
昨日は才川通りに立ち寄りました。今はもう仕舞ってしまった古い木造の商家の硝子戸がきちんと磨かれていて周りの景色を映し出していました。ガラスも古そう、映し出された景色が微妙に歪んでるんです。
面白いんで、自分を映してみました。
軒が少し波打ってます。屋根の鋼板がさびてます。でも硝子戸はきれい、なにを商ってた店かな、覗いても分かりません、土間ではクンシランがオレンジ色の花を咲かせていました。
天川の戦災住宅から清王寺町の家に越してきたのは1950年のことです。才川通りにはよくお使いに来たのですが、この建物が何屋さんだったかは記憶に残ってません。
公園があります。この公園があるところは繭の乾燥場があったところです。群馬で生産されたお蚕さんの繭は、ここにあった工場で熱処理され中のサナギを殺します。それから乾燥させて、『乾繭(カンケン)』として製糸業者や仲買人の手へ渡されていくんです。才川通りの南、琴平町の通りを渡った先には『乾繭取引所』という乾繭を取引する市場もありました。
その公園の入り口に、萩原朔太郎の『才川町 〜十二月下旬』の詩碑があります。
この北に向へる場末の窓窓
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。
朔太郎は詩中で才川町をこんな具合に表現しています。この詩が収録された詩集『純情小曲集』(1925年(大正14年)刊)の序文で「「郷土望景詩」十篇は、比較的に最近の作である。私のながく住んでゐる田舍の小都邑と、その附近の風物を詠じ、あはせて私自身の主觀をうたひこんだ」と書いています。
昔は床屋だったと思います。仕舞ってからずいぶん経ちます。使われないまま放置されてます。
確かに、才川通りの今は『場末』の雰囲気です。
このまちが前橋市に合併されたのは1889年(明治22年)のことです。それまでは才川村、前橋でなかったんです。でもね、この村を合併してから前橋は大きく変わりました。
田んぼは埋立てられ、次々と製糸工場が造られ、前橋の製糸業の中心地になるんです。大正時代の中ごろには、才川町を中心として40を越す製糸工場があったんです。そして女工を中心に多くの労働者が新潟や東北から働きに来てたんです。
才川通りの一本西には佐久間川沿いの路地があります。そこに『のぼり亭』といううなぎ屋さん、昨日の昼飯は少し贅沢しました。
「ご主人ちはさ、弁天通の『北爪』の出なんだって?」
「そう、先代がね北爪で働いてたんさ、それで、50年ほど前にここで独立してさ…」
「北爪にいたんは先代さんなんだ」
「親戚だったんですよ、北爪とうちとは…」横からおかみさん…
「オレはさ、学校にあがる前に天川から清王寺に越してきて、よくこのまちへお使いさせられてたんさ。もう60年以上前のことだけど…」
「その頃はまだ賑やかだったいね」
「今井って魚屋だのさ、八百屋はなんてったけな、何軒もあったいね…」
「そうさね、八百屋は5.6軒もあったかな、魚屋は3軒かな…」
「薬屋も、お医者さんもこのまちだったいね…」
そうなんです、私が清王寺に越してきたころの才川通りは店屋が軒を連ねてて、その中には神田農機具店とか、杉本肥料店とか、大きな店もあったんです。神田農機具は天川原町の方へ越したけど、杉本肥料店は今もあります。
普段の買い物は十分に間に合う商店街でした。たくさんの人たちが買い物してました。
写真は、お茶屋さんだったと思います。
大正時代から戦争前までは、製糸工場で働く人たちの商業娯楽地として栄えた町なんです。商店や飲食店、旅館なんかだけでなく、『厩橋劇場』という名の芝居小屋もあったんです。
私が子どもの頃の七夕まつり、才川通りの竹飾りは見事でしたよ。通りを覆うように竹飾りのアーチが連なって、行燈と吹き流しが揺れてました。朔太郎の詩の『場末』のイメージは私にはよく分からなかったんです。
大正時代には、このまちを往来する人々の数は一日2万人を超えたこともあると記録されてるらしいです。
のぼり亭のご主人とおかみさんと、しばらく昔話をしてました。
18歳でこのまちを出て、26歳で戻って来たのですが、そのころの才川町には、少年時代の私の記憶のほとんどが消えていました。繭の乾燥場はなくなり、製糸工場も閉まっちゃってました。
長屋の玄関先に糸繰機を置いて湯気をもうもうと立てて糸を繰っていたおばさんたちの姿も見られなくなってました。すっかり変わってました。
猫に会いました。愛想なしです。声かけてもこちらを見てもくれませんでした。
佐久間川沿いの家に鯉のぼりがあがってました。
朔太郎の『場末』の意味は町はずれの寂れたところという意味でないのかもしれません。分からないです。
朔太郎が前橋で暮らしていたころ、才川町は賑わいへ向かってひた走っていたはずなんです。このまちが静かになったのは、朔太郎が亡くなり、この国が戦争に負けてからのことなんです。
南へ下って、旧琴平町の通りを渡ると、煉瓦造りの旧安田銀行担保倉庫が遺されています。このまちが製糸業で栄えていた標です。
その前に前橋日英堂というパン屋があります。前橋の老舗ですが、長くやっているということよりも、前橋で最初にアレルギー対応パンを商品化してくれたパン屋さんなんです。今も真剣に取り組んでくれてます。ありがたいことです。
城東町2丁目で暮らす猫です。帰り道に出会いました。
<なんでそんなことしてんの…>
「今度さ、若い人たちにこのまちのことを少しだけ話すんだよ。何を話そうかなって考えてたんだ…」
それとね、野菜をチェックしたらタマネギが芽を出してしまってました。そいで、あわててカレーに加工して食べちゃいました。ご飯は冷凍しといたのでカキ菜入りのバターライスです。
夜、お話しの中身のデータをチェックしてたら、キキが隣でずっと寝ないでいました。どうやら夜食が欲しかったらしいのです。体調良いみたい…
直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
第74回美登利会にお越しいただいた皆さま、誠にありがとうございます。心より御礼を申し上げます。
来春は75回目の節目を迎えますが、4月8日に開催できますよう既に会場を確保いたしました。これからもしっかり精進いたしますので、引き続きよろしくご贔屓いただきますようお願い申し上げます。
4月9日の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす。
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください。