長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

伊賀越え(改題・三大仇討③)

2010年12月22日 02時00分00秒 | やたらと映画
 「講釈師、観てきたようなウソをつき」と申します。
 知人は、大正生まれのご母堂から、講談だけは聴いてくれるな、と、小さいときから固く戒められたそうである。しかし、母君自身、お芝居や映画が大好きで、劇場によく連れていってくれたそうだから、もはや手遅れである。
 たぶん、芝居や映画だと、見た目虚構の世界、というのは子ども心にも分かるけれど、釈台の前に座った黒紋付の、立派ななりをして威厳に満ち溢れた講釈師の先生が、張り扇からひねり出す歴史上の人物のもっともらしいお話のあれこれは、説得力があるだけに、子どもに真贋を見極めるのは難しい、本当だと思い込まれたら、歴史の成績は無茶苦茶になってしまう…と、心配なさってのことだったのかもしれない。
 10年ほど前、歴史・時代小説の編集部にいた別の知人によれば、そういう巷談の俗説をシンから本当のことと思い込んで、テレビドラマや小説に、真剣に抗議文書…クレームやらものいいやらつけてくる人々がいて、…いや、まったく、本当に難儀しましたョ…ということだった。
 正史でさえ、のちの権力者によって真実が書き換えられている場合が多いから、みなさん、史料を研究するとき、時代考証に難癖をつけたい気分になっているときは、ご注意なさってくださいませ。
 …今はでも、そういう時代劇上の巷談・通説ですら、ご存知のお年寄りも、この地上には少なくなりましたけれども。

 さて、またもや十日の菊、遅かりし由良之助的所業に及んでしまうのだが、先々週の日曜日は旧暦の霜月七日だった。
 今からざっと380年ほど前、江戸初期の寛永十一年十一月七日、家光が三代将軍となって11年目、西暦でいえば1634年、伊賀は上野の西の口、鍵屋の辻で、仇討があった。
 俗にいう、伊賀越えの仇討、講談調にいえば、荒木又右衛門・三十六番(人)斬り。
 三大仇討、一富士、二タカ、三がこの、伊賀越えの仇討である(一、二の説明は本ブログ5月28日付の「日本三大仇討①」をご参照いただけますれば幸甚)。
 それはなぜかと申しまするに、副主人公の渡辺数馬の家紋が渡辺星(一文字の上に三つ星が載っているデザイン)であるから、という…これも昔仕入れた講談師からの入れ知恵だから、ホントかどうかは知りません。

 「伊賀越え」というと戦国マニアには、本能寺の変のときに、堺で遊んでいた徳川家康が逃避行の伊賀越えを想い出す方も多いかもしれない。
 家康の場合は、茨木から宇治田原を経て裏白峠を越えて信楽を通り、亀山に抜けるというルートだったそうだから、又右衛門のルートとは違う。いわば北ウィングとでも申しましょうか。
 又右衛門・数馬の仇討一行は、大和郡山、奈良を出立して木津、加茂、笠置、島ヶ原そして伊賀上野という、途中から今ある関西本線と同じ、最短距離のルートを進んだ。

 かたき討ちには幾つかのルールがある。血縁上、目上の者は目下の者のかたきを討てない。つまり、父が子のかたきを、また兄は弟のかたきを討てないのだが、この備前岡山藩家中に出来した、渡辺数馬の弟が、同僚の河合又五郎に殺傷された事件。藩侯・池田の殿様の強い要望があって、上意討ちのお墨付きを戴き、数馬の姉婿、つまり義理の兄である荒木又右衛門の助太刀を得て、かたき討ちが叶うことになるのだ。
 そしてこのかたき討ちは、かたきである又五郎の親族縁者が幕府の重臣であったことから、大名である池田家vs江戸幕府の旗本…という周囲を巻き込んで、討つか討たれるかのしのぎ合いという、大がかりな構図へと移っていく。

 お芝居ができたのは仇討から150年ほど経った天明年間の『伊賀越道中双六』で、現代では、外伝であるサブキャラの苦労譚「沼津」がよく上演される。当世の文楽では、住大夫・錦糸の決定版。歌舞伎では、昭和50年前後ごろまでは、道中に見立てて、客席に入って役者が歩き回る趣向が好評で、よくかかったらしい。
 この仇討の物語の本筋は、長谷川伸が昭和10年に新国劇のために書き下ろして、のちに新聞小説で連載された『荒木又右衛門』を基にした時代劇映画『伊賀の水月』で観たほうが、分かりやすいと思う。剣戟の醍醐味である殺陣は、チャンバラ映画の独壇場だ。
 人情に重きを置いた「沼津」とはまた違い、人は自分の置かれた立場においていかにその任務を遂行すべきか、という理性のドラマになっているのだ。

 「ここであったが盲亀の浮木優曇華の花、艱難辛苦はいかばかり、いざ尋常に勝負、勝負!」
 敵に偶然にも天下の大道でめぐり会うことは、まずない。仇討映画はロードムービーだ。めざすかたきの行方はいずこ。数馬の道中は岡山から江戸、そして大和郡山、京都さらに有馬温泉へと及び、又五郎の所在を突き止めるだけで5年の月日が流れていた。
 その間、池田家も備前から因幡に国替えになった。自分の墓前に又五郎の首を供えよ…と言い残して、池田の殿様は帰らぬ人となっていた。

 20歳前後に名画座で観た…大井武蔵野館だったか、建て替える前の文芸坐だったか、それとも竹橋に間借りしていたころのフィルムセンターだったのか…いや、待てよ、三鷹オスカーだったかもしれない…とにかく、私の記憶の中のセピアカラーの映像では、渡辺数馬が、又右衛門に「討ちました…!」と一言いいざま、わああぁぁっつ…と号泣する。
 その慟哭に、映画館の暗がりの中で、もらい泣きした。
 30代になってから、初々しいそのシーンをもう一度観たくて、ただ、数多い映画化作品のどの『伊賀の水月』だったのかが想い出せなくて、鍵屋の辻がらみの映画を何本も観てしまったが、どれもそういう演出ではなかった。資料から推し量るに、又右衛門がバンツマの、戦前の池田富保監督作品らしいのだった。そして数馬役は滝口新太郎。戦前に青春スターとして人気のあった俳優である。

 滝口新太郎は、戦時中満州に応召されて、そしてそのまま帰らなかった。
 日本国内では戦死したものと思われていたが、シベリア抑留中も艱難辛苦を乗り越えて生き延び、そのまま、ソ連邦で晩年を過ごした。彼が骨になって日本に戻ってきたのは、ソ連でめぐり会って結婚した、同邦の女優の手によってだった。
 その女優というのは、戦前、国境を越えてソビエトに亡命した岡田嘉子である。
 岡田嘉子は戦後、昭和50年前後だったろうか、一時期日本に帰国して、その波乱の人生が話題となり、時の人となった。彼女は、共演した男優と駆け落ちして、昭和初期の芸能界を騒がせて、さらに演出家とソ連に亡命したのだ。このとき同道していた演出家はスパイ容疑で処刑された。
 岡田はソビエトの労働者となり、やがてめぐり会って11歳年下の滝口と結婚する。それだけでも、すでに女流講談ネタだが、女冥利に尽きる人生だ。

 かように、講釈師の口から聴く渡辺数馬の話よりもさらに、私が散見する資料でうかがい知った滝口新太郎の生涯は、波乱に満ちていた。
 滝口新太郎と岡田嘉子の、シベリアの水月。…どのような幾星霜であったろう。

 伊賀上野の鍵屋の辻。私が初めて訪れたのは平成初年頃で、伊賀上野城も今ほどに整備されていなかったが、さすが、藤堂高虎が築城しただけあって、本当に美しい城だった。
 石垣が何しろ、美しい。濠の水面から絶妙な角度で屹立する石垣の、あの曲線美は、コカコーラの瓶とはまた違った、硬派な曲線の美だ。伊賀上野の城下には、この20年間に、数回行っている。
 そしてまた、大和郡山へも、アジサイで有名な矢田寺行も含めて、3回以上行っている。

 こう書き進んできたが、先に述べた三者三様の人生譚だけでなく、私自身の歴史紀行・伊賀越え道中の話も絡んでくるので、一日分の日記とするには収拾がつかない。
 「さてさて、これからが面白い、これからが山場なのですが……この続きは明晩!」
 人生は短いようで長く、長いようで短い。おのおのの人生を、さて、なんと言うたらよかろやら。

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