長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

時空を超えて

2021年06月19日 03時34分34秒 | 歌舞伎三昧
 なんと懐かしい…!!
 
 NHKの伝統芸能鑑賞番組が、いつのころからか少なくなり、現在「にっぽんの芸能」という番組に集約されてしまっているようですが、私が青春を傾けた時代の憧れの名女形・七世中村芝翫(神谷町)の特集を放送しておりました。
 今現在の時点における一般に向けた業界の情報収集のため毎週録画しているだけで、積読ならぬツン録状態になってTVチューナーのメモリーを徒らに増やしているだけだったりもするのですが、深夜に起きだしてうっかり見てしまいました。

 番組序盤で紹介された1976年歌舞伎座の「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」は、立三味線が松島寿三郎師で、我が師匠・杵屋徳衛が前名・勝衛の時代に勤めた舞台の録画でした。本番直前に芝翫丈が「み、水…」とおっしゃって、山台四枚目に居た徳衛の目の前で、おつきの方から水をお飲みになったとか、そのとき、顔がでけぇなぁ、と思ったとか。

 平成2(1990)年の11月歌舞伎座で当時の中村児太郎丈の、清元の舞踊「吉原雀」を観た私は、そのくねくね具合にショックを受け、その印象を三か月ほど反芻しているうちに、神谷町の成駒屋熱、というものにいつしか罹っておりました。
 しかし、若さゆえのミーハー活動に重心を置いてはいけないので、当時から言われていた、いぶし銀の玄人受けする役者である御父君の舞台を見て、本物の芸が分かる人間にならなくてはいけない…!と、小娘なりに心に決めた20代後半だった私は、七代目芝翫丈の舞台を一生懸命見続けたのでした。

 1993年11月、歌舞伎座での芝翫丈の京鹿子娘道成寺は、神谷町の番頭さんに「は列35番」の席を取って頂きました。
 白拍子花子が登場して直後の道行、花道七三のスッポンのある辺りで、筥迫の手鏡で顔を直して懐紙を丸めて客席にぽいと捨てるサービスがあるのですが、その、丸めた懐紙をgetできる権利は、その席に座ったものだけに在ります。
 ファンとしては一世一代のハレの観劇(感激)日…その日のために私は、小紋を新調しました。
 後日、楽屋に伺い、懐紙にサインをして頂きました。
「この懐紙は、今年九十になる伊東屋の双子の会長さんが、御自ら手で漉いてくださったんですよ」と、お話して下さいました。
 歌舞伎座の楽屋は和室ですので畳の間なのですが、神谷町のお部屋には、とても美しいペルシャ絨毯が敷き詰められていました。

 さらに時を移した後日、その先代歌舞伎座の同じ楽屋で、お馬さんがとてもお好きだった神谷町が、ダービーのレース展開になぞらえて、白拍子花子のペース配分のお話を教えて下さった僥倖にもあいました。
 これはオフレコで…とおっしゃった言葉をたがえて申し訳なく存じます。ごめんなさい。

 番組で、三歳の芝翫丈がお祖父様の千駄ヶ谷の五世成駒屋、そして六世歌右衛門丈の三味線で越後獅子でしょうか、ご自宅の稽古場でさらっている貴重な映像を流していました。
 なんて達者な…雀百まで踊り忘れず…という言葉そのままのような。

 ゲスト解説者の渡辺保先生が、芝翫丈を奇蹟の女形と形容し、歌舞伎の最大の魅力である“非合理”さを体現した、類まれな存在感を持つ女形だったとおっしゃって、私も深くうなづきました。
 ペーペーの若輩者には不可侵の、何物にもゆるがせられない芸の厚みと深み、魂の高みがありました。
 くだらない理屈を考えてる間に実践せよ、と、お叱りを受けているような、芸能は、でも、芸術でなくてはならぬ…と、生涯をかけて藝に打ち込む者のみが到達することのできる深淵がそこに、ゆるぎなく存在していました。
 同番組で取り上げられた「春興鏡獅子」も「十種香」も、リアルタイムの舞台で我が脳裏に刻み付けられ、改めて顧みますれば、私が審美眼・価値観の基になっています。
 
 さて、モニターは山科閑居の場を流しておりますが、舞台中継(舞台の記録映像)は、被写体に、こんなに寄ってしまってはいけませんなぁ。
 古典を演じる役者のキモはその全体像、空気感に在ります。こんなに顔をアップにしてもグロテスクでしかありません。
 歌舞伎という芸能の本質を誤って伝えてはいけません。残念です。
コメント
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