脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「私の家」。

2018年12月24日 19時37分50秒 | 近況
今年、介護していた母が他界した。ふた親を看送って、家に残るは私
ひとりとなった。私にとっても新しい人生の始まりという訳である。
であるが、何か希望もなければ、前途も不明で方向も見えてないので
ある。今遺産相続がやや紛糾しているが、私はただ、ポカンとしている。

相続の方向次第では、今住んでいる家を立ち退かないとならない。
私はこの家に住み続けたいのだが、きょうだいで土地を分割する
となると、配分の関係で難しい切り取りとなるのである。
何にせよ、家があるということは、アリガタイことだとつくづく思う。

どんな時でも、何処にいても、帰るべき家があることは、掛け替えのない
安心とやすらぎだと思う。おカネがいくらあっても、家がないことは不安
である。私の言っている家とは、物理的なモノよりも、精神的なモノとし
ての、こころの拠りどころとしての、「家」=自分みたいなものである。

我が家は建坪30坪、築35年。永の年月住み慣れた家である。高級住宅
とは程遠いありふれた庶民の家屋であるが、この慣れ親しんだモノと決別
しがたい。ヒトによっては、家を簡単に住み替えるようだが、私はモノに
は愛着を深めるタイプの人間なのかもしれない。

ひとり暮らしの古民家なので、いつかは「家じまい」をせねばならない。
せめてあと10年位は、物故した祖父母・父母の思い出の残る、この家に
、この家と暮らしたい。そんな想いが、どうにも他のきょうだいに共感さ
れないのが、淋しいものである。

先日NHKの番組で、AI(人工知能)について某哲学者の方が語っていた。
AIを問うことは、新めて人間とは何かを問うことである。それが番組の
キーでもあった。その時私は、「人間とは精神(又はこころ)である」と思
った。某哲学者の方のお答えの半分であるが、「人間とは歴史である」と
も思う。

人間はやがて、AI(という環境世界)の中に、住むようになるのかもしれ
ない。しかし人間にとってAIとは、そんな「家」たり得るのか。
私が感じる「家」も、精神であり歴史である。人間的な顔をしているのだ。
はたしてAIとはそれ自体、精神であり、歴史たり得るのだろうか?

話がおかしな場所に、転がり出てしまったようだ。
こうやって、落ち着いてモノを考えられる居場所こそ、
掛け替えのない「私の家」なのである。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クィーン初来日コンサートの... | トップ | 2019年正月。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

近況」カテゴリの最新記事