名刺がぽつんと落ちていた。
オレとは世界が違うからな。そう思うことにした。
けれども、その数日後、二軍の寮に歌手本人から電話があった。
あれから帰ってあなたの名刺を見ようとしたら、落としてきたことに気がついた、本当に失礼してしまい、申し訳なかった、お詫びがてら試合を観に行こうと思う。
Tは驚きながらも、次の登板日を教えた。
当日、バックネット裏に彼女の白い顔を見つけた時はさらに驚いた。
本当に来てくれたんだ。彼は胸が熱くなった。
でも、あれでは日焼けしてしまい、あの厳しいマネージャーさんに叱られてしまうだろう。
そんな余計な心配をしながらも、Tは腕がちぎれるくらい全力で剛速球を次々投げ込んだ。
試合後、川崎球場近くの中華料理店で一緒に食事をとった。
歌手は野球のルールをほとんど知らなかったが、それでもTが各バッターに真剣勝負を挑んでいたのは十分感じたらしく、あなた立派ね、を連発していた。
そんなことが何度か続いた。
ところが、その年の十月、寮の食堂で彼が手に取った新聞の経済欄に、大手ホテルグループの御曹司とあの歌手が婚約した、との短信が掲載されていた。
(つづく)
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。