大晦日の前日、突然の体調不良に陥り、吐き気もして寝込んでしまっ
た。少し熱も出たので風邪の一種かとも思う。インフルではなさそう。
食当たりっぽくもあり、胃がむかつき食べては嘔吐するので、風邪薬
と漢方薬を飲んで、ひたすらダウンしていた。
やることない風邪の無聊で、TVを付けたり消したり。「紅白」を少
し観たが、あいみょんが観たかっただけだが、あまり彼女冴えてなか
った。紅白歌合戦はいつもほとんど観ないが、久しぶりな感じで観る
と、大分NHKっぽさが退色して、肩の力が抜けた空気を感じた。
昭和の頃の「紅白」はもっと厳粛というか、観客もセキひとつしない
緊張感にあって、司会者の方も笑顔の陰でピリピリしていた。進行が
押してくると、最後の方に出演する歌手が「マキ」で歌ったり、エン
ディングの「蛍の光」がちょん切れて、忙しく「ゆく年くる年」に切
り替わるという、せわしないものが時にあった。
(今となっては、あの昭和の「せわしなさ」もちょっと懐かしい。)
本日2019年元旦。陽射しも好く程々に暖かな日。
今年、我が家は喪中なので、正月は祝わない。
体調も復したので、いつもの朝食を摂りシャワーに入り、私宛に年賀
状が2枚来てたが、花束を持って、自転車で近所のお寺へ墓参。
寒寒とした墓苑に佇み、花を添え線香を焚く。正月なのでカップ酒も
捧げて、合掌。ご先祖様は、ご機嫌如何だろうか。健やかだろうか。
年末当たりから「平成最後の××」みたいなフレーズをTVでよく耳
にした。あるまとまった年数を元号で括り意味づけすることに何の意
義があるのだろうとは思う。これが日本式の総括の単位であり、回顧
の仕方なのである。ただの風習であるが、そうとも侮れない力がある。
「昭和」は戦争と繁栄の時代、「平成」は敢えて括れば、ポスト繁栄
の時代としての、保守的な「安定」期の時代だったと思う。近代とは
組織化された力(軍事力等)と制度化されたカネ(資本)の時代である。
この近代化の推移の特徴は、武力(暴力や独裁)中心の時代から、カネ
(産業資本や国際資本)中心の時代へと行き付いたことだと思う。
今尚、多くのおカネが世の中を巡るよう経済を廻すことが、国家や政
治の使命かのようである。また平成末期の集約的表現は、権力者への
「忖度」という情けない言葉であった。平成の次代には、おカネの速
足よりも、平等な気配りや分配、他者への「愛」が世の中を自然に廻
すような社会へとシフトさせていくべきであると思う。
私は「愛」などとキザな事を語りたい訳でも宗教家でもない。今後の
日本社会ではカネ(予算)は絶対的に不足する。日本の経済規模も大幅
に縮小する。災害や介護その他、社会的な基幹部分でもボランティア
のような無償労働に頼る必要が増えると思う。(無償労働とは言え、
資金や報償がクラウド・ファンディング等を通じて供給されるとか。)
私のいう「愛」とは、そのような他者への社会的営為の話である。
平成の次の時代が、愛(情)で廻った社会の時代として、数十年後に総
括回顧されるなら全く素晴らしい、新たな人類史の始まりである。
…いささか、先走り過ぎですけど。では、どちら様も良いお正月を!
た。少し熱も出たので風邪の一種かとも思う。インフルではなさそう。
食当たりっぽくもあり、胃がむかつき食べては嘔吐するので、風邪薬
と漢方薬を飲んで、ひたすらダウンしていた。
やることない風邪の無聊で、TVを付けたり消したり。「紅白」を少
し観たが、あいみょんが観たかっただけだが、あまり彼女冴えてなか
った。紅白歌合戦はいつもほとんど観ないが、久しぶりな感じで観る
と、大分NHKっぽさが退色して、肩の力が抜けた空気を感じた。
昭和の頃の「紅白」はもっと厳粛というか、観客もセキひとつしない
緊張感にあって、司会者の方も笑顔の陰でピリピリしていた。進行が
押してくると、最後の方に出演する歌手が「マキ」で歌ったり、エン
ディングの「蛍の光」がちょん切れて、忙しく「ゆく年くる年」に切
り替わるという、せわしないものが時にあった。
(今となっては、あの昭和の「せわしなさ」もちょっと懐かしい。)
本日2019年元旦。陽射しも好く程々に暖かな日。
今年、我が家は喪中なので、正月は祝わない。
体調も復したので、いつもの朝食を摂りシャワーに入り、私宛に年賀
状が2枚来てたが、花束を持って、自転車で近所のお寺へ墓参。
寒寒とした墓苑に佇み、花を添え線香を焚く。正月なのでカップ酒も
捧げて、合掌。ご先祖様は、ご機嫌如何だろうか。健やかだろうか。
年末当たりから「平成最後の××」みたいなフレーズをTVでよく耳
にした。あるまとまった年数を元号で括り意味づけすることに何の意
義があるのだろうとは思う。これが日本式の総括の単位であり、回顧
の仕方なのである。ただの風習であるが、そうとも侮れない力がある。
「昭和」は戦争と繁栄の時代、「平成」は敢えて括れば、ポスト繁栄
の時代としての、保守的な「安定」期の時代だったと思う。近代とは
組織化された力(軍事力等)と制度化されたカネ(資本)の時代である。
この近代化の推移の特徴は、武力(暴力や独裁)中心の時代から、カネ
(産業資本や国際資本)中心の時代へと行き付いたことだと思う。
今尚、多くのおカネが世の中を巡るよう経済を廻すことが、国家や政
治の使命かのようである。また平成末期の集約的表現は、権力者への
「忖度」という情けない言葉であった。平成の次代には、おカネの速
足よりも、平等な気配りや分配、他者への「愛」が世の中を自然に廻
すような社会へとシフトさせていくべきであると思う。
私は「愛」などとキザな事を語りたい訳でも宗教家でもない。今後の
日本社会ではカネ(予算)は絶対的に不足する。日本の経済規模も大幅
に縮小する。災害や介護その他、社会的な基幹部分でもボランティア
のような無償労働に頼る必要が増えると思う。(無償労働とは言え、
資金や報償がクラウド・ファンディング等を通じて供給されるとか。)
私のいう「愛」とは、そのような他者への社会的営為の話である。
平成の次の時代が、愛(情)で廻った社会の時代として、数十年後に総
括回顧されるなら全く素晴らしい、新たな人類史の始まりである。
…いささか、先走り過ぎですけど。では、どちら様も良いお正月を!