脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

母の三回忌に。

2020年09月06日 21時48分43秒 | 随想
九州地方に前例のない規模の台風が接近しているとかで、関東までも天気
が悪い。回忌法要の都度、お寺には果物のカゴ詰めと日本酒をお供えに納
めるのだけど、今回は雨を懸念して、前日にこれらとお墓の供花を持って
お寺に出向き、ついでにお布施(5万円)を払った。

母が亡くなって丸2年。早いとも遅いとも何とも言えない。赤ちゃん返り
をしたかのような、最晩年の母を想い起すと、何ともいとおしいような、
切ないような気分になる。私も赤子の頃には、母にそうして貰ったような
ことを、今度は私が、幼児になったような母にお返しをしている。そんな
時間の逆転した反復、立場の転倒が、親子の因果か、因縁めいている。

老親介護とは、親子であることの因果が、時に転倒した縁起となり、時間
が逆流したり役割が入れ替わったりと、時が奇妙な刻みとなり、その奇妙
な捻じれに、ふと懐かしさを覚え、嵌まり込んでしまうことがある。老親
が開けた情愛の穴に落ちてしまうしかないように、少し心地よくて、つい
大昔の時間の、転倒されて立場を変えた、その反復に誘い込まれてしまう。

懐かしい母も、父も、もういない。赤子の、幼児の私も、遠い過去の話だ。
生きているのは、「今」という時間であり、この場所であるのに、想いには
時制はない。想念は時空を歪める。想念の作用による、どんな「今」を生き
ていようと、死んでいようと、人は自由である、と思う。でも追憶に甘え、
閉じてしまうのは、未来が過去の反復になり、新鮮さやら創造性をむしばん
でしまう。飛ぶためには、断固として、<切断>を!

過去を、或いは過去形となった人を、いとおしむ、いつくしむ、追想し祈念
する。感謝を抱く。人として大切な気持ちである。それのみが、人を人たら
しめる本源的な心の在り方でもある。仏教に仮託した法事・法要の営みは、
そこに働かねばならない、と思うが、形式化と仏事サービス業化してゆくだ
けなのだろう。法要だの「仏事」さえ無くなっていきつつある。それも万物
流転という相の、ひとつに過ぎない。すべてが<無常>なのだから。

<無常>にあって、有常なる私も<無常>へと、次第次第に溶けて流れて、
想い出という幻を懐かしみながら、やがては露と消えゆく。消えゆく先?
次はあるのか? あの世だの来世だのと‥。そんな幻も、また楽しいかなと。

写真でのように、さぁにっこり笑って。そう。そうして生きていれば、
それで全て。あとは、さようならするだけ。
命。掛け替えのないものだけど、
人の一生は、宇宙時間からすれば、一瞬。
次々とやって来ては、一瞬で燃え、そして尽きる命。
みんな、この地上で、そんな命をやってるだけだから。
最期まで、とにかく、生きてみるだけ。どうせ死ぬんだから‥。





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