今年、介護していた母が他界した。ふた親を看送って、家に残るは私
ひとりとなった。私にとっても新しい人生の始まりという訳である。
であるが、何か希望もなければ、前途も不明で方向も見えてないので
ある。今遺産相続がやや紛糾しているが、私はただ、ポカンとしている。
相続の方向次第では、今住んでいる家を立ち退かないとならない。
私はこの家に住み続けたいのだが、きょうだいで土地を分割する
となると、配分の関係で難しい切り取りとなるのである。
何にせよ、家があるということは、アリガタイことだとつくづく思う。
どんな時でも、何処にいても、帰るべき家があることは、掛け替えのない
安心とやすらぎだと思う。おカネがいくらあっても、家がないことは不安
である。私の言っている家とは、物理的なモノよりも、精神的なモノとし
ての、こころの拠りどころとしての、「家」=自分みたいなものである。
我が家は建坪30坪、築35年。永の年月住み慣れた家である。高級住宅
とは程遠いありふれた庶民の家屋であるが、この慣れ親しんだモノと決別
しがたい。ヒトによっては、家を簡単に住み替えるようだが、私はモノに
は愛着を深めるタイプの人間なのかもしれない。
ひとり暮らしの古民家なので、いつかは「家じまい」をせねばならない。
せめてあと10年位は、物故した祖父母・父母の思い出の残る、この家に
、この家と暮らしたい。そんな想いが、どうにも他のきょうだいに共感さ
れないのが、淋しいものである。
先日NHKの番組で、AI(人工知能)について某哲学者の方が語っていた。
AIを問うことは、新めて人間とは何かを問うことである。それが番組の
キーでもあった。その時私は、「人間とは精神(又はこころ)である」と思
った。某哲学者の方のお答えの半分であるが、「人間とは歴史である」と
も思う。
人間はやがて、AI(という環境世界)の中に、住むようになるのかもしれ
ない。しかし人間にとってAIとは、そんな「家」たり得るのか。
私が感じる「家」も、精神であり歴史である。人間的な顔をしているのだ。
はたしてAIとはそれ自体、精神であり、歴史たり得るのだろうか?
話がおかしな場所に、転がり出てしまったようだ。
こうやって、落ち着いてモノを考えられる居場所こそ、
掛け替えのない「私の家」なのである。
ひとりとなった。私にとっても新しい人生の始まりという訳である。
であるが、何か希望もなければ、前途も不明で方向も見えてないので
ある。今遺産相続がやや紛糾しているが、私はただ、ポカンとしている。
相続の方向次第では、今住んでいる家を立ち退かないとならない。
私はこの家に住み続けたいのだが、きょうだいで土地を分割する
となると、配分の関係で難しい切り取りとなるのである。
何にせよ、家があるということは、アリガタイことだとつくづく思う。
どんな時でも、何処にいても、帰るべき家があることは、掛け替えのない
安心とやすらぎだと思う。おカネがいくらあっても、家がないことは不安
である。私の言っている家とは、物理的なモノよりも、精神的なモノとし
ての、こころの拠りどころとしての、「家」=自分みたいなものである。
我が家は建坪30坪、築35年。永の年月住み慣れた家である。高級住宅
とは程遠いありふれた庶民の家屋であるが、この慣れ親しんだモノと決別
しがたい。ヒトによっては、家を簡単に住み替えるようだが、私はモノに
は愛着を深めるタイプの人間なのかもしれない。
ひとり暮らしの古民家なので、いつかは「家じまい」をせねばならない。
せめてあと10年位は、物故した祖父母・父母の思い出の残る、この家に
、この家と暮らしたい。そんな想いが、どうにも他のきょうだいに共感さ
れないのが、淋しいものである。
先日NHKの番組で、AI(人工知能)について某哲学者の方が語っていた。
AIを問うことは、新めて人間とは何かを問うことである。それが番組の
キーでもあった。その時私は、「人間とは精神(又はこころ)である」と思
った。某哲学者の方のお答えの半分であるが、「人間とは歴史である」と
も思う。
人間はやがて、AI(という環境世界)の中に、住むようになるのかもしれ
ない。しかし人間にとってAIとは、そんな「家」たり得るのか。
私が感じる「家」も、精神であり歴史である。人間的な顔をしているのだ。
はたしてAIとはそれ自体、精神であり、歴史たり得るのだろうか?
話がおかしな場所に、転がり出てしまったようだ。
こうやって、落ち着いてモノを考えられる居場所こそ、
掛け替えのない「私の家」なのである。